《ここでもう一度出会えたんだよ/僕ら繋がっていたんだずっと/話したいこと/伝えたいことって/溢れて止まらないから/ほら/ほどけていやしないよ、/きっと》
ahamoのCMでテレビからYOASOBI“三原色”が一瞬流れてくるたびに、こんがらがった思考や感情が一気に澄み渡り、視界が高精細になったような祝祭感を覚えているのは自分だけではないと思う。選び抜かれたリズムと音色で構成されたシンプルな音像に、晴れやかな躍動感を与える、Ayaseの精密なメロディワーク。その歌い回しや呼吸に昔ながらの歌謡曲のテイストを漂わせながら、アクロバティックな技量を要求されるAyase楽曲の譜割もアップダウンも軽やかに(あくまで聴感上で)歌いこなしてみせる、ikuraの凜と澄んだ歌声。「〇〇のような」といった比喩や説明を一切必要としない音のユニバーサルデザインを通して、聴く者を現実から解き放つ浮力を描き出す――。昨年の“夜に駆ける”の大ヒットによって広く世に知られることとなったYOASOBIの音楽の核心が、よりいっそう明快な形で結晶化した楽曲である。そして、そんな“三原色”に触れて改めて感じるのは、この楽曲を生み出したAyaseとikuraの才気が、音楽においても映像においても高解像度がデフォルトのものとなった時代こそが生んだ必然である――ということだ。音楽の表現と「解像度」の関係について、その「解像度」の感じ方の世代ごとの分断について考えるうえで、“三原色”はどこまでも鮮やかな「最適解」なのである。それは一体どういうことか。以下、長い話だがお付き合いいただければ幸いに思う。
幼い頃に心の底から感動した映画やドラマが、何十年か経ってから改めて観たらそこまででもなかった、というケースは誰しも経験のあることだと思う。それが「大人になった」ということだよ、と片づけられがちな話だが、以下のケースは明らかに趣が異なる。
たとえば。1970年代当時、夕方の時間帯に再放送されていた『ウルトラマン』を観るのを毎回楽しみにしていた子供がいたとする。そして、彼は「三面怪人ダダ」が怖くて仕方がなかったとする。無表情の巨大な顔面、白黒の縞模様が全身に躍る不気味なビジュアル。人間に化けて、人間を標本にして母星に持ち帰ろうと企てる狡猾な知能。三つの顔と壁をすり抜ける能力を持ち、巨大化も縮小も自由自在――。ダダが画面に現れるたびに隣の部屋に逃げるくらいには、彼はダダを恐れていたとする。
それから長い年月が過ぎ、30代の父親になった彼が息子と一緒に『ウルトラマン』をDVDで網羅した際、当然ながら30年ぶりくらいにダダとも遭遇することになったとする。果たして彼は、昔のように隣の部屋に逃げ込んだだろうか? 答えはもちろんNOだ。
「ダダって、こんなハリボテっぽかったっけ?」
最初、彼――というか自分も「これが大人になるってことなのか」と思った。が、一緒に観ていた当時保育園児の息子がケラケラ笑いながらダダを観ている図を目の当たりにすると、一概にそうとは言い切れないのではないか?と感じた。同じ『ウルトラマン』の素材でも、それを視聴する環境がまるで異なるからだ。
片や、20インチもないブラウン管テレビのぼやけた映像で観た『ウルトラマン』。片や、大画面が当たり前になった時代のハイビジョン対応テレビで観た『ウルトラマン』。70年代のテレビ画面の中では、薄暗い照明効果を多用した作風と相俟って、ダダの異様な姿が「作りもの」であることを、少なくとも番組に没入していた子供時代の自分は瞬時には見極められなかった。しかし今、画面の隅から隅まで明るく高精細に映し出す大型テレビは、ダダがフィクションであることをも明確に浮き彫りにしてしまう――それは言い換えれば、画質の悪い昔のテレビ受信機によって、ダダは「作りもの」を超えた想像力を喚起させる存在になり得ていた、ということだ。作品を受け手へと届ける媒体(テレビなど)の「解像度」が、作品そのものが持つ「解像度」を超えない限り、そこに映るものはすべて「現実」と「フィクション」の境界線が曖昧なファンタジーとして果てしないイマジネーションを喚起させ得るのである。
そして――ここまでの長い前置きの中ですでにお気づきの方もいるかもしれないが、これは映像だけの話ではない。同様の事象は、音楽の世界においても起こっているのである。
60〜70年代のロックはよかった、という年上世代の愚痴に近い嘆きに触れることが少なからずある。昔のロックは本物だった、歌や演奏では割り切れない「何か」が鳴っていた、と。だが、それは取りも直さず、ピークレベル以上の入力による歪みにも心地好くコンプレッションをかけてくれるアナログテープという録音媒体によって、声と楽器音が(音のディテールの正確性と引き換えに)「演奏以上の正体不明の何か」としてのマジカルな魅力を獲得していたところが大きい。ピークレベルを超えた音量がただの「クリップ(歪み)の原因」として排斥されるデジタルな制作&リスニング環境では、楽器音はあくまで正確な楽器音として粛々と記録される。今、そこに「演奏以上の何か」を立ち昇らせることは、実は20世紀よりも遥かに難しい。
制作現場においても、それを聴き手に届ける手段においても、データ処理能力の加速度的な向上によって恐るべき音の解像度を実現するに至った現在。どれだけ精緻に作り上げられた作品であったとしても、音楽や映像におけるフィクションは「リアルに作られたフィクション」であることを、4Kやハイレゾが当たり前となった時代の中で、隅から隅まで白日のもとに晒されることになる。アナログレコードやラジオ音源をカセットテープに録って擦り減るまで聴いていた自分は、その後CDやMDに出会い、配信音源に出会い、やがてサブスクに出会った。
何億回聴いても音質劣化しないデジタル環境の利便性を享受している中で、我々世代は知らず知らずのうちに、高解像度という名の無限地獄へと突入していたのである。
ちなみに、前述の嘆きの発端は、「青春時代に聴いた60〜70年代の名盤をサブスクで聴いたら、最近のバンドのサウンドに比べて音が軽くフラットに思えて寂しい思いをした」といったものだった。膨大にストリーミングされるアーカイブ内に新譜も旧譜も並列に存在する中で、かつて胸焦がしたマスターピースが、21世紀の新たな音楽に比べて霞んで見えてしまう、と。しかし、その原因は楽曲の優劣によるものでは当然なく、「昔の楽曲は昔のリスニング環境において最大限にマジカルに聴こえるようにカスタマイズされたものだったから」でしかない。
一方、現在中学2年生の自分の息子を含む若い世代にとっては、音楽においても映像においても、この高解像度こそ原体験である。フィクションがその鮮明さによって自ずとネタバレするこの時代を、地獄どころか紛れもない「日常の現実」として生きている。そこに要求されるのは、先人たちによる成功体験の組み合わせによるフィクションの再構築ではなく、この先どれだけ時間が経って解像度がさらに飛躍的に劇的進化したとしても、その表現が色褪せることなく人の心に作用し得るだけの、揺るぎない創造力に他ならないのである。
《どこかで途切れた物語/僕らもう一度その先へ/話したいこと/伝えたいことって/ページを埋めてゆくように/ほら/描き足そうよ/何度でも》
AyaseのYouTubeチャンネルでスペシャルムービーとしてショートバージョンが公開されている“三原色”には後半、このような一節が織り込まれている。もちろんこれは、ahamoのコンセプト「つながりによろこびを」をもとにした書き下ろし小説『RGB』(著・小御門優一郎)から導き出された歌詞であり、ここまで書いてきたような「解像度の地獄とそこに生まれる世代格差」といった内容は一切登場しない。だが、たとえ何十年後かのリスナーが、どんな未知のリスニングメディアで聴いたとしても、この楽曲の歌声と音色そのものによって、確かに心の重力から解き放たれることだろう。
センチメンタルでファンタジックな多幸感にあふれていながら、実はセンチメントにもファンタジーにも微塵も寄りかかることなく、必要なテクスチャーだけをセレクトして組み上げた歌と音の黄金律。たった一枚の絵画や一体の彫像が膨大なイマジネーションを呼び起こすのにも通じる力強い訴求力――。Ayaseのハイパーなソングライティングとサウンドデザイン、そして世代を超えた感動を瞬時に開花させるikuraの歌は、時代の必然であり、希望そのものだ。(高橋智樹)
『ROCKIN'ON JAPAN』2021年6月号「JAPAN OPINION」記事より