心を痺れさせる声──ジェフ・バックリィ『ユー・アンド・アイ』に寄せて

心を痺れさせる声──ジェフ・バックリィ『ユー・アンド・アイ』に寄せて

水難事故の死から20年近く経った現在も、90年代を象徴する伝説的なシンガー・ソングライターのひとりとして愛されるジェフ・バックリィ。未発表音源/ライヴ音源等の追悼リリースが続く彼のディスコグラフィに、新たに加わったアンソロジーが『ユー・アンド・アイ』になる。作品の母体となっているのはデビュー作『グレース』制作の前=93年に行われたプロとして初のデモ・セッション。そのあまりにも短すぎたスタジオ・レコーディング歴の第一歩を捉えた貴重な音源であり、これまで「幻」とされてきたパズルのピースと言える。

1月に行われたロンドンでの試聴会には同セッションを企画した米コロンビアの元A&Rにして育ての親:スティーヴ・バーコヴィッツ氏がゲストとして登場、このセッションのDAT音源が見つかったいきさつ、レコーディング時のジェフの様子など、当事者ならではのヴィヴィッドな思い出を開陳してくれた。その話からも伝わったように、セッションの目的は公式なレコーディングというよりもスタジオでの感触を掴む、というものだった。ゆえにリラックスした内容であり、彼がニューヨークのカフェで行っていたのと同様、演奏スタイルはほぼ全編弾き語りとシンプル、収録曲もほぼカヴァーで占められている。スライ&ザ・ファミリー・ストーンの“Everyday People”に至っては、「ソウル曲をやってみよう」とのバーコヴィッツ氏の提案でその場で決まったアドリブだったゆえ、スタジオから細君に電話をかけ、歌詞を口述してもらったものを書き写しジェフに渡した……との「インターネット普及以前」らしい微笑ましいこぼれ話も出てきた。

その“Everyday People”にしても、ディランの“Just Like A Woman”やザ・スミス“The Boy with The Thorn In His Side”でも、あるいはストレートなポップ・ソング“Calling You”でもいいのだが──彼が歌うことでオリジナルとは異なる息吹が宿り、新鮮な情景が広がる瞬間をこうして耳にするのは、背筋に寒気が走る経験だったりする。まるで同じ部屋でジェフが歌う様を見守っているような錯覚に陥る、本作のインティメイトな作りのせいもあるのだろう。が、曲を内面化し吸収し、自らのグルーヴや身体感覚・リズムに合わせて「ジェフ・バックリィの歌」に変容させてしまう様に優れたシンガーの本能が開花するマジックを感じ、軽く痺れるのは自分だけではないと思う。試聴会の後でバーコヴィッツ氏と参加者による質疑応答が設けられたのだが、その際若い記者が「彼の“Hallelujah”が、こんなに長く愛される曲になると予見していましたか?」と質問していた(イギリスではこの曲が2008年に『The X Factor』勝者にカヴァーされ、シングル・チャート首位を獲得)。もちろん“Hallelujah”のオリジナルはレナード・コーエンであり、ジェフのヴァージョンにしてもジョン・ケイルの同曲カヴァー(1991年)を下敷きにしているので、厳密に言えば「ジェフのもの」ではない。だが、記者が軽く勘違いするのも仕方ないなと思えるくらい──素晴らしくも知られざるカルトな名曲だったあの歌を掘り出し、決定的なアイデンティティを与えたのはやはりジェフの歌声だった。

『ユー・アンド・アイ』という作品に、ニルヴァーナ、ソニック・ユース、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン他数々の名盤を手がけたアンディ・ウォレスと共に生み出した、『グレース』のダイナミックでめくるめくオルタナ・ギター・ロックは鳴っていない。アーティストとしてはまだ試走段階にあったと言えるし、「習作」の記録ではある。しかし、だからこそこの作品で聴き手は原石としてのジェフに出会うことができるのだし、ニーナ・シモン、あるいはヴァン・モリソン、そして言うまでもなく父ティム・バックリィといった、ジャンルやスタイルの垣根を越えてしまうずば抜けた歌い手の系列にジェフもまた連なる人だった……という点を改めて認識させてもくれる。(坂本麻里子)
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