赤い公園『猛烈リトミック』:世界を知るためのレッスン【前編】

赤い公園『猛烈リトミック』:世界を知るためのレッスン【前編】

傑作。この言葉はそう年に何回も使えるものではないが、このアルバムについては一も二もなく断言できる。今日発売の赤い公園のセカンドフルアルバム『猛烈リトミック』は傑作である。

傑作なので何かを書きたいと思って書き始めたら、長くなってしまった。2回に分けてアップします。



赤い公園の『絶対的な関係/きっかけ/遠く遠く』に収録されている“きっかけ”という曲が好きだ。《もういいかな/心のこりも/なくなっちゃった》と孤独の中で消え入りそうになりながら、明日がゴミの日だとか、明後日があなたの誕生日だとか、そういうちょっとした「きっかけ」で生きることを選ぶ、そんな繊細な心の動きを綴った、津野米咲のパーソナルな心情を描いた楽曲だ。《今日を生き抜く/言い訳がほしい》――「言い訳」という言葉を使っているが、そしてそれが津野にとって正しい温度感なのだろうが、この曲を聴いたとき、僕はその「言い訳」をあえて「希望」と呼びたいと思った。この曲は津野米咲が「希望」を求めていることを赤裸々に明かした告白だと。そして、そんな赤裸々な告白が他ならぬ赤い公園、つまりバンドの作品としてリリースされたということそのものが、僕には大きな「希望」を描いているように思えた。

ではなぜ“きっかけ”は決して津野の個人的な告白にとどまらず、赤い公園の楽曲となりえたのか。それは、独白が独白でなくなったからだ。言葉が人と人をつなぎ、音が人と人をつなぐ、そのもっともプリミティブなかたちが、そこにあったからだ(その意味では“絶対的な関係”と言っていることに大差はない)。津野がJ-POPに対して強烈な興味と関心を示すのは、それが強力で巨大なコミュニケーションだからであり、彼女自身がそのコミュニケーションの一部になることを求めているからだと、僕は勝手に思っている。そして、それを求めるのは今の自分がそれを持っていないからである。“きっかけ”はそんな津野の欲求を、彼女自身の言葉でまっすぐ伝えるものだ。それがバンドのものになり、リリースされてみんなのものになる。それこそ「希望」と呼ぶべきだ。

僕は彼女たちのファーストフルアルバム『公園デビュー』について、JAPANの誌面でこういうレビューを書いた。

「どんなにポップなメロディが奏でられていようとも、どんなにテンションの高いアンサンブルが構築されていようとも、どんなにエモーショナルな叫びが聞こえてこようとも、彼女たちのロックは低体温症であり、覚醒と昏睡の狭間から鳴っている。」

ここでいう「低体温症」「覚醒と昏睡の狭間」とは、要するに外部との回路が半分途切れた状態のことだ。世界に向けて開けていくポップアルバムとしてではなく、自己完結のアーティストの世界を覗き穴から見るような半ばアブノーマルな体験として、僕は『公園デビュー』を聴いた。とても刺激的で、貪欲で、攻撃的な、いいアルバムだと思った。でも僕はその「ポップアルバムにならない(なれない)」ということそのものが、赤い公園の揺るがない本質だと勘違いしていた。津野米咲とはそういうアーティストであり、ポップに憧れて、でもそれと同じにはなれないというところが彼女の表現の根っこなのだろうと思っていた。

つづく
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