いつかの自分のための鎮魂歌――ヨルシカ『盗作』に寄せて

いつかの自分のための鎮魂歌――ヨルシカ『盗作』に寄せて
ヨルシカの新譜を聴くたびに、相反するふたつの感情に支配される。それは、「いい曲を聴かせてもらった」という喜びと、「よくもこんな曲を書いてくれたな」という恨めしい思いだ。

初めて聴いたヨルシカの曲は“だから僕は音楽を辞めた”だった。YouTubeのレコメンドにあがってきたそのタイトルを見て「なんて恐ろしい曲名をつけるのか」と思った記憶がある。そのタイトルが軽々しいものではなく、たとえば文豪が筆を折ったとか、ベテランの料理人が包丁を置いたとかいうような、何かに打ち込んだ末の「辞めた」であることは、曲を聴く前から想像に難くなかった。しかもこの楽曲は、「音楽を辞めた」と歌う「曲」であるという、圧倒的な矛盾を内包している。底知れぬ不穏さと期待を抱きながら聴いたその曲は、想像以上にすさまじかった。玲瓏なピアノのメロディに乗せられていた歌詞は、触れるのがためらわれるほどに生々しかったのだ。


《ねぇ、将来何してるだろうね/音楽はしてないといいね》《音楽とか儲からないし/歌詞とか適当でもいいよ/どうでもいいんだ》《売れることこそがどうでもよかったんだ/本当だ 本当なんだ 昔はそうだった》。自暴自棄を感じさせるような乱暴な詞は、音楽を極限まで突き詰めたからこそ出てくる言葉だ。この曲だけではない。《あの頃ずっと頭に描いた夢も/大人になるほど時効になっていく》《所詮売れないなら全部が無駄だ》《人生は妥協の連続なんだ/そんなこと疾うにわかってたんだ》(“藍二乗”)、《狭心もプライドも、もうどうでもよかった/気に食わない奴にも頭を下げた》(“八月、某、月明かり”)。同名のアルバムを聴けば、抉るようなフレーズがいくらでも出てきた。何者かになりたいともがき、けれど理想通りにはいかない現実に打ちのめされる。きっと多くの人が経験したことがあり、そしてその多くが口を閉ざし、見ないようにしているはずの傷跡を、ヨルシカは「目を逸らすな」とばかりに容赦なく音楽で引きずり出していた。


だから、2020年7月リリースの新しいアルバムのタイトルが『盗作』だと発表された時、そのショッキングなタイトルにもちろん驚いたけれど、どこか納得感もあった。「ああ、またやるつもりだな」という予感。果たしてその予感は当たっていて、アルバムに先行して公開された“思想犯”の動画の説明欄には、このような文章が掲載されていた。「思想犯というテーマは、ジョージ・オーウェルの小説『1984』からの盗用である。そして盗用であると公言した瞬間、盗用はオマージュに姿を変える。盗用とオマージュの境界線は曖昧に在るようで、実は何処にも存在しない。逆もまた然りである。オマージュは全て盗用になり得る危うさを持つ。この楽曲の詩は尾崎放哉の俳句と、その晩年をオマージュしている。それは、きっと盗用とも言える」。蓋を開けた瞬間に殴りかかられたような気分になった。さらに、アルバムの初回生産限定盤に収録されている小説『盗作』にはこんな文章が綴られている。「たった十二音階のメロディが数オクターブの中でパターン化され、今この瞬間にもメロディとして生み出され続けている。ならばあの名曲も、ラジオに掛かる流行歌も、この洒落たジャズポップすらも、音楽の歴史の何処かで一度は流れたメロディには違いない」。


オリジナリティを求めてしのぎを削る創作の世界で、「盗作」というタブーを持ち出したうえに、「まったく新しいものなどもうない」と斬り捨てる。本当に恐ろしいことをする、と思った。

このような煽りともとれる表現は収録曲の中にも存分に盛り込まれていて、たとえば1曲目のインストゥルメンタル“音楽泥棒の自白”にはベートーベンの「月光」、“青年期、空き巣”にはグリーグの「朝」が引用されている。音だけではなく、“思想犯”では尾崎放哉、“花に亡霊”では川端康成から歌詞の着想を得ており、それをn-buna(G・Composer)自ら「盗作」と表現している。音、言葉、思想を色々なところから引用し、組み合わされた曲たちはコラージュのようであり、それはアルバムのジャケットにも反映されている。

小説『盗作』は、自分の中に埋まらない「穴」の存在を感じている音楽泥棒の男が主人公だ。自分は何も遺さず死ぬのだろうかと思った男は、穴を満たす、とある方法を思いつく。それは、盗んだ音楽で実績と名声を作り、それが十分に積みあがったところで盗作を自白し、すべてをぶち壊すというシナリオだった。それが、誰も見たことのない新しい創作だと男は考えたのだ。
曲も小説もひっくるめた『盗作』という作品には、「すべては偽物である」という考えが通底している。それを最もわかりやすく表現しているのが“レプリカント”だろう。オフィシャルインタビューでn-bunaは「この曲で言いたいのは一つしかなくて。我々はみんな偽物なんだということですね。誰もが、偽物の自分というものに頑張って価値を見出そうとしている。そういう僕の思考をそのまま書いたストレートな曲です」と述べている。


『だから僕は音楽を辞めた』では「何者かになりたい(だがなれない)」。『盗作』では「自分にしかないものが欲しい(しかしそんなものはない)」。2枚のアルバムでヨルシカは、人間の根源に近い欲求を描き出し、しかもそれを撥ねつけてみせた。勘弁してくれ、と思う。それが紛れもない真実であることはよくわかっている。けれど、それは私たちが見ないようにしてきたことだ。だってそうしないと生きていけない。叶わない夢や、「何者にもなれない自分」を直視しながら生き続けるのは苦しすぎる。だから私たちはそんな自分を殺し、もう見えないところに埋めたのだ。そうやってなかったことにしたものを、ヨルシカの音楽は突きつけてくる。許してくれ、勘弁してくれと耳をふさぎたくなるその一方で、けれど中毒のように、ヨルシカを聴かずにはいられない自分がいる。リピート再生にして、何度も何度も繰り返し。その理由もやっぱり同じで、彼らの歌っていることが紛れもなく真実だからだ。自分自身さえ諦めて見放した自分を掘り起こして、確かにここにいたのだと教えてくれるからだ。

ヨルシカの音楽を聴くと、私たちは思わず口を開きたくなる。かつて自分にはこんな夢があり、本気でそれを目指していて、こんなに苦しい思いをし、こんな理由で諦めたのだと、今まで誰にも言ったことのないようなことを語り出したくなる。成就することもなく、どこにでも転がっているような陳腐なエピソードでしかないとしても、自分の人生にもドラマがあったのだということを。そんなふうに、ヨルシカの音楽の慟哭は、いつしか私たち自身の叫びになっていく。


『盗作』というアルバムは、最後“花に亡霊”という静かな曲に着地する。この歌はこう歌っている。《忘れないように 色褪せないように/形に残るものが全てじゃないように》。“盗作”や“思想犯”の主人公がとらわれていた「特別な何かを持っていなければいけない」という価値観から解放するような詞ではないだろうか? この構造は、『だから僕は音楽を辞めた』と『エルマ』というふたつのアルバムの関係性とも似ているかもしれない。音楽を辞めた青年・エイミーの足跡を追うエルマの旅を描いたアルバム『エルマ』には、いなくなったエイミーに対するエルマの強い喪失感が描かれている。けれど、このアルバムが感じさせるのはそれだけではない。“エイミー”では《何も言わないままでも/人生なんて終わるものなのさ/いいから歌え、もう》と。“心に穴が空いた”では、《音楽が何だって言うんだ/ただ口を開け/黙ったままなんて一生報われないよ》と。“憂一乗”では《僕には何にもいらない/お金も名声も愛も称賛も何にもいらない/このまま遠くに行きたい/思い出の外に触りたい/また君の歌が聴きたい》と。エイミーが散々もがき、苦しみながら手を伸ばした「何者かになりたい」という呪いのような渇望から解き放つような、ありのままを肯定するような歌詞が並ぶ。アルバムの最後の曲“ノーチラス”のMVで、エルマはエイミーの死という事実にたどり着く。遺されたギターをかき抱き、涙を流しながら叫ぶエルマからあふれ出るのは「もう一度エイミーに会いたい」という願いだ。その想いに、エイミーの才能のあるなしはきっと関係がない。


《僕は映画をずっと観ている/つまらないほどに薄い映画/席を立ってからやっと気付く/これは僕を描いたドラマだ》(“レプリカント”)。私たちの持つ人生という名のドラマは、大概ありきたりで退屈だ。それでも確かに存在しているし、それは特別でなくてもいいのだと信じて生きていくために、ヨルシカの音楽をいつかの自分への鎮魂歌としたい。(満島エリオ)

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