千年後へ、パレードは続いていく――millennium parade“FAMILIA”と映画『ヤクザと家族』によせて

千年後へ、パレードは続いていく――millennium parade“FAMILIA”と映画『ヤクザと家族』によせて

人は誰しも孤独である。同時に、人は誰しもひとりではない。このふたつが、背中合わせに成立する真理であることを体感した。それが、『ヤクザと家族 The Family』という映画を観終わったあとに残った感慨だった。

『新聞記者』で第43回日本アカデミー賞最優秀作品賞に輝いた藤井道人監督の最新作『ヤクザと家族』は、1999年、2005年、2019年の3つの時代を通して、ヤクザとして生きたとある男・山本賢治の生き様と彼をとりまく人々を描いた作品だ。往年の任侠映画のカタルシスを感じさせる前半から、時が流れるにつれてその栄華は滅び、ただ「反社」としての業を背負って生きる後半へ。物語は、はっきり言って容赦なく重い、苦しい情景を映し出していく。そして、山本が泥くさく生き抜いて迎えた終演を見届けたあと、エンディングロールに流れるのがmillennium paradeの“FAMILIA”だ。本編中は堪えていた涙が、イントロのピアノで堰を切ったように溢れ出したのは、きっと私だけではないと思う。その柔らかな音色とゆっくりと拡がる音像が、「もう泣いていいよ」と、言っているようにすら聞こえた。

さらに、「millennium paradeのゲストボーカル」の井口理の声がふわりと降り注ぎ、感情の流出に追い打ちをかける。King Gnuのメンバーとしてではなく、常田大希というクリエイターの意志を形作る語り手として、どこか浮世離れした井口のボーカリゼーションの存在感は偉大だ。劇中に生きる人々はもちろん、今作に注ぎ込まれた愛情のすべてを包み込む賛美歌のように、映画館に響き渡っていた。

今作について主演の綾野剛と常田が語り合った対談が『CUT2月号』に掲載されているのだが、その中で綾野は「数々の先人たちがたくさん素晴らしい映画作品を残してきて、そして今現在も現役で活躍されている監督たちがいる中で、同世代から起こる新解釈、新世界を作ってきちんと示していく作業は大事だと思っていて。この映画において、その新世界を作る最後のピースは常田大希なのではないかと思い、監督に提案しました」と語っている。そして、常田曰く「この映画に対して最高のものを出してくれっていうオファーだったんです。そんなこと言われたらもう……ね?」。

結論から言えば、当時はまだ数曲しかリリースしていなかった謎多きプロジェクト・millennium paradeに対して「新時代の新解釈」というボールを投げた綾野と藤井監督の嗅覚の鋭さに感嘆するのみだ。King Gnuで金字塔アルバム『CEREMONY』を完成させたあとの常田が、改めてmillennium paradeとして表現したかった核は、まさにそれだったに違いない。「ヤクザ」と「家族」という邦画古来のクラシカルなテーマにオリジナル脚本で挑もうとしている、若き映画監督と俳優という才能。クラシックやジャズの素養を活かしながら、仲間たちとともに現代の音楽表現を模索し続ける常田大希という才能。この運命的なリンクに導かれて、“FAMILIA”は生まれたのだ。

志を同じくする同世代の挑戦者が、自分の「最高の」音楽を求めている。そこでどんな音を鳴らすか。どんな言葉を残すか。常田が書き下ろした“FAMILIA”の詞は、ただ映画のストーリーに沿ったものでも、時代を変えようとするメッセージや堅苦しい責任感でもなかった。独白めいた、パーソナルな言葉だ。

 愛を知ってしまった
 此の期に及んで尚
 生きたいと泣いてた

 走馬灯に映る全ての記憶が
 あなたで埋め尽くされたなら
 もう思い遺すことは無い


ひとりの男が、譲れない大切なものに殉ずる姿。映画の主人公・山本にとっては家族の存在や極道の矜持と読み取れるかもしれない。聴き手によっては、具体的な伴侶を想像した人もいるかもしれない。では、常田は何を思い浮かべたのか。そのひとつは、音楽そのものなのではないかと思う。《この身賭けたとて/釣り合う訳もない》と果てなく焦がれながら、音楽を愛し、音楽に魂を捧げて生きて死ぬこと。もし叶うならあまりにも美しい生き様だ。《もう思い遺すことは無い》のは、その生き様の先に、確かに遺り続ける作品を信じているからだろうか。不器用で狂おしい魂を昇華させるような、祈りの詞とメロディである。

先月リリースされたmillennium paradeの記念すべき1stアルバム『THE MILLENNIUM PARADE』で、常田は「失われたものへの弔いと、新しい年を迎えた祝祭」というテーマを掲げた。浮世絵風のタッチで描かれたジャケット、“Hyakki Yagyo”での花火の音、祭り囃子がサンプリングされた“Bon Dance”などからもわかるように、日本の祭りや慰霊といった概念がモチーフになっている要素が目立つ。受け継がれ続けてきた伝統の新解釈を示すこと。永遠に流れ続ける歴史の中の1ページに、現代に生きる音を刻むこと。そして、自分が生まれた千年後へ問いかける“2992”のように、音楽で果てしない未来を思い描くこと。到底同時にできそうもないことを、この14曲で見事に表現している。国境も、ジャンルも、些末な分断をはるか高みから見下ろすような壮大な音像でありながら、2021年のサウンドとしてのリアリティに溢れているのは、「伝統の火を消さないために」とか「未来に遺すために」とかではなく、常田がただ全身全霊を懸けて「今」、真摯に音楽に殉ずる行為によって生み出されたからだ。アルバムを締め括るのは“FAMILIA”。タイアップをきっかけに形になった想いが、完成に至る重要なパーツだったと言える。

音楽・アートの求道者であると同時に、常田は孤高の表現者ではない。「ヌーの群れを率いる」というKing Gnuの由来もよく知られるところだが、ソロプロジェクトにも「パレード」という言葉をつけたのは、たくさんの仲間たちとともに歩み、作り上げることが念頭にあるからだろう。アーティストとのコラボはもちろん、“FAMILIA”以外にも、Netflix『攻殻機動隊 SAC_2045』に書き下ろした“Fly with me”など、他者の作品を託されるタイアップももちろんそのひとつだ。音楽的知識だけでなく、映画やアニメなどのカルチャー、その作り手たち。常田はさまざまな存在からの影響を貪欲に受け入れ、音楽に還元していく。そして、今度はmillennium paradeの音楽からインスパイアされた映像が生まれ、映像を演出に使用したライブが生まれ、ライブを観たオーディエンスから感情が生まれていく。まるでパレードの列がどんどん繋がって延びていくように、連鎖が途切れることはない。

ふたたび『ヤクザと家族』の話題に戻るが、今作でも「繋がっていく」ということが重要な軸になっている。時代が移り変わる中で人と人との繋がり方は残酷なほど大きく変わっていくのだが、時間は流れても、一度繋がった縁は因果となり、良くも悪くも切れることはない(どんな物語を描き、幕引きを迎えるかは、ぜひ本編を観てほしい)。数え切れないほどの縁の繋ぎ目に自分が存在している、という当たり前の事実を突きつけられて、冒頭の結論になったわけだ。人間は誰しも孤独だが、人間は誰しもひとりではない。繋がっていくこと。それこそが生きる希望であると背中を押してくれたのが、“FAMILIA”という楽曲だった。


さらに、“FAMILIA”のMVには、常田からの逆オファーにより、藤井道人が監督として参加。BABEL LABELの有光文弥が共同監督、millennium parade/PERIMETRONの佐々木集がクリエイティブディレクターを務め、綾野剛らキャスト陣が劇中の姿で登場している。映し出されているのは、厳かな葬送と、旅だった者、遺された者たちそれぞれの表情。ひとりの人間の生きた証である重い柩を背負いながら行列が進む光景とともに、“FAMILIA”が響く映像があまりにも美しい。映画に捧げられた楽曲へのアンサーとして、また新しい芸術作品が生まれたのだ。

2020年代への突入とともに、世界は未曾有の事態に陥り、人々は分断を余儀なくされた。大勢でともに音楽を楽しむことも難しくなった。そんな中で、こうして想いを同じくする者が確かに繋がり合い、新しい音楽、芸術、映画が生まれたことを心から讃えたい。その感動からこの文章が生まれたように、目に見えない連鎖は今この瞬間も絶えず起き続けている。常田大希の音楽は、その繋がりを自覚しているからこそ強い。きっと千年後にさえも、形を変えて遺っていくはずだ。(後藤寛子)



千年後へ、パレードは続いていく――millennium parade“FAMILIA”と映画『ヤクザと家族』によせて - 『ROCKIN'ON JAPAN』2021年4月号『ROCKIN'ON JAPAN』2021年4月号
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