『ヨルシカ Live「前世」』が映し出す、普遍の「生」とは?――圧倒的な作品至上主義に貫かれた音楽がもたらしたもの

『ヨルシカ Live「前世」』が映し出す、普遍の「生」とは?――圧倒的な作品至上主義に貫かれた音楽がもたらしたもの

ヨルシカが今年1月に行った配信ライブを映像作品化した『ヨルシカ Live「前世」』が5月26日にリリースされた。配信時もリアルタイムで観て、その内容にとても心を動かされたのだが、やはりヨルシカのライブは一般的なライブの概念を覆すものだ。作品としての音源もそうだが、シーンに残すべきはアーティスト自身の名前ではなく、楽曲そのもの、作品そのものであるということを強く感じる。MVにも作り手の顔は一切登場せず意図的に匿名性を保っている。あくまでも、楽曲のテーマの本質だったり、楽曲自体では描かれなかったサイドストーリーを受け取り手がそれぞれに想像して楽しめるように作られているのだ。n-buna(G・Composer)のこの楽曲至上主義、作品至上主義は、ヨルシカ以前のソロでのクリエイティブからも揺らぐことがない。と言っても、ヨルシカのライブに足を運んだことがある人ならご存知だと思うが、n-bunaとsuis(Vo)は間違いなくそこに実在し(照明などの加減で、表情のすべてを読み取ることは難しいが)、演奏は一層の生々しさを感じさせ、suisのボーカルは有機的なエモーションを音源以上に感じさせる。ではなぜ、なぜ彼らのライブは他と一線を画すのか。

2019年に行われたライブツアー「月光」は、『だから僕は音楽を辞めた』と、『エルマ』というアルバムで、ある音楽家の生と死とをめぐる物語を描き上げたあとに行われたものだったが、そこでのsuisはエルマそのものであった。はっきりと作品のコンセプトが目の前で立体的に表現されていく様を、固唾を飲んで観ていた記憶がよみがえる。そしてそこに、別のコンセプトで作られたはずのヨルシカの過去曲が織り交ぜられると、その物語は普遍的な抽象性を帯びて、愛、郷愁、憤り、善悪、そして生死といった、遠い過去から現在に至るまで、人間誰もが生きながらに抱えるテーマが浮き彫りになってくる。そしてそのテーマこそが、1stミニアルバム『夏草が邪魔をする』から、『盗作』と『創作』にまで通じているものだと理解する。ヨルシカのライブとは、単なるアルバム曲のライブ披露の場ではなく、それぞれ強烈なコンセプトで練り上げられた作品たちを俯瞰で感じる場所なのだと思う。ヨルシカの音楽は、ひとつの大きなテーマでずっとつながっていることを理解する、そんな場所なのかもしれない。それが、今回の「前世」というライブでよくわかった。配信ライブというよりも、これはもうヨルシカが表現するひとつの新しい音楽作品と言っていい。だからこそ今回の映像作品化は必然なのだと思う。

n-bunaが描き出す、コンセプトをしっかりと絞って練り上げた楽曲たちは、即効性のある共感を狙って作られたものではない(というか、そもそもn-bunaにその思惑自体がない)のだが、何度も聴くうちに時間をかけてじわじわと自分の人生に重なるものが見えてくる。もちろんポップミュージックとして優れたものであるからこそ、一度耳にしただけでもすぐに心に響くものとして完成されているのだが、その本質を理解しながら自分自身の「生」や「死」と重ね合わせるまでには、少し時間がかかるものだ。私はそれこそがヨルシカの魅力だと思うし、それを少しだけわかりやすく見せてくれるのが、ライブという場なのかもしれない、と思っている。ヨルシカにとって、アルバムやEP作品は、ひとつの世界観を表現するコンセプチュアルな物語作品であり、時にアンタッチャブルだと思うようなテーマでも、n-bunaは事もなげに楽曲に落とし込んできた。そのため(私自身もそうなりがちだが)聴き手は、その時々に自由に描かれた物語を追うのに必死になって、歌詞やアレンジに込められたオマージュの参照元や関連性、意図を探ることに時間を費やしてしまう。しかし、それでヨルシカを理解できると思ってはいけないのだ。あくまでそれはn-bunaの嗜好であり、ヨルシカが描くものの本質ではない。その本質に触れるヒント、近道が、この「前世」だったと言ったら言いすぎか。

思い起こすと、このライブの配信が始まった時、まず、一体ここはどこだ?と、不思議な空間に迷い込んだような感覚を味わった。どうやら水族館らしい。大小様々な魚が静かに泳ぐ。その大きな水槽の前に座るn-bunaもsuisもバンドメンバーもストリングス隊も、この世とも冥界ともつかない、不思議な異空間の中にいるようで(後に八景島シーパラダイスの巨大水槽の前での演奏だったということを知るのだが)、このロケーションが見事にヨルシカというユニットが表現するコンセプトに合致していた。どこでもない場所から鳴る音楽。時間も、場所も、人間の存在さえも不確かなまま、けれど、時代を好きに行き来するような。ダークではあるけれども、穏やかなサンクチュアリみたいな心地好さがそこに映し出された。そこにあるのは純然たる音楽だった。suisの歌声がその幻想的な空間を支配していた。そしてライブが進むにつれて、「前世」というタイトルの持つ意味が漠然と理解できるような気がした。このライブで感じたのは、形を変えて、肉体を変えて、何度も繰り返される人間の「生」であり、エルマやエイミー、そして『盗作』『創作』で描かれた思想犯や、その側に生きた人たちは、もしかしたらn-bunaやsuisだったのかもしれない、あるいは巡り巡って「私」や「あなた」だったのかもしれないという想いだ。ヨルシカの楽曲たちが誰かの前世の物語を紡ぎ上げているような、そんな錯覚を覚えたのだ。そしてその「生」の営みは形を変えて繰り返される。そこにあるのはいつの世も、生きづらさややるせなさであり、避けようのない別離である。誰がどう生きたとしても、すでに生きることの意味、その答えのなさを知ってしまっているのだとしたら、今生は何のためにあるのだろう。その儚さや虚無感の中で、一体何が残るのだろう。だからこそヨルシカは、n-bunaは、純粋に楽曲そのものこそを、ここに遺そうとするのではないか。《君が褪せないように書く詩を/どうか、どうか、どうか今も忘れないように》と歌う“雨とカプチーノ”、《乾かないように想い出を/失くさないようにこの歌を》と綴る“パレード”。ライブの序盤は、この世を去ってもなお、その歌を遺そうとしたエイミーとエルマの物語が描かれる。そして《写真なんて紙切れだ/思い出なんてただの塵だ》と歌う“ただ君に晴れ”や、《ただ夏の匂いに目を瞑りたい。/いつまでも風に吹かれたい。/青空だけが見たいのは我儘ですか。》と切実に歌う“ヒッチコック”と、『負け犬にアンコールはいらない』からの楽曲を挟み込み、「生」の意味を問いながらもがく「前世」を描いていく。さらに“春ひさぎ”“思想犯”“花人局”と『盗作』からの楽曲が世の無常を描き出し、続く“春泥棒”が、「死」へと向かう日々の、残酷なまでに美しく儚い景色を歌う。聴く人が、本当に大切な人の死をまだ実際には経験していなくとも、どんなにまだ若くとも、この儚さは「知っている」のではないだろうか。そんなことを思うのは、ライブタイトルの「前世」に引きずられすぎかもしれないが、ヨルシカの音楽に宿る普遍とは、そういう類のものだ。いつか、ひょっとしたら現世ではないどこかで、きっと経験してきたはずの、人間としての営み。感覚としてプリミティブにセットされている抗いがたい感情。ヨルシカの音楽は、そこに触れるものだということを、このライブを通して強く感じた。そして、それを感じさせるのは、suisの歌声があってこそだということも。ラストの“冬眠”の《雲に乗って 風に乗って/遠くに行こうよ ここじゃ報われないよ》と歌う、その声に宿る霊性を今思う。この声がなければ、n-bunaはヨルシカで、これほどまでに次々と作品を生み出すことはなかったのではないかと思う。1stミニアルバムの『夏草が邪魔をする』でもはじめから存分にそのポテンシャルを見せつけたsuisだったが、『だから僕は音楽を辞めた』以降は、明らかにその歌声が、n-bunaの創作イメージを一層広げる役割を担っているように思う。それにしても《ここじゃ報われないよ》という歌詞である。すべてがこの一文に集約されていく。そして繰り返す儚い「生」。それでもそのやるせなさの中に美しさや喜びを見つけたいと願う人間の切実な感情をn-bunaは紡ぐ。suisは歌う。ヨルシカのライブとは、そうした終わりなき「生」を映すものである。作品ごとのコンセプトがn-bunaの嗜好に基づくものだとしたら、それも含めて、彼らの表現に通底する揺らがぬテーマを浮き上がらせるのが、ヨルシカのライブだと思う。

そんな中、8月から久しぶりのツアーが行われることが発表された。今回は「盗作」というタイトルが付いている。有観客のライブで、次はどんな景色を見せてくれるのか。今から楽しみで仕方がない。(杉浦美恵)




『ヨルシカ Live「前世」』が映し出す、普遍の「生」とは?――圧倒的な作品至上主義に貫かれた音楽がもたらしたもの - 『ROCKIN’ON JAPAN』2021年8月号『ROCKIN’ON JAPAN』2021年8月号
公式SNSアカウントをフォローする

人気記事

フォローする