メジャーデビューシングル『トーキョー・ジャーニー』で本格的にロックシーンへ飛び込んできた、兵庫県・明石在住のソロアーティスト・MONONOKE。17歳の時にセルフプロデュースで作ったデモを、サカナクションなどを手がけるエンジニア・浦本雅史のリミックスにより完成させたインディーズ1stアルバム『Supply/Demand』は、いくつものロックバンドやアーティストの顔が浮かんでくる作品であった。そして、近未来感と懐かしさを融合させたサウンドで東京の混沌を表現した『トーキョー・ジャーニー』からは、彼のルーツにあるYMO、電気グルーヴ、サカナクションの音楽に対する姿勢も受け継いでいることが見える。2020年以降の世の中の変化を高校時代に経験し、未来やアイデンティティなどに対する「不安」と隣り合わせで生きる自分と他者に目を向けてクリエイトするMONONOKE。初のインタビューで、MONONOKEの核心をたっぷりと語ってもらった。
インタビュー=矢島由佳子
音楽を作る姿勢として、変幻自在でありたい。偏ったジャンルで作らないし、音楽の定義にもとらわれない
──「MONONOKE」という名前に込めているコンセプトから言葉にしていただけますか。「モノノケには『妖怪』みたいなイメージもあると思うんですけど、僕の音楽を作る姿勢として、変幻自在でありたいということがあって。偏ったジャンルで作らないし、音楽の定義にもとらわれない。そういうアーティスト性を表現する言葉として『MONONOKE』が合っているかなと。今は、音楽の足し算・掛け算の時代だと思っていて。ロックとジャズを合わせる、みたいな。僕の音楽は『これとこれを足してる』とかじゃなくて、『何かがベースにあって、他のジャンルが付随している』『こういうジャンルの曲だけど、よく聴いてみたらこういう要素もあるな』みたいなものである気がしています」
──7月にリリースされたインディーズ1stアルバム『Supply/Demand』にはグランジ、フォークロック、シティポップ、ヒップホップ、ボーカロイドなど様々な音楽性が取り入れられていて、きっといろんな音楽が好きなんだろうなと。
「本当にそうで。母が音楽好きで、小さい頃から音楽を聴く環境が常にありました。母は歌謡曲や90年代ポップス──Mr.Children、THE YELLOW MONKEY、光GENJIとかを聴いてましたね。母もジャンルにとらわれず、いろんな音楽を好む人だったので、その趣味嗜好に影響を受けていると思います」
──お母さんから影響を受けて以降、自分から聴きにいった音楽の中ではどういうものがMONONOKEのルーツになっていると思いますか。
「ひと言で言っちゃうと『オルタナティブロック』。くるり、ゆらゆら帝国、NUMBER GIRL、SUPERCARとか。高校生の時はレコードに興味があって、中古のレコード屋に行って、ジャケットがいいなと思った作品を買ったりしたんですけど、それが大体80年代のもので。シティポップとか、今でいう『エモい曲』『懐かしいサウンド』みたいな。自分で掘った音楽としてはそういうものでした。その中でファンクを好きになったので、それが“トーキョー・ジャーニー”に出ているとも思います」
──その年代の音に惹かれた理由を、自分で分析するといかがでしょう。
「中学生の時にYouTubeのおすすめに出てきたYMOのライブ映像を観て、めちゃくちゃ衝撃を受けました。確か“Firecracker”だったと思うんですけど。それまでボカロとかも全然聴いてなくて、電子的なサウンドにあまり触れてなかったこともあって、『なんていうサウンドなんだ』と思って。その衝撃を経て、2019〜2020年くらいにブームが再燃した時にシティポップを聴いてみたら親和性を感じたというか。機械的なサウンドと生楽器が馴染んでおしゃれになっている音楽を自然と好きになっていきました」
──シティポップ、YMO、90年代J-POP、90年代後半〜2000年代オルタナティブロックに独特な入口から入りつつ、それらを繋げて、自身の感覚で足し引きして作り上げているのがMONONOKEであるということですよね。『Supply/Demand』を聴くとボカロの要素も感じますけど、中学生以降は聴くようになりました?
「高校生以降、なりましたね。やっぱりYouTubeの存在はでかいかもしれないです。おすすめに出てきたものに自分に刺さる曲がたくさんあって。最初、すりぃさんの“テレキャスタービーボーイ”を聴いたら、完全な電子音楽ではなくバンドっぽいけど歌はボカロっていう、僕が思っていたボカロのイメージと全然違って。そこから聴くようになりました」
──すりぃはルーツがロックで、“テレキャスタービーボーイ”とかはまさにダンサブルなロックを追求したものだと思うので、MONONOKEさんがそれに惹かれたというのはすごく納得します。自分で曲を書き始めたのはいつ頃ですか?
「3、4歳の頃から歌を歌う人になりたいと思っていたので、幼稚園の時くらいから曲を作ろうというのが頭の中にあって。だから初めては幼稚園かもしれないですね。短いですけど、言葉をメロディに乗せるみたいなことは、たぶん幼稚園の頃からしていました」
──小さい頃から歌う人になりたかったのは、何か理由とか覚えてますか?
「音楽の原体験はコブクロなんですよ。母が『NAMELESS WORLD』というアルバムを毎朝かけていたから自然と好きになって、その時に自分はこういうものがしたいと思って、それがブレずに今まできてますね」
──そこから本格的に曲を作るようになったのは?
「ちゃんとギターでコードをつけて、歌詞を書いて、メロディに乗せて、ということをやったのは中3の2学期とか。高校1年生がちょうど2020年で、最初はずっと家にいる状態だったので、音楽を作りたい欲もあったし、家でできるならやりたいと思って。そこで初めてメルカリでMacを買って、宅録機材も揃えて、パソコンで曲を作るようになりました。そこから自分の思い通りにいかないながらも曲を作っていって、高校2〜3年で1stアルバムを作ったという感じですね」
自分自身が安心するために作っているところもあると思うんです。ここ数年は何かしら不安なことがあって……今もそうですけど
──高校生の3年間が、2020〜2023年のコロナ禍の3年とどん被りだったということですよね。「どん被りでした。通常の生活ではなかったですね。マスクだったり、人との距離だったり、スケールを大きくいうと日本の政治だったり、常に何か障害や壁があるというか。2020年以降、生活様式が変わると共にものの考え方も変わったじゃないですか。いろんな分野において何もかもが変わって、そういう『考えの変容』みたいなことが1stアルバムには出ている気がします。たとえば1曲目の“ティーネイジ・スクリーム”は、『なんでなんだよ』みたいな10代の鬱憤、焦り、不安を叫びとして代弁していると思っていて」
──変化した2020年以降の世の中や、自分の世代を引っ張っていきたい、みたいな気持ちもMONONOKEさんの中にはありますか。
「引っ張っていきたいというよりかは、自分の音楽を心の拠り所にしてほしいという気持ちがありますね」
──2020年を境にいろいろ変わったからこそ、2020年以降に自分が生み出す音楽が、この時代を生きる人たちに寄り添うことができるんじゃないかという希望と、理想と──。
「本当にそうですね。MONONOKEの曲って、自分にとっても応援されるものでもあるというか。みんなの心の拠り所になってほしいけど、自分が心の拠り所にもしていて。自分自身が安心するために作っているところもあると思うんです。安心、やっぱりしたいじゃないですか。ここ数年は何かしら不安なことがあって……今もそうですけど。不安を感じることがいちばん怖いので。そのことを音楽にして昇華して自分が安定したらいいなって。自分の根本には『不安』というものがあるから、そこをなんとかして安定させることもMONONOKEの音楽の役割であると思います」
──それは、先が見えないことへの不安だったり、自分とは何者であるかということへの不安だったり?
「そうですね。『不安』の中にもいろいろあると思うんですけど。思い通りにいかない不安もあるし。目まぐるしい時代で、どうなるかもわからないじゃないですか。次の日には自分がどうなっているかもわからない、みたいな。その不安感はコロナ禍以降すごくあったので。それが(“トーキョー・ジャーニー”の)《自尊心乗りこなせ》という歌詞に出ているところもあると思いますね」
──東京という激しい戦いの場所にいたり、そこからまた地元に帰ったり、毎日SNSを見たりコメントを受けたりすると、今日は自尊心を高く保てていても次の日はそうなれない、みたいな感情のアップダウンが起こりますよね。
「そうなんですよね。もうジェットコースターみたいな生活になっちゃうし。自分がわからなくなる時って、本当に何も考えられないですよね。自分ってどういう人なのか、自分は今何をしたいのか、そういうことを考えた時に行きつく先が、僕は音楽を作ることになっている。その思考になれることが僕にとっての安心なのかなと思います。“トーキョー・ジャーニー”は、初めて東京に行った時に受けた衝撃や感触をもとに、『翻弄されている新人社員』みたいな主人公を立てて物語を作っていった感じでした。初めて東京に来た時もちょっと不安だったし。地元にずっといた人が急に東京に放り出されると、とにかく目まぐるしい、東京特有の流れを感じるというか。初めて東京に来た人の応援歌にもなったらなと思って作りました」