クリープハイプ“鬼”のミュージックビデオはなぜ松居大悟が監督し、椎木知仁が出演しているのか

クリープハイプ“鬼”のミュージックビデオはなぜ松居大悟が監督し、椎木知仁が出演しているのか

クリープハイプのニューシングル”鬼“のミュージックビデオが公開された。監督はクリープハイプと長くタッグを組んできた松居大悟。彼がビデオを監督するのはシングル表題曲でいうと、“百八円の恋”以来、1年半ぶりぐらいになる。松居監督のコメントにもあるが、「今までと一緒でいいじゃないか、『オレンジ』からまた始めよう」という気持ちが、尾崎世界観のなかにもあったし、松居監督の中にもあったのだろう。

『オレンジ』からまた始めよう、という言葉の意味は、原点に戻ってやり直そう、ということではない。リスタートとか巻き返しとか、そういうことではなく、クリープハイプにしかできないこと、尾崎世界観にしかできないこと、その真ん中にあるものを、まっすぐに差し出してみよう、ということだ。

“鬼”はすごく簡単に説明すると、錯綜するアイデンティティに振り回されながら、最後には「君」との関係において自分の存在を確かめる、という曲だと思う。「君」は「鬼」でもあるけれど、その「鬼」は決してただの敵でも悪でもなく、「自分とは違うもの」としてそこにいる、つまり自分の鏡写しとしての他者として描かれている。バンドにとってはそれは、たとえばライヴに来てくれるお客さん、CDを買ってくれるファンということになるかもしれないし、表現者にとっては自分のなかにいるもうひとりの自分でもあるだろう。


(以下、小説『祐介』の内容に触れます。未読の方は注意)






尾崎世界観による小説『祐介』は、主人公がいろいろあってややこしいことに巻き込まれてボコボコに殴られて家の外に放り出される、というシーンから圧巻のラストシーンに突き進んでいく。主人公はすっぽんぽんで京都の街を歩き、着るものがないので女子小学生から体操服を奪い、履くものがないのでレジ袋を足に巻きつけ、血まみれのまま場末のストリップ小屋にたどり着く。そこで主人公はステージ上に出てきたもうひとりの自分と「出会う」。ブルマを履いて血まみれのその男こそが「オレ」だと、主人公は思う。いうまでもなくその「オレ」がつまり尾崎世界観だ。






(ネタバレ終わり)


『祐介』を読んで、僕はこの小説を執筆していた時期、尾崎はある種の混乱の中にいたのではないかと感じた。その混乱に対する対処として、この半自伝的(?)小説は生まれたのではないかと。なぜなら『祐介』は、尾崎祐介が尾崎世界観に「なっていく」物語というよりも、尾崎世界観が尾崎世界観に「再会する」物語だからだ。尾崎世界観が尾崎世界観に「尾崎世界観とは何なのか?」と問いかけるような小説だからだ。そしてその結果出てきたのが、あのラストシーンだ。

『祐介』を書くことによって、尾崎は尾崎世界観を再び見つけることができた。そのきったなくて変態な自己像を「オレ」だと言うことができた。それが”鬼”という曲につながり、ミュージックビデオで松居監督と再び組むということにつながり、そしてアルバム『世界観』につながっている、という気がしてならない。

”鬼”のミュージックビデオには短編映画『ゆーことぴあ』の予告篇もついている。『世界観』の特典映像になる映画だ。『祐介』を元ネタにしたこの映像に、My Hair is Badの椎木知仁が出演している。尾崎が熱望したらしい。たぶん彼は椎木のこんがらがった自己愛と表現に潜む攻撃性に、昔の自分に似たものを感じたのだろう。そうやって他人に過去の自分を投影できるのも、尾崎世界観が尾崎世界観を客観視できている証拠なのかもしれない、と思う。

なんか全部がこじつけみたいに思えるが、でも、すべてが必然であるという気もすごくする。
7月30日発売のROCKIN'ON JAPANで尾崎のインタヴューを掲載します。『世界観』に至る物語を、2ヶ月かけて解き明かします。
公式SNSアカウントをフォローする

人気記事

最新ブログ

フォローする