『オデュッセイア』も素晴らしい一冊で、そこで語られている題材の数々は多くのソングライターのバラッドに取り上げられている。「早く家へ帰りたい」「思い出のグリーングラス」「峠の我が家」、私の歌でもだ。
『オデュッセイア』は戦争で戦い終えて帰郷しようとする男の不思議な冒険物語だ。長い帰路の旅であり、途中にはいくつもの罠や落とし穴が待ち受ける。彼は呪にかかったように彷徨い続ける。常に海に放り出され、毎回九死に一生を得る。巨大な岩の塊が彼の船を揺らす。怒らせてはいけない人の怒りを買ってしまう。乗組員に問題児もいる。背信。船員たちが豚にさせられたかと思うと、今度は若い色男に変身する。彼は常に誰かを救助しようとする。彼は旅人だが、足止めを食らうことが多い。無人島に流れ着く。人けのない洞窟を見つけ、そこに隠れる。巨人に出くわすが、「お前は最後に食べる」と言われる。そして巨人から逃げる。家に帰ろうとするが、風に振り回される。容赦ない風、冷たい風、不吉な風。遠くまで行ったと思うと、風にまた押し戻される。
毎回次に何が待ち構えているかあらかじめ警告を受けるが、触ってはいけないと言われたものをつい触ってしまう。進む道が二つあったら、そのどちらも凶。どちらも危険を伴う。一方は溺れる可能性があり、もう一方は飢える可能性がある。狭い海峡に入って行き、泡の渦巻きに飲み込まれる。牙の鋭い6つの頭を持った怪物と出くわす。雷に打たれる。突き出した枝に飛びついて荒れ狂う川から身を守る。彼を守ろうとする女神や神々もいれば、彼を殺そうとする者もいる。彼は素性を幾度も変える。疲れ果て、眠りに就くと笑い声で目がさめる。見知らぬ人に自分の話をする。旅に出てから20年になる。何処かに放り出されて、置いていかれたのだ。ワインに薬を入れられたこともある。苦難に満ちた道のりだった。
色々な意味で、これらのことは誰にでも起きり得る。ワインに薬を入れられたことがあるだろう。間違った女性と一夜を共にしたことがあるだろう。摩訶不思議な声、甘い声、聴き慣れないメロディーに魅了されたことがあるだろう。遠い道のりをやっと辿り着いたと思ったらまた押し戻されたことがあるだろう。そして九死に一生を得たことも、怒らせてはいけない人を怒らせたこともあるだろう。この国中を取り止めもなく彷徨ったことだってあるだろう。そして、凶をもたらすあの不吉な風を感じたことがあるだろう。しかし、これだけでは終わらない。
家に辿り着いても事態は決して喜べるものではなかった。妻の親切心につけ込んだ悪党達に家を乗っ取られていたのだ。しかも人数が多すぎる。いくら彼が彼らよりも偉大で、大工としても、狩人としても、動物に関するに知識にしても、海男としても、何をやらせても一流だったとしても、勇気で身を守ることはできない。機転を利かせる他ない。
ゴロツキ達には彼の家を汚した代償を払わせなければいけない。彼は小汚い乞食に変装すると、横柄で馬鹿な下手人が彼を階段から突き落とす。下手人の横柄さに嫌悪感を抱くが、彼は怒りを抑える。百対一にも関わらず、彼らを全員やっつける。一番の強者をもだ。彼は何者でもない。そしてようやく家に帰ると彼は妻と一緒に座り、彼女に冒険談を話すのである。
つまりどういうことか。私自身、そして他のソングライター達も、これらと同じテーマに影響を受けてきた。そしてそれらは無数の解釈ができる。ある歌に心を動かされたのであれば、それで十分なのだ。その歌の意味を知る必要なんてない。私は自分の歌に色々なことを込めてきたが、それらが何を意味しているか案じるつもりはない。メルヴィルが旧約聖書や新約聖書からの引用や科学的理論、プロテスタント教義、そして海や帆船や鯨に関する知識を全て一冊の本に込めた際、彼もそれらが何を意味しているのか案じたとは思わない。
ジョン・ダン然り。シェイクスピアの時代に生きた詩人/聖職者は綴っている。「彼女の乳房のセストスとアビドス。二人の恋人ではなく、二つの愛であり、巣である」これが何を意味しているのかは私もわからない。でも良さげに聞こえる。自分の歌も良さげに聞こえてほしいのだ。『オデュッセイア』に登場するオデュッセウスが英雄アキレスに会いに冥府を訪れた際、平和で幸せな長寿と引き換えに名誉と栄光に満ちた短命を手にしたアキレスはオデュッセウスに全ては間違いだったと語る。「私はただ死んだ。それだけだ」と。そこには名誉はなかった。不朽の名声などない。そして、もし可能であるなら、黄泉の国の王でいるよりも、地球上で小作人の元に仕える奴隷として生きることを選ぶ。どんなに辛い人生であろうと、死ぬよりましだと語っている。
歌も同じだ。我々の歌は生きている人たちの世界でこそ生きるものなのだ。でも歌は文学とは違う。歌は歌われるべきものであり、読むものではない。シェイクスピア劇の言葉の数々は舞台で演じられる為のものであるのと同様に、歌の詞は歌う為のものであり、ページに綴られているのを読む為のものではない。そして、皆さんにも、これらの詞を、聴かれるべき形で聴く機会があることを願っている。コンサート、或いはレコード、或いは今時の音楽の聴き方でも構わない。
最後に再びホメロスの言葉で締めたいと思う。「詩神よ、私の中で歌い、私を通して物語を伝えてくれ」
ノーベル財団のホームページでは同講演の音声と原文を読むことができる。
https://www.nobelprize.org/nobel_prizes/literature/laureates/2016/dylan-lecture.html
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2017.06.13 14:10