【コラム】なぜandropは「真逆の進化」を重ねるのか?――最新作『androp』から考える
2015.08.12 22:00
これまで発表してきた、「a・n・d・r・o・p」をイニシャルに持つ6作品=『anew』『note』『door』『relight』『one and zero』『period』を経て、andropが去る8月5日にリリースしたセルフタイトルアルバム『androp』。心の軋みを文字通り「叫び」上げた“Shout”、己を鼓舞する「叫び」の曲“Run”、時代へ向けての「叫び」を鋭利な9/8拍子に焼き込んだ“Alternative Summer”の3曲をコンパイルした昨年8月のシングル『Shout』の時点で、今作『androp』の全方位的な躍動の予兆は確かにあった。が、“Yeah! Yeah! Yeah!”で吹き荒れた超弩級の多幸感から、ラストナンバー“You Make Me”のEDM&ダブステップの嵐まで、その多彩な音像はこちらの期待値をあっさり凌駕する凄絶さと美しさに満ちていた。
彼らが磨き続けてきたハイパーな表現力と世界観が、昨年3月に代々木第一体育館で初のアリーナ単独公演を成功させたライヴへの確信と渾然一体となって、ダイナミックな訴求力を獲得している名盤『androp』。そして――今作は同時に、彼ら独自の「真逆の進化」をはっきりと物語るアルバムでもある。
個人の抑え難い衝動と焦燥感の爆発から始まった表現が、その世界観を深化させるにつれて、次第に普遍的なテーマの追求へとシフトしていくという、古今東西ロックバンドのスタンダードと化した進化論とは、andropはまるっきり逆の道を歩んできた。人生と世界の真実だけをシビアに俯瞰&活写した黙示録の如き初期のクールな作風から、内澤崇仁はそのピントの精度を格段に研ぎ澄ませながら、自分自身を含めた人間ひとりひとりの沸き立つ「心の叫び」へと思い切って肉迫していくのである。とはいえ、特別淡白だったわけでもなければ(あのアグレッシヴなプレイは淡白さとは対極のものだ)、ロックバンド的な表現や在り方に対してシニカルなスタンスを表明していたわけでもないandropは、なぜ他のバンドと真逆の地点からスタートを切ったのか。
『Shout』リリース時にインタヴューした際、内澤は初期の自分について「『ちゃんと聴いてくれるんだろうか?』っていう疑いの目もあったし、ライヴも好きじゃなかった」という言葉で説明していたが、それはひとえに、「人前で音を鳴らして自分たちの楽曲世界を表現する」「それによって聴き手の感情や思考に作用する」ということの責任感の重さと、バンド結成当初から切実に向き合っていたことの裏返しでもある。ステージに上がって音を鳴らせば誰でもロックバンドになるのではなく、ロックバンドとして聴き手に作用する「資格」となるべきクリエイティヴィティが必要だ――ということに、彼らは当初から自覚的だったということだ。
andropがバンド名以外ほぼ匿名の存在として時代に名乗りを上げたのも、己の初期衝動を売りにしなかったのも、「バンド自身の価値」ではなくあくまで「音楽の価値」でシーンに対峙しようとした彼ら自身のアティテュードゆえだろう。そしてその後、andropの表現が十分すぎるほど体現してきた「資格」に、他でもないライヴの場で彼ら自身が気づかされていくことになる。前述の代々木第一体育館ワンマンはまさにその決定的瞬間だった。唯一無二のバンドの足跡が燦然と結晶した『androp』……2015年の今、このアルバムに出会えたことを、心の底から嬉しく思う。(高橋智樹)