宇多田ヒカルが守り続ける聖域とは? NHK『プロフェッショナル』を観て

「自分に嘘をついてもしょうがないけど、自分に嘘をつくじゃないですか。音楽に対して正直であるということですね。自分の聖域を守る、という」。7月16日に放送されたNHKのドキュメンタリー番組『プロフェッショナル 仕事の流儀』。「プロフェッショナルとは」という番組定番の質問を投げかけられて、宇多田ヒカルはそんなふうに答えていた。音楽に対する正直さというのは、先日のNHK『SONGS』でも語られていたことだ。

最新アルバム『初恋』の制作期間のうち、2018年1月から4月にかけて、宇多田ヒカルの音源制作の現場にはじめてテレビのカメラが入った。ロンドンの自宅で、あるいはスタジオで、自身の音楽に没頭する宇多田を、カメラが捉えている。中には、宇多田自身がカメラをセットして撮影したという自宅での映像も用いられていた。

番組は、当時の仮タイトルである“Ghost”という楽曲の制作過程を中心に構成されていた。『Fantôme』の時期に収録曲から漏れ、3年以上もの間温められていたという、亡き母への思いを綴った歌だ。2010年末に「人間活動」へと入る前、つまり音楽活動を休止する以前から、宇多田は作詞・作曲・編曲の大部分をひとりで担い、またその孤独な制作に大半の時間を割いてきた。それは現在も変わらない。

ただ、『Fantôme』から『初恋』へと至る時期、宇多田ヒカルの音楽制作には海外の多くのセッションミュージシャンが携わり、宇多田の表現に新しい風を吹き込ませている。「同じ風景を見ようとしてくれるので、自分じゃ絶対にできなかった、自分だけでは行けなかったところにも行けますね」と彼女は語っていた。音楽は国境を超える、などという小綺麗な文句が通用しないレベルの深い共鳴を求め、宇多田は楽曲に込めた感情や物語を、必死にミュージシャンたちに説明する。

かくして、メロディや歌詞が完成しないまま、むしろミュージシャンたちに楽曲のイメージを手助けしてもらう形でレコーディングされた“Ghost(仮)”のトラックは、4月、遂に東京で歌入れが行われた。《全てが例外なく/必ず必ず/いつかは終わります/これからも変わらず》。一時は、ロシア出身の詩人=ウラジミール・ナボコフの詩を朗読しようかとまで思い悩んだその曲は、真実の音を、言葉を探り当てた末に“夕凪”というタイトルに結実する。宇多田はそんな制作過程について「地獄の蓋が開いたところに突っ込んでいく。すごく大きな感情のエネルギーを消耗するんです」と説明していた。

今回の放送で僕が最も驚かされたシーンは、ニューアルバムのタイトル曲にもなった“初恋”のレコーディング風景だ。ミュージシャンたちと相談しつつ、一時はトラックが完成しかけていたのだが、宇多田は急遽オーケストラを導入し、ドラムスとベースを音源に含めないことを決断する。申し訳なさそうにミュージシャンたちに説明し、理解を得る宇多田。“夕凪”のように、ミュージシャンたちの優れた技術と共鳴に手助けされる場面もある。しかし、“初恋”はそうではなかったのである。

音楽に対して正直であること。自分の聖域を守ること。宇多田ヒカルの追い求める「真実」とは、これほどまでに絶対的なものなのか、と驚かされた。他者と協力して生み出したものを否定し、より高みにある肯定を目指すことは、途方もないエネルギーを必要とするだろう。しかし、宇多田ヒカルが彼女自身の作品に負う責任の大きさは、まさにその途方もないエネルギーとして機能してしまう。宇多田ヒカルは、音楽の作者であると同時に、宇多田ヒカル作品の最も誠実な批評家である。そう思い知らされた夜であった。(小池宏和)
公式SNSアカウントをフォローする

人気記事

最新ブログ

フォローする
音楽WEBメディア rockin’on.com
邦楽誌 ROCKIN’ON JAPAN
洋楽誌 rockin’on