菅田将暉がシンガーとして歌う曲たちは、①「演じるように」歌う曲、②「ただ生活するように」歌う曲、③「菅田将暉とは何か」を問うような曲と、それぞれの特性ごとに分類することができるように思う。けれど、それぞれがしっかりと線引きされているというより、それぞれがそれぞれの境界を知らぬ間に飛び越えて、演じるように歌った楽曲が、何より菅田将暉の本質を表していたり、生活するように歌う曲が俳優・菅田将暉の表現とつながるものだったりもする。だからこそ、彼の歌は聴くたびに違った味わいを覚えて、複雑な感情の集合体、すなわち「生」そのもののようなリアルを感じることができるのだと思う。
「演じるように」歌う曲とは、たとえば前作『PLAY』の1曲目、“さよならエレジー”の冒頭。イントロのギターサウンドからドラマチックに風景が走り出していくかのような楽曲の《僕はいま 無口な空に/吐き出した孤独という名の雲》という歌い出しは、菅田将暉の歌唱によって明確な景色を浮かび上がらせていく。とても物語的であり、役者としての経験とシンガーとしての表現とが美しく結実した楽曲であると言っていい。けれど、この物語的な楽曲に残る後味としては、やはり「菅田将暉」その人なのである。親交の深い石崎ひゅーいの手による楽曲だからこそ、と言うこともできるが、この1stアルバムの、この瞬間から、菅田将暉が歌うことの必然が作品には詰まっているような気がしたのだ。それがとても興味深かった。
その「演じるように」歌う楽曲の究極を見て取れるのが、新作『LOVE』に収録された“キスだけで feat. あいみょん”ではないかと思う。この楽曲での歌唱は俳優・菅田将暉だからこそできる表現であり、芝居や演技ではなく「歌」だからこそ成立するものだ。役者・菅田将暉だからこそできて、映画やドラマじゃないからこそできること──そこに着眼したあいみょんも凄いが、女性のリアルで生々しい感情を、ここまで物語として演じきる(歌いきる)菅田将暉の歌唱は、「演じる」ことを超えて、「生」そのものの切なさや温かさまで感じさせる。
「ただ生活するように」歌う楽曲は、やはり、菅田将暉自身の手による自作曲から感じ取れるものが多い。前作収録曲の“ゆらゆら”からして、自由で定型にとらわれない自作曲はとても魅力的であり、日常で蓄積していく様々な感情を、そのまま流し去るでもなく、無理に整理をつけるでもなく、あるがままに描いていく歌が、提供曲とはまた違った本質を見せてくる。『LOVE』では、自らが作詞作曲の両方を手がける楽曲も増え、中でも“ドラス”では、まさしく菅田自身が日々の生活の中で感じている、とても一言で説明することなどできない混沌とした感情を歌にしている。この思考の収集のつかなさこそが「生きる」ということなのだと、菅田将暉は歌っているかのよう。“つもる話”の歌詞にある、リアルな《ぐでんぐでんのマフラー》や、《いつもの喫煙所》という風景からにじむやるせない感情の描写も、彼の生活の中での眼差しを感じさせるものだ。そこに飾り立てるだけの言葉はなく、やはり菅田将暉という人間の本質が滲み出た楽曲であることを実感する。
「菅田将暉とは何か」を問うような曲は、逆に様々なアーティストからの提供曲に顕著である。菅田将暉をよく知るミュージシャンたちは、菅田将暉という人をその楽曲で表現し、菅田将暉もそれを受け取り、さらに「自分」の色を濃く映し出す作品へと仕上げていった。例えば、最新作『LOVE』で志磨遼平が提供した“りびんぐでっど”。これは役者としての菅田将暉を見ていながら、そこから感じ取れる人間・菅田将暉の本質を綴ったかのような曲だと思う。人間としての情けなさだったり、心許なさだったり、温かさだったり、そこに菅田将暉の魅力が立体的に立ち現れてくる。
米津玄師の手による楽曲“まちがいさがし”もそうだ。《君じゃなきゃいけないと ただ強く思うだけ》という歌詞などは、不確かな世界におざなりの正解を求めるのではなく、自分の感情が揺さぶられることだけを信じていたいと思う、そのピュアな思いが表現されているようだ。歌唱の切実さとストレートさも相まって、ここで描かれている人物は、菅田将暉そのもののように響く。
前作以上に、彼は楽曲提供やプロデュースを行うアーティストとの「共同制作」を通して、「菅田将暉」というものに向き合ったのではないかと思う。そこで俳優・菅田将暉も、人間・菅田将暉も、明確な線引きができるものではなく、どちらの領域にも、それぞれが溶け込んでいることを感じ取ったのではないか。『LOVE』はそういう作品だと思うし、それは「音楽」でなければ表現できなかったはずだ。そして菅田将暉にしか作り得ない作品である。この2作目の濃さは、ちょっと予想以上のものだった。(杉浦美恵)