クリープハイプの『世界観』が最高傑作である理由を考える・後編

クリープハイプの『世界観』が最高傑作である理由を考える・後編

いよいよ発売日となったクリープハイプ『世界観』。聴きましたか。聴いた方はわかるとおり、すごいアルバムです。
昨日前編をアップした、『世界観』についての文章の後編です。
前編を読んでいない方はまずそちらを読んでから読んでください。

クリープハイプの『世界観』が最高傑作である理由を考える・前編
http://www.ro69.jp/blog/ogawa/148178

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紆余曲折、というけれど、端から見ればクリープハイプはこれ以上ないほどにストレートに、明確な目標をもって進んできたバンドだ。つまり売れること、ひとりでも多くの人に理解され愛されること、それだけを丹念に追い続けてきたバンドだ。そのために数々のタイアップに挑戦し、コンスタントにリリースを重ね、ツアーもみっちりやり、フェスやイベントにも積極的に出演し続けてきた。言ってしまえば非常にオーソドックスに、バンドとしての正攻法を繰り出し続けてきた。

しかしその中で、おそらく尾崎の中ではモヤモヤとした違和感みたいなものがむくむくと膨らみ続けていたのだろうと、今にしてみれば思う。自分の中のワガママに折り合いをつけて、ポップミュージックとして「正しい」形にして送り出す、相手の求める「クリープハイプらしさ」を「正しく」受け止め、それに100%応える正解を導き出す、全部とはいわないが、そういう意識が本来ワガママでこじれているはずの尾崎の楽曲づくりに侵入していったのだろう。

その最中に、例のレコード会社移籍騒動が起きた。それ自体、本質的には彼らの音楽とは何ら関係のないことだったけれども、バンドの進み方という意味では本当に大きな傷を彼らに残すこととなった。つまり、あえて象徴的な言い方をするならば、あの「事件」は外からやってきたクリープハイプの「挫折」、尾崎の中にあったモヤモヤに加えられた最後の一撃だった。まっすぐ進んでいる道の目の前にガシャーンとシャッターを下ろされたような感覚だったかもしれない。

そこで、ヤバい、クリープハイプを守らなきゃ、と必死に作ったのが『一つになれないなら、せめて二つだけでいよう』というアルバムだった。あのアルバムがバンドとしての親密さと優しさを感じさせるのは、それだけ彼らが、とくに尾崎が弱っていたことの証でもある。だからこそいいアルバムになったともいえるし、だからこそ、バンドはますます迷路に入っていったともいえる。やっぱりここでも、尾崎のモヤモヤは霧散しなかったのだ。

シングルの『破花』を作ったあと、尾崎世界観は清々しい表情をしていた。あの曲はタイアップありきで生まれた曲だが、その中で、尾崎はギリギリまで粘って闘い、やりたいことを最大限やりきった。結果はどうあれ、自分自身の中の衝動やワガママを武器に行けるところまで行ったという手応えが、彼の中にはあった。一方、初めて書いた小説『祐介』。このブログでも前に書いたが、あの小説によって、尾崎は自分自身の中にあるワガママと空洞を再確認することができたのだと思う。尾崎祐介とは何者だったのか、そして尾崎世界観とは何者なのか。『祐介』という小説は、何者でもない少年が自分のなかに眠っている「けだもの」と向き合うまでの物語、そしてその「けだもの」による自画像だ。

そのすべてが、この『世界観』というアルバムにつながっている。このアルバムは尾崎世界観という「けだもの」が自身の衝動と欲望、すなわち「ワガママ」に蓋をすることなく、やれるだけのことをやりたいようにやったアルバムだ。レコーディングのスケジュールがギリギリだったらしいから、蓋をする暇がなかったのかもしれない。でも、たとえ時間があったとしても、今このタイミングで彼が作るべきアルバムはこれだった。

たとえば『一つになれないなら、せめて二つだけでいよう』と『世界観』と、どっちが4ピースギターロックバンドによるメジャーアルバムとして「正しい」かといえば、『一つになれないなら〜』かもしれない。でも、どっちがクリープハイプとしての正解かと訊かれたら、僕は間違いなく『世界観』だという。尾崎世界観のワガママから始まったバンドが、そのワガママをそのままCDに詰め込んだアルバム。それが間違っているわけがない。

アルバム最後の曲”バンド”は、尾崎世界観が初めてバンドのことを歌った曲だ。でもこの曲には「バンドでよかった」「仲間がいてよかった」「これからもずっと一緒にやっていこう」「4人でひとつだ」みたいなメッセージはない。むしろ、いかに自分が「ひとり」かということを歌っているように思える。そしてひとりだからこそ、バンドという存在が大事だということも。いつも「バンドである」のではなく必要なときにいつでも「バンドになる」という関係性、それが尾崎世界観にとってのクリープハイプであり、この妙なバンドのあるべき姿なのだ。その意味で、『世界観』というタイトルは、このアルバムにおいてはそのまま『クリープハイプ』と読み替えることができる。それが前編で書いた「クリープハイプと尾崎世界観が、もう一度しっかりと等号でつながった」ということだ。

クリープハイプとは何かと問われたら、僕は黙ってこのアルバムを差し出す。それでわかってもらえないなら、そんなのもう知らん。
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