3年3ヶ月ぶりの4作目である。2018年9月から曲を作り始め、2019年9月からレコーディングを開始。約1年をかけて制作された。そして先月号本誌のスカイラー・シェルセットのインタビューにもある通り、ロビン・ペックノールドがエンジニアのベアトリス・アルトラとほぼふたりで作っている。ゲストは多数参加しているが、フリート・フォクシーズのほかのメンバーは一切参加していない。つまり本作は実質的にはロビンのソロ・アルバムである。スカイラーの「彼がどうしてこんな作り方をしたのかわからない」という発言からは、怒りというよりは戸惑いの方が伝わってくる。
バンドといいながらも、バンドでレコーディングしてない、という例は、実はさほど珍しいことではない。作曲者がDAWを駆使してトラックまですべてひとりで作り上げてしまい、バンド・メンバーはライブでそれをなぞるだけ、という作り方をしているバンドは、あえてクレジットはしていなくても、たぶん我々が想像するよりもはるかに多いはずだ。単純に作業上そっちの方が効率的で制作費も安く済み、作り込める分サウンドの完成度も高くなるという判断がある。当然そこでは、バンドとはなんぞやという根本的な問いかけが為されるわけだが、コロナ禍によって、バンド・メンバーが一堂に会してスタジオという密室に長時間篭もる、という作り方が以前と比べてやりにくくなっていることも確かだろう。
スカイラーによれば、昨年9月のセッションではバンド・メンバーが参加していたということなので、ロビンは楽曲の制作を進めるにつれ、ほかのメンバーがいなくても、あるいはいない方が、自分の思い通りのものが思い通りにできるという確信を深めていったのだろう。ゲストを使ったのは、手の内がわかっているバンド・メンバーよりは未知数のゲストの方がいいと思ったのかもしれないし、あるいは完全にソロのための駒としてならゲストの方が割り切って使える、という考えもあったかもしれない。いずれにしろロビンはひとりで本作を作ることを、それもソロではなくフリート・フォクシーズ名義で出すことを選んだ。その事情はいずれ明らかにされるだろうが、本作が彼にとって、きわめて個人的な情念から生まれた、きわめて個人的なモチベーションを元にしていることは間違いない。
資料によれば、本作はロビンにとっての音楽的ヒーローであるアーサー・ラッセル、ニーナ・シモン、サム・クック、エマホイ・ツェゲ=マリアム・ゴブルー(エチオピアの女性ピアニスト)といったアーティストにインスパイアされたもので、彼らの「死に直面しても人生を謳歌した」生き方や作品に共感したことが曲作りのきっかけになったらしい。
ロビンは、フリート・フォクシーズのファースト・アルバムが予想外の成功を収めて以来、常に心配と不安を抱えてきた、と言う。「何を作ったらいいのか、どう受け取られるのか、ほかのアーティストの動向や自分の居場所、長期ツアーでの自分の歌声や精神的な健康を心配していました。私はこのプロセスを楽しむことができなかったし、楽しむべきだと思ったこともなかった」(プレス・リリースより)という言葉からは、「成功したバンドのメンバー」であることによる際限のないプレッシャーに苛まれていたことがうかがえる。そんな中で今回のアルバムを完成させることができるのか不安になったが、2020年3月以降のコロナ禍でそうした不安や心配はなくなってしまった。全人類を襲ったパンデミックの災厄に比べればそんな不安など取るに足らぬことと気づき、音楽を作ることができる喜びに満たされたのだという。
つまり本作には、音楽をやる喜びや幸福、充実感といったものと「死」の匂いのようなものが同居している。本作の穏やかでポップでピースフルでさえある歌、そして「バンド・」サウンドからは、愛や希望といったポジティビティと、不確かな未来や不安定で先行きの見えない現実の様相が、合わせ鏡のように同居しているのだ。それが我々の生きる世界であり、過ごしている日常の景色であり、いつの時代でも、どんな場所でも通じる真実なのだと、本作は訴えているように思える。さりげなく、細やかに、丁寧に織り込まれた音の、どこまでも広がっていく光景の美しさに、聴き手は深い思念に誘われる。
本作にあわせて公開されたケルスティ・ジャン・ワーデル監督による映像『Shore』は、アルバムの全曲をバックに、アイダホやワシントン、そしてオレゴンの風景や人びとの営みを描いた作品だ。単純な歌詞の絵解きではなく、BGVでもない。微妙にアルバムと共鳴した内容は、しかしアルバムの背景にあるものをよく表している。(小野島大)
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