DISH// 北村匠海、半生のすべて。孤独とは、音楽とは、バンドとは、仲間とは、未来とは――今、その目に映る虹色の夢、そこに至る25年の歩みを初めて語る

DISH// 北村匠海、半生のすべて。孤独とは、音楽とは、バンドとは、仲間とは、未来とは――今、その目に映る虹色の夢、そこに至る25年の歩みを初めて語る

オーディションでは最初に名前と所属事務所を言うんです。でも俺、勝手がわからないから、家の住所を言ったんです、「練馬区◯丁目に住んでます」って(笑)

――北村さんは小3の時にスカウトされて、現在も所属している事務所に入ったわけですよね。その時はそれをどんなふうに受け止めていましたか?

「その頃の自分は女の子みたいな見た目だったんです。こんな濃い顔じゃなかったんですよね(笑)。髪も長くて。だから女の子だと思われてスカウトされることもあって。ありがたいことに、ほかにもスカウトされることがよくあったんですけど、その中で、なぜか親には『スターダストプロモーションはしっかりしてる』という認識があったみたいで、スターダストなら子供のうちに礼儀も身につくし、いいんじゃないかと。で、スカウトされたあとに事務所で面接があって。そこで初めて思い知ったんですけど、小学校という社会の中ではすごくイキイキとしていた自分が、一歩外に出るだけで一言もしゃべれなくなってたんですよ。俺、面接で一言もしゃべんなくて。何聞かれても黙っていて」

――ひとりだけで事務所の方と面接を?

「そうです。次々に質問を受けて、でもそれに対して何も答えないし、首も動かさないから、『この面接で一言もしゃべらなかったのはあなただけです』って。それで面接が終わったんです。そしたら宣材写真撮って、演技レッスンとダンスレッスンに行ってくださいって言われて。テレビの世界に憧れることもなかったし、芸能界で将来生きていくみたいな気持ちはまるでなかったけど、ただ、年間100とか200とかオーディションを受けていて。毎週のように学校終わったらオーディションに行ってました」

――それはどういう気持ちでした?

「最初はやっぱり苦痛でした。緊張するし。めっちゃ怖かったです。今も覚えているのは、オーディションでは最初に自己紹介として名前と所属事務所を言うんですよね。でも俺、初めてのオーディションで勝手がわからないから、家の住所を言ったんです(笑)。誰も教えてくれなかったから。『練馬区○丁目○○に住んでます』って部屋番号まで言って(笑)。そこに住んでいる『8歳の北村です』って。とにかく怖かったんですよ」

――そんな中、小学4年生の時に初めてのCM出演が決まって。

「ミニバンですね。『わーお』ですね(笑)」

――そうそうHONDAの。それが決まった時っていうのはどういう気持ちでした?

「オーディションに受かるっていうことがどれだけすごいことかっていうのも当時はわかんないっていうか。そもそも芸能界を目指して入ったわけじゃないし。撮影というものがあるというので、すっごい山奥のレトロなホテルに母ちゃんと泊まって。カメラの前ではぶるぶる震えてました。今じゃもう当たり前の光景なんですけど、照明さんや音声さんやカメラマンさん、とにかく人がいっぱいいて。でっかい機材を見るのも初めてだったから怖いなあって」

――中学生になって、RADWIMPSの“携帯電話”のMVに出演したのが、またひとつ大きな出来事でしたよね。そして北村さんは、RADWIMPSの曲でいちばん心に刺さったのが“有心論”で、その曲で、音楽を聴いて泣くという経験を初めてしたと前に話してくれました。《誰も端っこで泣かないようにと/君は地球を丸くしたんだろう?》っていう歌詞に心を鷲掴みにされたと。なぜこの歌詞に心を掴まれたんでしょう?

「自分の人生の遍歴で言うと、僕は中学に入ってからものすごく暗くなるんですよ。暗黒期。どん底。だからすごく孤独だったんでしょうね。小学校のアットホームだった空気から一変して、また違う社会に身を置いて。孤立していたというか。だから“有心論”を聴いた時にすごい安心感があって、勝手に仲間を見つけたような気持ちになって涙が出たのかな。すごく自分の拠り所となる曲でした」

――中学時代は小学生時代と何が大きく変わってしまったんでしょう。

「芸能やってるとどうしても好奇の目で見られるし、当時は『2ちゃんねる』とかネットの掲示板が流行りだしていて、学校の裏掲示板なんかもあったりして。まあ、そこでいろいろ大変だったっていうのとか。もちろん友達もいたし楽しい思い出もあるんですけど、やっぱりどこかで孤独感を感じていましたね」

――そんな頃にRADWIMPSを聴いて、心が癒されたり、救われたり。音楽がそういうものになり得るという経験をしたのは、実はとても大きな出来事だったんじゃないかと思います。

「そうですね、はい。間違いないです。そこから中学時代はとにかく音楽にいっぱい触れて。RADWIMPSもBUMP OF CHICKENも。当時は音楽性とか、どんな難しいことをやってるかとかもわからないから、聴く観点としてはやっぱり歌詞だったり歌なんですよね。こんなに何気なく言う『ありがとう』っていう言葉が、この歌に乗るとすごく浸透してくるなあとか。だから今でもすごく言葉を大事にしているし。プライベートでは思ったことを言葉にするのは苦手なんですけど、音楽に乗せて、歌にすると伝えられることってあるよなあって当時から思ってました」

「バンドに憧れたバンド」だって、僕はずっと思っていました。それはきっとこれからも変わんないのかなと思います

――そして北村さんは、DISH//のメンバーとなります。中学2年生の頃ですね。それはどういう感覚でしたか?

「自分がバンドをやるとは思ってなかったんです。しかも『おまえらはダンスロックバンドだ』って言われて、当時は『?』しかなかったです(笑)。ギターをポンと渡されて。とりあえず練習しなきゃっていう。ただ『頑張んなきゃ』っていう気持ちだけ。結構怒られてたんですよ(笑)」

――それまで一度もギターを弾いたことがなかったわけですよね?

「そうです。僕らまだ中学生ですからね。モンパチ(MONGOL800)の“小さな恋のうた”のコピーから始まったんですけど、『全然できてないじゃないか!』って毎週毎週、渋谷のNOAH(スタジオ)で怒られるっていう。もう青春ですよね。ただみんな『ライブって楽しいね』っていうのはあって。すごい楽しかったんですよ。毎週土日にライブをやってたんですけど、チラシをみんなで配ったり。そういう作業すらもめちゃめちゃ楽しかったです」

――バンドとしての自我というか、「もっとこうなりたい」みたいな想いが強く芽生えてきたのはいつ頃?

「高校2年の後半くらいからですかね。自分たちが踊っているだけの違和感っていうのを少しずつ感じ始めていて。当時は(竹原)ピストルさんやZAZEN BOYSを追っかけてたし、そういうバンドに憧れを抱いて、僕の中でマインドが変わってきてて。だからこそ、楽器を弾けないとか、下手くそな自分にすごく腹が立ってたんです。『バンドに憧れたバンド』だって、僕はずっと思っていました。それはきっとこれからも変わんないのかなと思います。初めて日本武道館に立った時からなんですよ。みんながちゃんと悩んだり迷ったりするようになったのは。その公演の中で生で演奏したのってたぶん、1曲か2曲だったはず。それでも僕はめちゃくちゃ楽しかった。と同時に、DISH//はこれからどうならなきゃいけないのか、自分たちはどうなりたいのかっていうことに悩み始めたのがこのタイミング。夢がひとつ叶ったことで、次はどうしたらいいんだろう、僕らはどこに進めばいいんだろうって。曲作りもその頃からみんなで始めて」


次のページ(“モノクロ”について)「できない」ということをちゃんと認めてあげるのが大事だったんだなあと。「あ、俺って歌詞書けないのかも」っていう気持ちがすごい大事だった
公式SNSアカウントをフォローする

人気記事

最新ブログ

フォローする