ずっと真夜中でいいのに。を観たり聴いたりするということは、「ずっと真夜中でいいのに。について考えること」だ。そしてそれは、自分の内側にあるものについて深く考えるということでもある。その名前、その歌詞、そのメロディ、その歌声に向き合って、自分の中で共振する何かを探す。そんな感じ。きっと、僕たちだけでなくACAね自身にとってもそうなのだろう。僕は、ずとまよに触れていると独りでいることを許されているような気持ちになる。
そんなことを、ずとまよにとって初の全国ツアーとなった「潜潜ツアー(秋の味覚編)」ファイナルのZepp Tokyo公演を観ながら思った。ずとまよの音楽は、いつも独りの風景を歌う。独りであることの寂しさや哀しさだけでなく、その先にある可能性や希望も歌う。そこにあるのは「誰かと繋がりたい」と「わかり合いたい」というような安直な願望ではなく、いかに独りである自分を愛せるか、そしてその先で独り同士のまま他者と向き合えるかという試行錯誤の跡だ。
“蹴っ飛ばした毛布”の《すぐ比べ合う 周りが どうとかじゃ無くて/素直になりたいんだ》という歌詞。あるいは“秒針を噛む”の《塞ぎ込んで 動けない僕を/みつけないで ほっといてくれないか》という歌詞。《素直になりたい》と《ほっといてくれないか》は、同じことを歌っている。それは自分の心を愛し、守りたいという思いだ。そしてその思いが、現時点での最大出力で爆発したライブが、つまりこの日のZepp Tokyoだったのだ。
ACAねは「バリア」という言葉を使って自身の人との向き合い方について話していた。その言葉を借りるなら、彼女にとってライブは「バリア」を解除するための場ではない。むしろステージ上とフロア、お互いの「バリア」の存在を認め合うための場なのだと思う。そのためには、その内側の世界観は完璧に構築されていなければいけないし、表現はどこまでも正直でなければならない。
電波とそれに乗った記号がパーソナルスペースを浸食し続け、ことあるごとに「わかる」と「いいね」を強要されるこの時代に、独りでい続けることはとても難しい。だからこそそこに抗う表現者としてのずっと真夜中でいいのに。は希望なのだ。年末に開催されるCOUNTDOWN JAPAN 19/20の12月31日(火・祝)に出演することも決定しているほか、公演の最後には次のライブの告知も行われた。来年5月5日(火)、6日(水)、幕張メッセイベントホール2デイズ。加速度的にスケールを広げ続けるそのスピードこそが、ずとまよの存在意義を証明している。(小川智宏)