インタビュー:伊藤政則
通訳:丸山京子
人生の終わりは誰にでも正しく訪れる。しかし、ロック・バンドの活動の終焉は、不確実性に満ちており、規則正しさというものがない。だから面白いのだが、ファンにしてみれば実にやっかいこの上ない。
ディープ・パープルが最新アルバム『インフィニット』を発表した時、我々はこれが彼らにとっての最後の作品になるのではないかと疑い始めた。そして、『ザ・ロング・グッドバイ』と命名されたワールド・ツアーが始まるに至り、その終わりの始まりを強く意識するようになった。ところが、バンドからはそのとても重要な案件に関する発言が一切ない。ならば「生涯現役」という強気のステートメントが出てきてもよさそうなものだが、それすらもない。噂の噂に過ぎないが、『インフィニット』の評価が高かったことに気を良くしたメンバーが、次なるスタジオ・アルバムの制作に熱意を燃やし始めているらしい。ということは、バンドを続けていくと決意したのか。
どう考えてもあと10年の活動はできない。少なくとも、過酷なワールド・ツアーは難しい。私は常日頃からこう公言している。「クラシック・ロックのベテラン・バンドは、観れる時に観ておけ!」と。もはや、彼らに残された時間は少ない。あとになって後悔しても始まらないじゃないか。当然、ディープ・パープルは、その範疇に入るバンドだ。同時代に活躍したレッド・ツェッペリンと何かと比較されることが多く、しかし依然として現役であり、ロック界のアイコンであり続けている。ハード・ロック・バンドは、ステレオタイプ的にマッチョの側面ばかりが強調される。だから、本質が見抜けないのである。逆に知性から追ってみたらどうだ。シンガーのイアン・ギランは知性の塊であり、大いなる皮肉屋だ。その男がバンドの本質を語り始める……。
●1972年8月の初来日公演。当時、日本人の誰もディープ・パープルのライブを観た者はおらず、どんなパフォーマンスを期待していいのかわかりませんでした。ファンの多くはただ 「イアン・ギランという凄いボーカリストがいるバンド」を観に行った、という感覚だったと思います。あの公演について記憶に残っていることを話して下さい。
「日本人同様、僕らだって何もわからなかったよ。生まれた国の文化しか知らず、誰一人として海外に行ったこともなかったのが、突然もの凄いスピードで目の前に世界が広がったんだ。そんな中で出会った日本文化はいい意味でショッキングだった。行動パターン、伝統、食事……すべてが違う。最初は理解できなかった。コンサートでも日本独自の慣習があって、とにかく礼儀正しい。1曲目の後、何も反応がないのは『楽しめてもらえてないからか?』と焦ったら、誰か一人の拍手を合図に会場全体が拍手の嵐となった。で、誰かが拍手を止めると今度はピタッと鳴り止む。他の国なら徐々に盛り上がっていくもんだが、日本人は完璧に全員の統制がとれてる。ちょっと戸惑ったよ。今もそういうところは変わってないけどね。でも何よりも日本から感じたのは愛情だ。初来日時に知り合い、今も付き合いがある友達もいるよ。だから何年経っても『また日本に行ける』のが楽しみなのさ」
●翌73年の日本公演の時、あなたは既にバンドからの脱退を決めていました。辞めようと思った理由は?
「あの年齢で、大抵のことの準備はできていた。歌うこと、曲を書くこと、プロフェッショナリズム、ステージでのパフォーマンス。でも一つだけ準備しようにもできなかったこと、それが成功だ。成功は人生を一気に変える。若ければなおさらのこと、精神のバランスも崩していく。それが何を意味し、どう向き合えばいいのか、成功だけは実際に経験するまでわからないものだ。そして経験した成功は実に居心地が悪いものだった。マネージメントのことも嫌いだったね。不愉快で、押しが強くて、こんな世界にはいたくないと思った。だからバンドを辞める決心をしたのさ。それまでも自分の人生はいつだって自分で決めてきたからね。気に入らないのに続けなきゃならない理由はない。音楽をやる上で成功に興味があったわけじゃなかったし、バンドを始めた頃の最初の精神からはかけ離れてしまったように感じたので、辞めて別のことをするのがベストだと思ったのさ」
●その別のことが何になるのか、わかっていたのですか?
「いや、本当のところはわかってなかった。EU(欧州連合)と一緒で(笑)何が嫌いかはわかってるんだが、じゃあそれに代わるのは何だ?と言われるとわからない。ただ、辞めた方がよりハッピーな方向に人生は進むはずだという自信はあった」
●リッチー・ブラックモア(G)は、一緒に音楽活動するには難しい人ですか?
「当時はそんなことはなかったよ。言っておくが、73年に辞めたのも彼が原因じゃない。ルームメイトだったんだ、リッチー・ブラックモアは。旅先ではいつも一緒だったし、最高のパフォーマーだったよ。バンドにはリーダーがいなかったので、若者5人、楽しくやってたんだ。私が不満だったのはリッチーではなくマネージメントだ。
しかし問題は84年、約10年後にパープルに戻った時に起きた。人間性も昔とは違ってしまっていたし、音楽的な方向性は僕には受け入れられないものになっていた。信頼関係も仲間意識もなくなり、修復は不可能だった。リッチーに関してはネガティブなことより、ポジティブな思い出の方が多いが、正直二度目の時はやり難かったね。でもきっと彼も私のことを『やり難いやつだった』と言うだろう。こういったことは双方の立場から見ないと、真実には辿り着けないものさ」
●彼はジミー・ペイジのパフォーマンスに影響を受け、あのワイルドな動きを身につけるようになったと言われてますが、それは本当ですか?
「これはリッチーに関するインタビューなのかな?」
●いえ、あなたの意見はどうだったのかと思い……。
「それはリッチーに聞けばいいんじゃないか?」
●確かにそうですね。ところで『ライヴ・イン・ジャパン』(初来日公演を収録し、日英米でリリースされた)からもわかる通り、ディープ・パープルのライブでは、ジャムの応酬やソロ・パートなどで曲が長く展開されて、非常にスリリングです。まるで曲が別物のように変化していく、当時のこういったライブ・スタイルをあなたはどう見ていましたか?
「実に鋭い指摘だね。なぜならディープ・パープルは昔からずっとインストゥルメンタル・バンドだったからだ。シンガーの自分が言うのも変な話だが、このバンドの本質、音楽の作り方は常にインストゥルメンタル的視点に基づいていた。『曲を書き、その後にアレンジを施す』という曲の書き方をしたことは一度もない。どんな時も、曲はジャム・セッションから生まれたんだ。実際、数年前に、現プロデューサーであるボブ・エズリンと仕事を始めた時、彼から言われたのは『かつてのようなインプロビゼーションやクリエイティビティを取り戻してほしい』ということだった。つまり、『3分台にとらわれず、7分台の曲を書いてくれ。長さが問題なんじゃなく、それが自然だと思える曲を書けばいい』ということ。その楽曲にとってのテーマを見つけられるだけの時間をかければ、当然それはテクスチャーやダイナミクス、各楽器によるソロの応酬などを含む、既存の3分半のポップ・ソングとは全然違う、より成熟した音楽的な曲になる。それこそディープ・パープルにふさわしい楽曲だ。だから今も僕らはそれを実行する。
リハーサル・スタジオに集まる時点で、アイデアは何も決めてない。ポットを火にかけて湯を沸かし、紅茶を淹れたらスタジオに入る。すると誰からともなくジャムが始まる。15分後、今度はまた別の誰かをきっかけにジャムが始まり、そうしているうちに1日のうち一度か二度、使えるアイデアが生まれ、それが曲になる。即興性は当時から、ディープ・パープルにとって大事だった。しかも計画してそうなったんではなく、たまたまだ。あれが自分たちを表現する自然な形だったということだ。境界線も限界も僕らの前にはなかった。
60年代後半までの音楽はプロデューサーやレコード会社、音楽出版社、ラジオ局によって決められてきた。ビートルズやストーンズですら、ラジオでかかるためには短い曲にしなきゃならなかった。でも僕らはラジオよりライブ・パフォーマンス主体だったから、そんなことは気にしちゃいなかった。“スモーク・オン・ザ・ウォーター”を昨夜のモントルー・ジャズ・フェスティバルで演奏したが、元々あれは7分の曲だった。3分15秒バージョンはライブでの反応の凄さに驚いたワーナー・アメリカの人間が慌ててラジオ用に編集したんだ。レコーディングから何年も経った後に。そうやってディープ・パープルは常に確立されたシステムに抗ってきた。それが俺たちに合うやり方だったからだ。権威に飼い慣らされるバンドではなかったからだ」
●まさに当時のロックは新しく若い文化で、あなたもビートルズもストーンズもみんな同じくらいの年齢で若かった。だからこそどんなことにも挑戦できたのでしょうか? みんなで何か新しいことをやってるんだという意識、でもその中で自分たちだけのものを作りたいという……。
「ある意味では正しいが、違う部分もある。いわゆる同世代ならではの同胞意識は人間なら必ず感じるものだ。生まれながらの本能で若者は両親たちがやったことをぶっ壊したいと思う。どの世代の若者も、この世が生まれた時からそうだったし、そうして人間は進化してきた。でも同年齢の他のバンドとの間に音楽的な意味の同胞意識やライバル意識があったかといえば、それはなかった。ロックを一括りのイメージで語られることには抵抗があるよ。当時、音楽で金儲けしたかったのはミュージシャンよりむしろマネージャーやレーベル、音楽出版社やプロモーターだったんだ。私自身にはまったくそんな野心はなかった。ただ毎日を楽しみ、曲を書き、それが金にならなくても構わなかった。でもすべてが歪んで伝えられている気がする。一番良い例が『セックス・ドラッグ&ロックンロール』のクリシェだ。僕には無関係だったね、ロックンロール以外は。僕らはドラッグはやってなかった。セックスは……取り巻きの連中の話さ(笑)。当時、そのことを書きまくったジャーナリストたちはコンサートに行ってもバーにずっといて、肝心のライブは観ていない。その連中とは今も話をするし、今となってはあの時代のことは笑い話だ。で、君の質問に答えるなら……僕らは音楽に恋をしていた。そしてバンドの中に目的を見出し、そこが自分たちの所属する場所だと感じ、それまで持ったことがない新たな価値観を見つけた。ティーンエイジャーが持つ反抗精神にも合ってたし、システムに対抗する力でもあった。バンドがそれらをすべて与えてくれたんだ」
●76年にイアン・ギラン・バンドとしてのアルバム『チャイルド・イン・タイム』を発表します。あなたにとって“チャイルド・イン・タイム”という曲は特別な意味を持っているのでしょうか?
「当時、イギリスの新聞やラジオで連日伝えられていたのは冷戦に関するニュースだったから、誰もがそれを曲にしていたよ。私も“モーニング・デュウ”、“ミューチャリー・アシュアド・デストラクション”などを書いた。実のところはわからなかったが、冷戦は迫り来る脅威として、僕らには伝えられていた。誰かが核兵器のボタンを押せば、僕らはみんな死ぬと。“ミューチャリー・アシュアド・デストラクション”とは相互確証破壊のことだ。どちらか一方が核兵器攻撃を受け、最後の子供の一人まで殺されても、自動的に核兵器のボタンが押される仕組みになっていれば、自分たちが滅びたとしても相手の最後の子供の一人まで殺すことができる、と。なんとも狂った政策だが、それが冷戦の理念だとされていた。
“チャイルド・イン・タイム”はまずジョン・ロード(Key)があのリフ―イッツ・ア・ビューティフル・デイの“ボンベイ・コーリング”のリフを弾き、そこに僕が歌を乗せ、歌詞を書き留め、10分で書き上げ、その晩のステージで披露した。それを機に、すべてが腑に落ちた気がしたんだ。プロパガンダはいかに作られ、世のリーダーは実は好戦的で脅威を好む連中なのだと。第二次世界大戦という悲惨な戦争から復興したヨーロッパで僕らの両親世代は『もう二度と戦争はするまい』と思い、僕らは育てられた。初めてツアーでドイツを訪れた際、わずか15年ほど前は敵国だったにもかかわらず、同年代の若者とは言葉の壁や歴史を超え、音楽という共通言語で互いを受け入れ合うことができた。
最近だとロシアのメドベージェフ首相と話した時、ディープ・パープルを聴き“チャイルド・イン・タイム”などの歌詞から英語を学んだと言われたよ。レコードの個人所有は許されなかったが、学校に保管されているのを聴き、歌詞を分析してもいい、ただし楽しんではならないと。僕も冷戦中のロンドンでボリショイ・バレエやコサック・ダンス、ソ連のサッカー・チームを観たことがある。表向きの正面玄関は閉じられていても、外交という裏の玄関は開いていて、文化やスポーツ交流が行われていたんだ。政府は常に政策や経済、イデオロギーを巡って他国と衝突する。でも僕らはそれが相手を悪者にするためのプロパガンダだとわかっている。なぜならそこに暮らす若者は僕らと何一つ変わらないと知っているからだ」
●今回のツアーは『ザ・ロング・グッドバイ・ツアー』と命名されており、そのタイトルゆえに「最後のワールド・ツアー」と解釈しているファンもいるようです。
「『フェアウェル・ツアー』ではなく『ロング・グッドバイ・ツアー』にしたのには理由がある。つまり『始まりではなく、終わりが近づいている』ことを知らせたかったんだ。ここ数年でバンド全員がなんらかの形で体調を壊し、イアン・ペイス(Ds)は心臓発作に見舞われた。徐々に終わらせることを考えた方がいいかもしれないと全員で話し合ったんだ。少なくともいずれは終わらねばならないことを認めよう、ファン以上に自分たちもその心の準備をしよう、とね。なぜなら生涯続けてきたことを突然止めるのは、止める方としても楽ではないんだ。だから『ロング・グッドバイ』なんだ。今すぐではないが、いずれ終わる。始まりではなく終わりに近づいているんだ」
●いずれ終わるのなら、どういう終わり方が理想ですか?
「突然の終わり、だろうね。だがそれは僕たちにはコントロールできない。でもいつか起こると知っている。来年かもしれない、3年後かも、5年後かもしれない。しかし自分たちから突然止めることはしない。それは僕らの心情に合っていないからだ」
●ギターは弦を張り替えればまたプレイできますが、ボーカリストの喉や声帯はそうはいきません。50年にも及ぶ活動の中で、その現実をどのように克服してきたのでしょうか?
「言っておくが、私はボーカリストじゃない。シンガーだ」
●すみません、言い換えます。シンガーとしてのメンテナンスは大変じゃなかったですか?
「そんな風に感じたことはないよ。そう感じる者もいるだろうし、皆そうに違いないと思う者もいるだろうが、すべては考え方次第だ。僕は歌うのが何より大好きな子供だった。バリトン歌手の祖父、バレエ教師の祖母、ジャズ・ピアニストのおじ、家庭は音楽で溢れていた。教会の聖歌隊のボーイ・ソプラノで歌い始め、学校を中退後はいくつものバンドでロックンロールを歌った。活動を通じオーケストラル・ジャズ、ビッグ・バンド・スウィング、ソウル、ブルース、フォーク……と色んなミュージシャンと知り合い、その影響が僕というシンガーを形成してくれた。どんな時も歌は良い友達だった。幼い頃から歌ってきたからこそ、自然な歌い方が身についた。無理な歌い方は最初のうちはいいかもしれないが、やがて喉の負担となり、声を潰す。
もう一つ、40過ぎてある一定期間歌わないでいると、声帯の弾力性が失われ、横隔膜が弱まり、昔の声は取り戻せなくなる。マリア・カラスが良い例だ。友人のシンガーの例もたくさん見てきた。だから毎日定期的に一番自然な歌い方で歌い続けた。歌うことは息をすること、食べることと同じだよ。歌うことの『技巧』と、表現としての『アート』の両面を考えた時、70歳になってまで声の限りに叫んでいるとは思ってなかったが、ある意味ではそれをやってるわけだ。歌い続けているのは生きているということだ。当然病気も経験した。その時は、うんと頑張って声を体調に適応させなきゃならなくなる。今は気分もいいし、強さが戻ってきているのでとてもいい具合だよ」
●素晴らしいですね。バンドの歴史を振り返った時、ハイライトを挙げるとしたらどんな出来事ですか?
「いつも答えに困る質問だが、今後も決して破られないであろう最大のハイライトは、69年8月、ロンドンのスピークイージーでの初ライブだ。あとは初めてスタジオに入った日、『パーフェクト・ストレンジャーズ』での再結成、99年、30年後にジョンが書いた協奏曲(『ディープ・パープル・アンド・ロイヤル・フィルハーモニック・オーケストラ』)を再録した時、65年にエピソード・シックスで出会って以来すべてを共に乗り越えてきたロジャー・グローヴァー(B)との長年の友情、彼と作ったアルバム『アクシデンタリー・オン・パーパス』。それに加え、現在のプロデューサーであるボブ・エズリンとの出会いを挙げたい。まだ延々と続けられるがこんなもんでいいだろ?」
●あなたにとってディープ・パープルはどんな存在なのですか?
「何人かの人間が集まれば、そこには交流が生まれ、相互作用が起こる。僕らの場合、そうして生まれたものが特別だったのだと思う。つまりそれはさっきも言った通り、目的意識であり所属意識だ。69年、あの5人が集まれたことがラッキーだった。各自がそれまでの7年、8年で技術や技巧、プロ意識を磨き、あとは化学反応を起こさせる何かさえあればよかった。ジョンはオーケストラ風の曲とジャズの要素を持ち込んだ。リッチーはセッションで培ったギターの高度な技術とロックンロールを、イアン・ペイスはビッグ・バンド・スウィングを、ロジャー・グローヴァーはフォークを、そして僕はロックンロール、ソウル、タムラ・モータウンを。それらが全部混ざり合い、独自のサウンドが生まれた。
でもそれ以上に、僕らはどんな方向に進んでもいいんだ、という知識を得たことが重要だった。そのサウンドと5人の個性があったから、僕らは他にはないバンドになれた。音楽はかくあるべきという固定観念はなかった。だからこそ『ディープ・パープル・イン・ロック』、『ファイアボール』、『ディープ・パープル・アンド・ロイヤル・フィルハーモニック・オーケストラ』が必要だったんだ。あの3枚に僕らの音楽的要素は全部含まれていた。オーケストラ風アレンジからジャズ、ブルース、ユーモア、アコースティックまで。それは今も同じだし、そんなテクスチャーとダイナミクスがあってこそ、僕らは常に新鮮でいられる。同じことの繰り返しではないから、いわゆるヘヴィ・メタルとかクラシック・ロックといったカテゴリーに完全にフィットしないんだ。僕らは僕らでしかない。スポーツの世界でもそうだろ? 高額ギャラ選手だけを集めてサッカー・チームを作っても優勝できるとは限らない。勝つのは選手同士がよくプレイし、共通の目的を理解するインテリジェンスを持つチームだ」
●日本公演ではどんなパフォーマンスを見せてくれるのでしょうか?
「ディープ・パープルのショウは69年以降変わってないよ。演奏する曲のことじゃない。ショウを構成する4つの要素のことだ。『誰もが知ってる古い曲』、『ファン以外にはあまり知られてない古い曲』、『最近の曲』、そして4つめは最も重要な要素であり、僕らの要である『即興』だ。それがあるから毎回ショウは新鮮なものになる。セットリストがどうなるかはわからないので、ここで教えるわけにはいかないが、みんなと分かち合う音楽的体験であってほしいと願っている。楽しく、ダイナミクスに溢れた、エネルギッシュなものになるから、ぜひ来てくれ」
●そういえば……イングランドのベスト8入り、おめでとうございました(注:取材が行われたのは7月ワールド・カップの真っ最中だった)。
「Holy Moly! あれはとんでもなく醜い試合だった! あんな試合はもう二度と観たくない。最低最悪、ファウルやイカサマだらけ。だから最近のサッカーは嫌いなんだ。唾を吐いたり、反則行為が目に余る。気分が悪くなる!」
●ありゃあ、失礼いたしました……。
「それでもどうもありがとう、そう言ってくれて。サッカーよりはクリケットとラグビーの方が好きだよ、俺は」