【インタビュー】坂本真綾が30年の音楽活動を振り返る。ベストアルバム『M30〜Your Best〜』が映し出す、シンガーソングライターとしての軌跡

【インタビュー】坂本真綾が30年の音楽活動を振り返る。ベストアルバム『M30〜Your Best〜』が映し出す、シンガーソングライターとしての軌跡
坂本真綾の音楽活動30周年を記念した、2枚組のベストアルバム『M30〜Your Best〜』が完成した。『Your Best』とタイトルにあるように、このベスト盤はファン投票の結果を受けてピックアップしたDisc1の15曲と、坂本真綾と縁の深い15人の音楽仲間たちが選ぶDisc2の15曲、全30曲がオールタイムのキャリアの中から収録され、これぞ!というものから少々マニアックなものまで、あらためて新鮮な気持ちで楽しめるアルバムとなった。デビュー当時の楽曲が今なおフレッシュで心ときめくものであるのはもちろんのこと、自身が作詞や作曲を手掛けた楽曲は、時を経てなお新たな感慨を呼び起こす。今回のインタビューでは、この記念すべきアルバムをもとに、自身に30年のヒストリーを振り返ってもらった。

インタビュー=杉浦美恵 撮影=山﨑泰治


10代で何もわからず音楽の世界に飛び込んできた私が、菅野よう子さんの仕事を間近で見れたことはとても大きな財産

──15周年のベストアルバムでは真綾さん自身が曲をセレクトしていましたが、今回はファン投票と、15人の音楽仲間の方たちによる選曲。ある意味、セレクトを委ねたという形ですよね。

みんなが喜ぶものを作りたいと思ったときに、ほんとに入っていてほしい曲はなんだろう?と客観的に知りたくて。なのでまず、それをファンの方に聞くのがいちばんわかりやすいかなと。

──ファン投票の結果を見て、どんな感想を持ちましたか?

ある程度予測通りと思えるものもありつつ、すごく意外なものも上位に来ましたね。「いちばん好きな曲」というので選んでもらったので、ファン歴の長い人にとっては、それだけ悩む幅も広かったと思いますが、わりと最近の曲も含まれているのが面白いなあと。興味深い結果でした。

──たとえば“これから”とか?

そうですね。この曲が入ってきたのはすごく嬉しかったです。自分の作った曲の中でもすごく気に入ってる曲なので。でも、ここに入ってきたのは意外でした。

──これはアニメ『たまゆら〜卒業写真〜』の主題歌となった曲で、真綾さんが何かの作品のために、自身で作詞・作曲を手掛けた初の楽曲。当初のオーダーとして「泣けるバラード」というキーワードがあったそうですね。

そうなんです。ちょうどその頃は自分の20周年で、その節目に、今まで自分が経験した出会いや別れを思い返しながら歌詞を書いていきました。歌詞の中に、《10年後 20年後 振り返って私 どんな気持ちで今日を思い出すかな》っていうフレーズがあるんですけど、30周年のときにはこの曲をどんな想いで聴くだろう、みたいなことをなんとなく考えながら作っていました。当時は45歳の自分なんてまったくイメージできていなかったけど、もし10年後、20年後も歌い続けているとしたら、この曲を初披露したさいたまスーパーアリーナでのライブのことをどんなふうに思い返すかなあって。なので、その20周年から10年が経ったという感慨深さもあるし、いろいろなことが変わったけど変わらず歌い続けていて、こうして30周年のアルバムを出せるというのはすごくありがたいことだなあって。 “これから”という曲が、みなさんの中でも印象深い曲としてこの10年の間に根付いていたんだというのも嬉しかったですね。

──真綾さんの音楽活動は、菅野よう子さんとの出会いから始まったとも言えるわけですが、菅野さんとのタッグが続く中で、当時の真綾さんにとっては難解な楽曲もあったのではないかと思います。その後も楽曲がリリースされるごとに表現の幅が広がっていくのを感じましたが、ご自身では、この30年での成熟感をどのように感じていますか?

成熟感……30年もやっていれば成熟してないとおかしいですよね、と思いながら、まだまだ(笑)。10代のときに何もわからず音楽の世界に飛び込んできた私でしたが、運のいいことにデビューから菅野さんにプロデュースしていただいて、菅野さんの仕事を間近で見れたことはとても大きな財産になりました。菅野さんは周りの人にエネルギーを分け合えるような存在で、常に楽しそうに音楽に向き合っている姿だとか、迷ったときでも難しいほうを選択できる自身への厳しさだとか、そういう背中を見ていたので、知らないうちに私にもそれが叩き込まれていたのかなと。菅野さんと離れたあとも、こういうときはどうすべきかと立ち返ってヒントをもらえるようなことがいっぱいありました。そう思えるような存在に若くして巡り会えたことはとても幸運でした。そのあとも菅野さんだけでなく、いろんな影響を与えてくれた人たちがいて、なんとか続けてきた30年という感じですね。


自分の中にこんなにも表現したいこととか伝えたいこと、わかってほしいこと、残しておきたいと思うことがたくさんあったんだなって思いました

──真綾さんがシンガーとして音楽活動をしていくうえで、菅野さんや作詞家の岩里祐穂さんとの出会いはターニングポイントだったと思うのですが、音楽を続けていきたいと思えたのはどんなタイミングでしたか?

“約束はいらない”でデビューしたときは、いろんな偶然が重なって、あれよあれよとレコーディングの日が来て、気づいたらもうシングルが出ているっていうくらい、ほんとに流れに身を任せているだけでした。歌うことは好きだったし、デビュー曲もいい曲を作っていただけて嬉しかったんですけど、本業は学生で、児童劇団には所属していたけど音楽のことを勉強してたわけでもなかったので、コンスタントに作品を出していくような活動スタイルになるとは、その時点ではまったく考えていなかったんです。でもなぜか縁があって、今度はこれを、次はこれをと歌っていく中で、1stアルバム『グレープフルーツ』を制作するときに、アニメの主題歌や挿入歌という流れとは関係なく、純粋に坂本真綾のために作られた曲というものがあることに気づいて。それはすごいことだなと思ったんです。世の中にたくさんの音楽がある中で、私という存在のためだけに作られた音楽があるって、すごいことなんだなって。そのとき17歳くらいだったんですけど、やっと「次」を想像するようになって。また歌えたらいいなっていう欲が出てきたんですよね。与えられたものを歌うだけじゃなくて、次もあったらいいな、次はこんなふうにしてみたいなって思うようになりました。

──そこから次は自身でも作詞をするようになり、どんどん音楽活動が能動的に面白くなっていったんですね。

2ndアルバムで自分で歌詞を書くことがとても楽しくなって、自分の中にこんなにも表現したいこととか伝えたいこと、わかってほしいこと、残しておきたいと思うことがたくさんあったんだなって思いました。歌詞を書くという作業が自分にとってとても必要なことだと思いました。歌えなくてもいから歌詞は書いていたいっていうくらい(笑)。

──音楽でなら、こんなに自分を出せるのかという想いがあったのでしょうか?

今思えば、の分析ですけど、当時16歳とか17歳の頃は、あまりにも周りから「現役女子高生」と言われて、求められているものが本当の自分とは違うなと思うことが多かったんですよね。こういう取材の現場でも、撮影で謎のポージングをさせられたり、普段まったく着ない雰囲気の衣装が用意されていたり(笑)。そういうちぐはぐなことがいっぱいあって、「私はこういうのが好き」とか、「私はこうなりたい」みたいなことは拙いながらも伝えていかないと、まるで違う自分になっていってしまう。それがすごく嫌で、不器用にぶつかったりして。振り返ればそれもいい経験だったのかなと思います。音楽活動をするようになって、思った以上に「自分はこうなのに」と伝えたい想いがあるということに気づいたんですね。そんな中で菅野さんとの最初の9年があって。その9年の助走があったから、そのあとも続けられたのかなと思います。

次のページ(“ボクらの歴史”は)あの時代にしか歌えない、フレッシュな可愛らしい曲なんですけど、今でも好きで、たまにライブで歌うとファンの方にもめちゃくちゃ喜ばれるんです
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