津田健次郎さん表紙のCUT8月号、いよいよ本日発売です!
知られざるその半生を語り尽くしてもらった今回のインタビュー。ジャカルタでの幼少期の話題から始まり、映画や演劇に魅了された青年期、声優としての開花から現在まで、その52年の軌跡をじっくりと語っていただきました。2万字に及ぶインタビューでは、これまで語られなかったエピソードも含め、また新たな津田さんを知ることができる内容です。
以下、インタビューの中からいくつかの発言をピックアップしてご紹介します。
小学校はジャカルタの日本人小学校に行ったんです。ちょっと変わってたんだと思うんですけど――学校に行く時、ノートも教科書も何も持っていかないんですよ。すると先生に怒られるじゃないですか。「明日は持ってきなさいよ」って。で、次の日も何も持たずに行くっていう(笑)。かばんは持ってるんです。空っぽのかばんを持って行ってたみたいで。最終的に先生が根負けして、とにかく一回、学校にすべての教科書とノートを持って来いと。僕だけ特例で、それを置いておいていいからって。学校に何しに行くのかもあまりよくわかってなかったんじゃないかな
(日本に帰ってきてからの)小学生の頃の印象的なエピソードでいうと――いじめられていたことですね。(中略)いじめられっ子にいじめられているという、複雑な構造で。毎日、学校に行くと殴られてて、その追い込まれ方はなかなかハードでしたね。やるか、やられるか、あいつを殺すか、僕が死ぬかという二元論のような感覚で。(中略)今となっては、もっと視野を広げられたら良かったと思うんですけど。「大丈夫、他にも学校はあるよ」とか「他にも人はいるよ」とか
高校の頃に(ジム・)ジャームッシュが出てきて、『ストレンジャー・ザン・パラダイス』『ダウン・バイ・ロー』とか、やっぱり何も起きないけど、めちゃくちゃかっこよかったり。スパイク・リーとかもその頃ですよね。そういうものを観ていて、「なんだ、僕だけじゃないじゃん」みたいな気持ちになった。頭のぶっ飛んだ人たちが大手を振って生きてることに、ものすごく勇気をもらって。僕なんか全然、ノーマルもノーマル、どノーマルじゃないかって。そうすると逆に、ノーマルであることがコンプレックスになっちゃったんですけど(笑)。音楽でも映画でも小説でもぶっ飛んだ人たちに出会って、中学の頃には、行くなら映画の道だなって勝手に決めてました
大学に入って、いくつかある映画サークルを見に行ったんですけど、本当にダメで(笑)。「俺、この人たちの作るものが好きじゃない。どうしようかな」ってなってしまったんです。学校の勉強にもそんなに身が入らなくて、モラトリアムに入っちゃったんですよね。ビデオを1日2本借りてきて、毎日観て。学校も行かないで、たまにバイト行って、友達と遊んで、フラフラフラフラと、ただただ無意味に過ごしてました。(中略)とはいえ映画は撮りたかったので、脚本を書かなきゃいけないと思って。でも、一文字も書けなかったんですよ。結局、自分のアイデンティティとの対峙をそこまでしていなかったんだと思います。自分は何が好きで、何を作りたいのかをいざ問うと、出てこない。だから一文字も書けなくて、またフラフラして。それをずっと繰り返してました
(「円・演劇研究所」に通って)面白かったのが――僕は、いろんなネガティブなものを抱えて生きてきたわけですけど、小学校ぐらいから積もり積もっていたネガティブなものをセリフを通してなら表に出していいんですよね。そんな経験、今までなかった。「え、いいの?」って。出したらそれを褒めてもらえたりもして、これ最高じゃん、ってなっちゃって(笑)。芝居ってなんて面白いんだって思いました
40歳ぐらいの頃に、人生の折り返し地点だから、一度自分が死んだと仮定しようと思ったんです。ここからもう一回生き直すとしたら何をして生きていきたいかと考えたら、より純度を高めたくなった。それで、映画作りも始めようと思って。映画を撮りたいという気持ちは、ずっと封印していたんです。中途半端になっちゃうといけないと思ったので。でも、あと20年なんだとしたら撮りたいし、だったらもう撮っちゃおうぜって思って(脚本を)書いてみたら、書けるようになってたんですよ。あんなに一文字も書けなかったものが、20年経ったら、書くものがあった。
カルチャーや芝居を通して自分自身と向き合い続け、唯一無二の表現者となったその半生を紐解きました。全文はぜひ、CUT8月号でお確かめください!(阿部文香)
CUT8月号は現在以下にて購入可能です。