絶賛公開中! エルトン・ジョンの波乱万丈の70年代が象徴するポップ・スターの光と陰、映画『ロケットマン』の10の見どころ

『ボヘミアン・ラプソディ』と『ロケットマン』、何かと比較される2作品の相違点


著名なミュージシャンの伝記映画として、公開前から何かと比較されてきた『ロケットマン』と『ボヘミアン・ラプソディ』。そもそも『ロケットマン』の監督デクスター・フレッチャーは、ブライアン・シンガーの降板を受けて『ボヘミアン・ラプソディ』の最後の撮影とポスプロを引き継いだ人物でもあって、このふたつの作品には少なからず関係がある。エルトンとクイーンが共に活躍していた70年代を舞台にしているだけあって、音楽史的背景の共通点も興味深いし、特にエルトン、クイーンのマネージャーを歴任したジョン・リードが『ロケットマン』と『ボヘミアン・ラプソディ』の両方に登場し、異なった側面から描かれている(どっちもキザな色男風ではあるが)のも面白い。ただし、最初にも書いたように『ロケットマン』の肝はミュージカルであること、キャストが自ら歌っていることなので、その点は『ボヘミアン・ラプソディ』と全く異なる。

『ロケットマン』のもしかしたら立役者かもしれない男、マシュー・ヴォーン


『ロケットマン』の企画をエルトンと彼のパートナーで映画プロデューサーでもあるデヴィッド・ファーニッシュが発案したのは10年以上前のことで、具現化に向けて本格的に動き出したのは本作のプロデューサーとして名を連ねるマシュー・ヴォーンが参加してからだったという。ヴォーンはご存知『キングスマン』、『キングスマン:ゴールデン・サークル』の監督であり、同シリーズで主人公のエグジーを演じていたタロン・エガートンをエルトン役に推挙したのもヴォーンだった。ちなみに『ゴールデン・サークル』に本人役でカメオ出演し、カメオの枠に収まらないぶっ飛んだ怪演(?)で話題を呼んだのが他ならぬエルトン・ジョンだったりもする。タロンの才能を誰よりも熟知し、エルトンとの信頼関係も築いていたヴォーンがいなければ、本作の成功はなかったかもしれない。


忠実に再現されたエルトンのぶっ飛びコスチュームの数々


時は70年代、グリッターでグラマラスなポップ・ミュージックの時代にトップ・スターとして生きていたエルトン・ジョンの物語だけに、「流石にそれはやりすぎだろう」、「デフォルメしすぎだろう」と突っ込みたくなるようなド派手な衣装が次々に出てくるのだが、そのほとんどがデフォルメどころか実際のエルトンの衣装を忠実に再現したもの。監督や脚本家が意図的にファンタジーに仕立てるまでもなく、当時の彼を描こうとすれば自ずとそうなっていったということなのだろう。サングラスのコレクションも見ものです。


だから、エンドロールまで見逃せない


ファンタジックなミュージカルである本作は、今もなお大スターとして健在で、私たちと同じ時代に生きているエルトン・ジョンのリアリティとどう折り合いをつけていくのか?という点で帰着点が相当難しかったのではないかと想像できる作品だ。しかし、そのファンタジーとリアリティの齟齬をあえて逆手にとって、まるで「夢オチ」、「種明かし」のようなユーモラスな仕上がりになっているのが本作のエンドロール。

「ポップ・スターは哀しい」という普遍を描いた物語


「自分以外の何かになりたいという気持ちが、クリエイティブな人間を生む」とエルトン・ジョンは語っている。「自分以外の何か」とは、「置き去りにされた自分自身」と背中合わせの概念だ。だからこそクリエイティブな人間の最たる例である稀代のポップ・スターたちは、エルトンやフレディ・マーキュリー、マイケル・ジャクソンの例をあげるまでもなく、時に驚くほど孤独なのかもしれない。『ロケットマン』はエルトンという最高のモチーフを得て、まさにそのポップ・スターとポップ・ミュージックの中で脈々と受け継がれてきた哀しみを描いた作品でもある。「誰にも愛されなかった少年が愛を探し求める」という本作の切り口は些か悲観がすぎるかもしれないが、それはエルトン本人が制作に深く関わっているからこそ自分を突き放して見ているというか、英国人らしい皮肉とシニシズムの味付けなのかもしれない。(粉川しの)


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