先に出てきた2人が重たい、沈潜していくようなアルペジオの演奏を3分ほど続けたところでキャット・パワー他2人のメンバーも登場し、そのまま1曲目の“朝日のあたる家(The House of the Rising Sun)”に入る。“朝日のあたる家”といえばアメリカでは有名なトラディショナル・ソングだが、普通なら「私の母さんは仕立屋で/新しいブルージーンズを縫ってくれた/私の父さんはギャンブラーで/ニューオーリーンズにいた」と歌うところを、キャット・パワーは「私の母さんは少しも仕立屋なんかじゃなく/私からあらゆるものを盗んだ/私の父さんは音楽家だった/これが何を意味してるか、あなたに本当に分かる?」と変えて、自らの出自に(おそらく)近づける。
「オモシロイ、サイコー、オハヨー」と変なMCをして観客を笑わせたり、ボブ・ディランへの思慕の情を歌った“ソング・トゥ・ボビー”(ディランがウディ・ガスリーに捧げた“ソング・トゥ・ウディ”のもじり)では歌いながら笑顔もこぼれたりしたショーン・マーシャルだったけれど、そんなシリアスなカバー・ソングで始まった今夜のステージには終始「業」というかしがらみというか、アメリカ南部の音楽特有のねっとりとした空気が漂っていた。
でもその空気を吸い込んでいるとだんだん心が安らいでくるのは不思議だ。特に後半になって同じようにけだるく、妖艶な演奏に乗せられて“シー・オブ・ラヴ”(フィル・フィリップスのカバー)や“アイ・ドント・ブレイム・ユー”といった慈しみに溢れた曲が披露されると、業のまがまがしさと慈愛の境界が分からなくなってくる。いつの間にか曲の風景が一方から他方に切り替わっている。
キャット・パワーの曲のこうしたダブル・イメージは、あるインタビューで「多くの人は私の音楽を悲しい音楽だと思っているみたいだけど、悲しくなんかないわ。それは輝かしい(triumphant)のよ」と言ったかと思えば、別のインタビューでは現在制作中の新作について「いくつかの曲はまた悲しい曲になっちゃっててビクビクしてるんだけどね」と話す彼女自身の視点の揺らぎとも無関係ではないと思う。
ひとつ思うのは、音楽を通して彼女がやろうとしているのは、合理的な精神が処理しきれない心の重荷を歌という暗い水の底にそっと沈めることなのではないか、ということだ。だからこそ彼女の歌は夢とうつつ、意識と無意識のあわいを浮きつ沈みつするようにして歌われる。その行為の由来はまがまがしいし、悲しい。でもそれは結果としてある種の勝利(triumph)をもたらす。それは彼女自身にとっては人間的な成長であり、成長は周囲の人々(われわれ観客も含め)に対する広い意味での愛の行為になり得るからだ。
ステージ上をせわしなく歩き回りながらちょっとぎこちない身振りで歌っていたキャット・パワー。最後には先日のガールズと同じく、持参した花束から一本一本の花を客席に向かって投げ込んだ。この花が彼女の音楽がもたらしたもののメタファーだと考えるのは行き過ぎにしても、言うまでもなく、今夜客席に投げ込まれたのは花だけではないだろう。(高久聡明)