その第8回目では、ポルカドットスティングレイ・雫のラブソングに迫る。
もし、アーティストが作るラブソングから、そのアーティスト自身の恋愛観を探り出そうとするのならば、ポルカドットスティングレイの雫(Vo・G)ほど、それが難しいアーティストもいないだろう。何しろ、「恋愛ソングを書くのは苦手」と言い切り、「自分自身のことを歌にしたいとも思わない」と語る言葉は、もはやポルカのステートメントと言えるものでもあり、バンドの存在意義とも直結する思想である。しかしながら、ポルカの恋愛曲の質の高さ、共感性の高さは、キャリアを重ねるごとに更新されていく。それは雫が元来持っているエディット能力の高さゆえでもあり、フィクションにリアルを重ねる手法の巧みさでもあるのだが、それだけでは、雫の綴るラブソングの魅力は伝えられない気がする。
《ああ、この世には/2つの人間がいるでしょう/与えられるより/与える方が私には簡単です》
メジャーデビュー前にリリースしたミニアルバム『大正義』に収録された“本日未明”のこの歌詞には、ポルカドットスティングレイの、というよりコンポーザーにしてバンドのフロントに立つ雫の、恋愛ソングの描き方、さらには様々な表現のベースとなる思考が隠されているような気がしてしまう。誰かを思う気持ちを、ただ「好き」と伝えるのではなく、相手に喜びを「与える」側であることの表明をもって、その感情を表現する。
恋愛の始まりは、その熱量の大きさにおいて自分と相手とが非対称であることが常であり、その現実を見ないふりで恋の熱に浮かされるのもまた良いのだけれど、その現実を知るからこそ切ないのであって、雫はそのことをよくわかっている。だから雫が「恋愛ソングを書くのが苦手」というような発言をインタビューで聞くたびに、私は内心「“本日未明”みたいな曲を書ける人が、そんなことを」と実はこっそり思っていることを打ち明けておく。リスナーやファンの中でいろいろ好みは分かれるだろうけれど、私は「ポルカの恋愛曲」と言われると、まず“本日未明”を思い出すのである。
そして、初期の恋愛曲の大定番というか、リスナーから圧倒的な人気を誇るのが“ミドリ”だ。
《嫌いです ああ/許してもらうだけのきみが/羨ましいです》
そう、これもまた恋愛感情の非対称性を感じながら、嫌いになることができない自分自身への苛立ちを表現していて、気持ちの大きさゆえに、妄想では殺してしまいたいと思うくらいの心情を描写していく。静かにドラマチックに歌い上げる雫の歌声には、考えたくないのに相手のことを思い浮かべてしまう日常の不安定さが表現されていて、まるでこの曲がひとつのトリガーであるかのように、誰もが過去、あるいは現在、どっぷりと恋をしていた頃の景色、場面を思い出してしまうのだ。《頭の中では毎日きみを/風呂に沈めています》なんて歌詞のコミカルさも、逆にものすごくリアルで。
例に挙げたように初期からポルカドットスティングレイの恋愛曲は秀逸なものが多くて、「フィクション」だと公言していながらも、その文学的な才能は、その後さらに洗練されていく。
1stフルアルバム『全知全能』に収録された“極楽灯”の物語性は、まるで監督も出演もすべてを雫が手がける映画を観ているようで、ポルカの楽曲に感じる、いわゆる「没入感」を、この楽曲に強く感じることができる。ポルカの没入感とは共感の強さとイコールだと思う。そして恋愛ソングが長く愛される楽曲となるかどうかは、何より「共感」が不可欠な要素だ。誰もが持ち得る恋愛感情を、そこに「自分」を感じられる風景として描く、あるいは、そう感じさせるように演じる(歌う)ということに、雫はどんどん自覚的になっていると思う。それを表現するために、歌唱の方向性も、これ以降、多様な表現方法を貪欲に模索して、形にしていっているのが素晴らしい。
《サヨナラを覚えた次第です/私、私であるかも分からない/24年も掛かって気付いた/裏切るんだね》
という、同じく『全知全能』に収録された“フレミング”の歌詞にも、何歳になっても共感してしまう。結局どこまでいけども、恋愛とは何か、自分とは何か、サヨナラとは何かを知ることはないと、まさにひとつの恋が終わるたびに実感するはずなのに、また新たな恋をして忘れる。この楽曲は、年齢の部分を更新しながら、雫はライブで歌っている。そのこと自体が、まさに《私であるかも分からない》ということにシンクロしているような気がするし、だからこそ、これが架空のストーリーであったとしても、そこに通底する人間としての本質は、確実にリスナーと共有し合えるものになっているのだと思う。
2ndフルアルバム『有頂天』からは“リスミー”を挙げておきたい。
《私たち/曖昧に愛し合ってさあ、/いつの間にか夜にでもなってさ/夜風に乗せて不完全な今日を飛ばしている、/そうでしょう》
恋をして、その感情の中にある浮き足立つ感じ、そして気だるさ──その名前をつけがたい感情を、この楽曲はタイトル、メロディ、歌唱、歌詞で表現している。好き、どうでもいい、でも好き、いやまあなんでもいいや、みたいな、この曖昧で不確かな気持ちを、穏やかに作用する(と一般的に言われている)睡眠薬の名称をタイトルにして表現するあたりが示唆的。朧げな心情の描写と浮遊感のあるボーカルスタイルが、まさに「言葉に表せない」感情をうまく表現している。恋なんて、結局は何かに酔っている状態なのだと、覚めている時には思うものだけれど、その最中にいる時には、それは自覚しようがない。雫はそういう「感覚」を、多くの人が語る恋愛エピソードや感想から感じ取る。恋という、どこに流れ着くのかわからない感情が、ある種の危うさを感じさせる歌声でもって表現される。名曲。
『有頂天』では“話半分”のような、ど直球なラブソングもあって、これもまたとても洗練されたポップミュージックである。これはフィクション。そう思いながらも雫の歌声が、それを虚構ではなく現実の世界にふわっと着地させる。フィクションであったとしても、もし雫がこのシチュエーションや状況にあったのなら、こういう言葉を選んで表現するのだな、ということがしっかり伝わる。だから自分自身のことではないと言いながら、やっぱり雫自身の感性が、そこにはちゃんと表現されている。ポルカの楽曲の本質とはそういうところにある。
そして、もうすぐリリースされる最新ミニアルバム『ハイパークラクション』には、それを踏襲し、さらにブラッシュアップしたかのような恋愛ソングが収録されている。“おやすみ”がそれだ。
《頑張るあなたが好きだけど/私が休みのこんな日は/仕事になんて行かないでって/こんなワガママは通用しない/くらいが丁度いいかもしれないね/いつまでもこんな私の歌聴いてくれる?》
情熱と逡巡が同居する大人っぽいこの恋愛ソングはフィクションとわかっていながら、雫の物事へのスタンスがにじみ出ているようでとても興味深い。そして、恋愛ソングと見せかけて、時折リスナーへのメッセージとも受け取れるような「愛」を描いているのも、ポルカの心にくいやり方だと思う。
そしてもう1曲、この作品には素晴らしいラブソングが収録されている。“阿吽”である。文学的に、「月」をモチーフに、どストレートに恋心を綴るこの楽曲は、ポルカのこれまでの恋愛曲の中でも随一のロマンチックさを誇る。
《ダーリン、ダーリン/恋をしたんだよ、もう止まれない/君のしわざでしょ/この音楽が鳴り止まないのは》
雫はいつものようにツイッターでのアンケート結果を元に書いたラブソングだと言う。けれど、かつてないほどのピュアな心情の吐露(のように見せた歌詞)は、楽曲を特別に普遍的なものへと昇華させた。そこに宿る物語性=フィクションは、「現実」以上に共感性をもって迎えられるはずだ。ポルカドットスティングレイのラブソングの真骨頂がここにある。もうフィクションかどうかだとか、マーケティングの是非なんて、ここでは関係ない。ただただ、この純粋なラブソングを深読みなしで味わってみてほしい。(杉浦美恵)