麦わら帽子をかぶった「君」の姿に「夏」を感じるのは、なにも特別なことではない。でも、その姿から、夏に花を咲かせる「マリーゴールド」をイメージし、美しいメロディに自然にのる歌詞にしていくということ──それはシンプルなことのようでいて決して簡単なことではない。彼女の歌に深みを感じるのは、この“マリーゴールド”の歌詞のように、ふと浮かんだイメージのもうひとつ先に、また具体的な(でも普遍的な)風景が用意されているからなのだと思う。だから、ひとつの景色の中に、愛おしさや寂しさ、嬉しさや悲しさなど、一見相反するような感情が自然に共存することを可能にするのだ。
“マリーゴールド”だけではない。あいみょんの「歌詞」が、なぜこれほどリスナーの心をつかみ、それぞれの聴き手に鮮やかな景色やイメージを与えてくれるのか、これを機に少しじっくり考えてみた。私が思う彼女の歌詞の素晴らしさ──その理由は大きく分けると3つある。
①解釈のための余白・余地の残し方
今回の“マリーゴールド”は、まさにこの部分に秀でている。あいみょん自身は、この楽曲を「そもそも自分が作った物語としては、あの頃の恋を思い出してるふたりがいて、これからもずっとずっと一緒にいれたらいいねって言ってる物語」(『ROCKIN’ON JAPAN』9月号インタビューより)だと語っていたが、《いつまでも いつまでも 離さない》と歌うこの曲に漂う、どうしようもない切なさの正体はいったい何なのだろうか。永遠に続くように思えた恋心にも、必ず終わりはやってきて、それを知っていながら《いつまでも》と歌う、その切なさをも感じさせる歌だ。100%幸福な気持ち「だけ」を言葉にした楽曲なのに、その隙間に、その行間に、聴き手が自身の切ない思いを投影させ「自分の歌」として完成させることができる。その余白や余地の残し方が絶妙だからこそ、あいみょんの歌は聴き手の数だけ違った解釈が存在し得るのだ。②比喩表現の巧みさ
あいみょんは「比喩」の作詞家でもある。“マリーゴールド”については先に述べたとおりだが、前作“満月の夜なら”は、「君」をアイスクリームに喩えて、その体温や気持ちの高まりを美しく描いてみせた。かなり踏み込んだ表現なのに下世話にならない、むしろ純粋な恋心が浮かび上がってくるような、そんな比喩表現の巧みさに驚く。実は、こうした官能的な表現を模索するのは、彼女にとっても楽しい作業のようで、「いかに直接的ではない言い回しで官能的なことを連想させるかっていうのをゲームみたいに楽しんでます」(『ROCKIN’ON JAPAN』5月号インタビューより)と語っていた。また、アルバム『青春のエキサイトメント』のラストに収録されている“漂白”の歌詞も印象的だ。誰かを傷つけたり、傷ついたり、そんな日々の「心の汚れ」を洗い流すことを、“漂白”というタイトルで表した。痛みと癒しを繰り返しながら大人になっていく過程を《どうしようもなく心が汚れた日は/あの日を思い出して洗い流す/心を優しい泡で洗い流す》と表現する。抽象的だけれど、誰しもが共有できる感情がここに描かれている。③呼吸をするように紡がれる自然な言葉
ここまであいみょんの歌詞の凄さを語ってきたけれど、彼女の作詞は決して技巧に走ったり、レトリックに溺れるものではない。真逆である。実際あいみょんに「どういうふうに歌詞ができていくのか」と問うと、いつも彼女は困った顔をするのだ(笑)。あいみょん曰く「息をするのと同じ」で、自分でも「その言葉がどうして出てくるのかわからない」のだと。ただ、メロディに自然に乗る言葉であることは、とても大事にしているようで、今回の“マリーゴールド”のサビは、とてもスムーズにメロディに歌詞が乗っていったという。理屈ではなく言葉を感覚で捉えることも、ポピュラーミュージックにとっては大切なことだ。でもあいみょんはおそらく、そんなことを意識的にやっているわけではない。それこそ「息をするように」、そしてその「呼吸」が心地好いものであるように、メロディや言葉を選んでいく──そういう人なのだと思う。そこに「フィクション」はあっても「嘘」はない。だから、あいみょんの歌は、歌詞は、胸を打つ。ぜひ今一度、あいみょんの「歌詞」に注目して、彼女の楽曲を聴き込んでみてほしい。きっと新たな発見とともに、「これは自分の歌だ」と思える歌にまた出会えるはずだし、読み込むほどに、聴き込むほどにイマジネーションが膨らんでいく楽曲ばかりだと思うので。(杉浦美恵)