突然入ってきた訃報に驚いた。改めて作品を聴き、彼に関する書籍を読んだ。あれ以来、ずっとディアンジェロのことをどこかで考えている。
理解できない音楽というものがある。たとえば10代の自分にとってのそれは『VOODOO』だった。と思っていたら、SNSでも何人かが「ディアンジェロは分からなかった」「あのカッコよさが身体に入ってきた瞬間の感動は凄かった」といったことを書いていて、そういう人は多いんだろうなと再認識した。
構築よりも揺らぎを選び、整合よりも肉体を信じた音楽。ディアンジェロは、ヒップホップ以降の機械的グルーヴを取り入れながらも、ソウルの原初的なリズムを現代に蘇らせた。そのリズムは、聴く者の身体に“再学習”を迫る。快楽とは何か。気持ちよさとはどこにあるのか——彼はその定義を根底から更新した。
その“再学習”に対して、初めは身体のノリがついていけなかったのだろう。けれど、聴き続けるうちに自身の奥で何かがほろほろとほどけ、いつの間にか染み込んでいった。ロッキング・オン12月号に寄せた追悼論考には、そんな「分からなさ」について書いた。
しかし、結局のところ、彼の音楽は聴き終えることができないとも思う。なぜならその新しさは耐久性が高く、黒人音楽のルーツの本質部分を照射しているがゆえに。いつまでも私たちを追いかけてくる、あのズレと揺らぎのカッコよさ。伝統と現代性。この先もずっと身体の奥で鳴り続けるだろう、呪術的なグルーヴ。脆さを内包した強靭さ。運動と陶酔の奇跡的な両立。数々の曲たちよ、永遠に。(つやちゃん)
ディアンジェロの記事が掲載されるロッキング・オン12月号