2025年、ヤー・ヤー・ヤーズは結成25周年を機にツアー『ヒドゥン・イン・ピーシズ・ツアー』を行った。イギリス、メキシコ、そして本国アメリカを巡り、全18公演が実現した本ツアーの大きな特徴は、ロイヤル・アルバート・ホールやメキシコシティのテアトロ・メトロポリタン、そして本拠地ニューヨークのビーコン・シアターといった、歴史ある劇場が舞台に選ばれたことだ。2000年代初頭のポストパンクリバイバルを象徴したスタイルや、フロントウーマン、カレン・Oのエッジーでアイコニックな存在感を考えれば、一見意外にも思える選択である。だが、アコースティック・ギターやストリングス、ピアノを取り入れ、過去の楽曲を新たなアレンジで響かせたステージは、むしろ彼らが25年のキャリアを経て手にした、優雅で演劇的な表現力を浮かび上がらせるものだった。そんな『ヒドゥン・イン・ピーシズ・ツアー』のロサンゼルス公演を軸に、ライブ会場となったオルフェウム・シアターの空間と、そこでヤー・ヤー・ヤーズが具現化した世界観を融合させた短編映画『ヒドゥン・イン・ピーシズ』が、バーナビー・クレイ監督によって制作された。そして9月24日(木)、その繊細で優美、そしてどこか幽玄な作品世界を体感できる本作の一夜限りの特別上映が、東京・ヒューマントラストシネマ有楽町で実現した。かつてポストパンクの衝動を剥き出しにしていたバンドは、25年の時間を経て何を残し、何を変えたのか――。劇場という器に映し出された、ヤー・ヤー・ヤーズの現在地をレポートします!スクリーンに光が宿ると、オルフェウム・シアターの廊下が映し出される。モノクロで捉えられた照明や壁面の装飾には古き時代の様式美が漂う一方、どこかミステリアスで不穏な気配も漂っている。光源を強調しながらシャドーを深く落とした映像のコントラストが、空間に神秘性と重厚感を与えているのだ。同時に、その美しさにはどこか人間離れした不自然さすらある。続いて映し出される天井、座席、扉――いずれもルーズなカメラワークで捉えられているが、劇場であるにもかかわらず、人の体温や気配はほとんど感じられない。デヴィッド・リンチへのオマージュという作品の背景を踏まえると、この人気の少ない劇場が醸し出す美しさと不穏さは、単なるライブ映像の導入以上の意味を持っているようにも思える。そこから場面は一転し、ヤー・ヤー・ヤーズによるライブの模様が映し出された。過度なセットや照明はなく、ステージングはミニマルかつシンプル。しかし、狂騒の1920年代を思わせるドレッシーな衣装に身を包んだカレン・Oの姿が、その空間を圧倒的に支配している。それは踊り子のような偶像ではなく、劇場そのものに宿ったミューズの実像とでも呼ぶべき存在感だった。そもそもカレン・Oは、キャリア初期から強烈な存在感でステージを支配してきた。しかし、この映像で浮かび上がるのは、それが単なるエキセントリックさやパフォーマンス上の演出によって成立していたものではないという事実だ。時代やスタイルが移り変わってもなお、彼女自身がひとつの世界観を成立させる中心であり続けている。そのことを、結成25周年という節目に改めて証明するようなステージングだった。そして、その輝きはライブパートの随所に反映されていた。ヤー・ヤー・ヤーズの楽曲の中でもひときわ穏やかな“Blacktop”では、オルフェウム・シアターの広大な空間が生み出す音の余韻と呼応するように、原曲以上にアンビエントなキーボードの色彩が淡く広がっていく。そこでのカレン・Oには、キャリア初期には前景化されていなかった、より奥行きのある感受性が滲んでいた。とはいえ、彼女が根底に秘めるインディーシーンの女傑としての強さが失われたわけではない。“Runaway”では、オーケストラ的なアプローチによってさらなるダイナミズムを獲得したバンドの一体感に飲み込まれることなく、自身のパッションに満ちた表現力を真正面から叩きつける。音楽的なスケールが広がっても、カレン・Oの存在感は決してその中に埋没しない。ミツキやジャパニーズ・ブレックファストといったインディーシーン発の女性アーティストたちが、インディーという自由な領域を足場に音楽とアートの融合を模索する現在。その先駆者として、より早い段階からインディーというジャンルをアートフォームとして拡張してきた存在こそ、ヤー・ヤー・ヤーズだったのではないか。彼女らの現在の表現を目の当たりにすると、その先見性は25年を経た今なお色褪せていない。話を戻そう。本作は単にヤー・ヤー・ヤーズという象徴のアニバーサリーを記録した記念碑ではない。むしろ、25年という時間を経てなお鮮鋭化を続けるバンドの現在地を刻み込んだドキュメントに近い。確かに、ここに映し出されているのはアーティストのありのままの姿ではない。オルフェウム・シアターの無人の廊下や座席、光と影、そしてライブの断片。それらは意図的に構築された世界観の一部だ。しかし、だからこそ、この作品はヤー・ヤー・ヤーズが現在どのような存在であろうとしているのかを雄弁に物語っている。25周年という集大成を機に生じた「変身」。その変化を、ステージ上のパフォーマンスだけではなく、劇場そのものの空気や余白にまで託して表現した本作は、過去を振り返るための記念碑ではなく、彼らの新たなモードを告げる声明にほかならないのではないだろうか。(北川裕也)
ショートフィルム『ヒドゥン・イン・ピーシズ』を観た!
2026.09.28 17:00
2025年、ヤー・ヤー・ヤーズは結成25周年を機にツアー『ヒドゥン・イン・ピーシズ・ツアー』を行った。イギリス、メキシコ、そして本国アメリカを巡り、全18公演が実現した本ツアーの大きな特徴は、ロイヤル・アルバート・ホールやメキシコシティのテアトロ・メトロポリタン、そして本拠地ニューヨークのビーコン・シアターといった、歴史ある劇場が舞台に選ばれたことだ。2000年代初頭のポストパンクリバイバルを象徴したスタイルや、フロントウーマン、カレン・Oのエッジーでアイコニックな存在感を考えれば、一見意外にも思える選択である。だが、アコースティック・ギターやストリングス、ピアノを取り入れ、過去の楽曲を新たなアレンジで響かせたステージは、むしろ彼らが25年のキャリアを経て手にした、優雅で演劇的な表現力を浮かび上がらせるものだった。そんな『ヒドゥン・イン・ピーシズ・ツアー』のロサンゼルス公演を軸に、ライブ会場となったオルフェウム・シアターの空間と、そこでヤー・ヤー・ヤーズが具現化した世界観を融合させた短編映画『ヒドゥン・イン・ピーシズ』が、バーナビー・クレイ監督によって制作された。そして9月24日(木)、その繊細で優美、そしてどこか幽玄な作品世界を体感できる本作の一夜限りの特別上映が、東京・ヒューマントラストシネマ有楽町で実現した。かつてポストパンクの衝動を剥き出しにしていたバンドは、25年の時間を経て何を残し、何を変えたのか――。劇場という器に映し出された、ヤー・ヤー・ヤーズの現在地をレポートします!スクリーンに光が宿ると、オルフェウム・シアターの廊下が映し出される。モノクロで捉えられた照明や壁面の装飾には古き時代の様式美が漂う一方、どこかミステリアスで不穏な気配も漂っている。光源を強調しながらシャドーを深く落とした映像のコントラストが、空間に神秘性と重厚感を与えているのだ。同時に、その美しさにはどこか人間離れした不自然さすらある。続いて映し出される天井、座席、扉――いずれもルーズなカメラワークで捉えられているが、劇場であるにもかかわらず、人の体温や気配はほとんど感じられない。デヴィッド・リンチへのオマージュという作品の背景を踏まえると、この人気の少ない劇場が醸し出す美しさと不穏さは、単なるライブ映像の導入以上の意味を持っているようにも思える。そこから場面は一転し、ヤー・ヤー・ヤーズによるライブの模様が映し出された。過度なセットや照明はなく、ステージングはミニマルかつシンプル。しかし、狂騒の1920年代を思わせるドレッシーな衣装に身を包んだカレン・Oの姿が、その空間を圧倒的に支配している。それは踊り子のような偶像ではなく、劇場そのものに宿ったミューズの実像とでも呼ぶべき存在感だった。そもそもカレン・Oは、キャリア初期から強烈な存在感でステージを支配してきた。しかし、この映像で浮かび上がるのは、それが単なるエキセントリックさやパフォーマンス上の演出によって成立していたものではないという事実だ。時代やスタイルが移り変わってもなお、彼女自身がひとつの世界観を成立させる中心であり続けている。そのことを、結成25周年という節目に改めて証明するようなステージングだった。そして、その輝きはライブパートの随所に反映されていた。ヤー・ヤー・ヤーズの楽曲の中でもひときわ穏やかな“Blacktop”では、オルフェウム・シアターの広大な空間が生み出す音の余韻と呼応するように、原曲以上にアンビエントなキーボードの色彩が淡く広がっていく。そこでのカレン・Oには、キャリア初期には前景化されていなかった、より奥行きのある感受性が滲んでいた。とはいえ、彼女が根底に秘めるインディーシーンの女傑としての強さが失われたわけではない。“Runaway”では、オーケストラ的なアプローチによってさらなるダイナミズムを獲得したバンドの一体感に飲み込まれることなく、自身のパッションに満ちた表現力を真正面から叩きつける。音楽的なスケールが広がっても、カレン・Oの存在感は決してその中に埋没しない。ミツキやジャパニーズ・ブレックファストといったインディーシーン発の女性アーティストたちが、インディーという自由な領域を足場に音楽とアートの融合を模索する現在。その先駆者として、より早い段階からインディーというジャンルをアートフォームとして拡張してきた存在こそ、ヤー・ヤー・ヤーズだったのではないか。彼女らの現在の表現を目の当たりにすると、その先見性は25年を経た今なお色褪せていない。話を戻そう。本作は単にヤー・ヤー・ヤーズという象徴のアニバーサリーを記録した記念碑ではない。むしろ、25年という時間を経てなお鮮鋭化を続けるバンドの現在地を刻み込んだドキュメントに近い。確かに、ここに映し出されているのはアーティストのありのままの姿ではない。オルフェウム・シアターの無人の廊下や座席、光と影、そしてライブの断片。それらは意図的に構築された世界観の一部だ。しかし、だからこそ、この作品はヤー・ヤー・ヤーズが現在どのような存在であろうとしているのかを雄弁に物語っている。25周年という集大成を機に生じた「変身」。その変化を、ステージ上のパフォーマンスだけではなく、劇場そのものの空気や余白にまで託して表現した本作は、過去を振り返るための記念碑ではなく、彼らの新たなモードを告げる声明にほかならないのではないだろうか。(北川裕也)