《さよなら まだ 私は/歌わなくちゃ》というのは、Ado自ら作詞作曲を手掛けた新曲“ビバリウム”の、最後のサビで歌われる歌詞だ。Adoが「歌うべき人」として生まれてきたことを今更疑う人はいないだろうが、Adoが、「歌うべき人」としてのAdo自身にここまで如実に言及したのは初めてのことだろう。そうか、今この言葉を自ら書き、言い聞かせるように宣言しなければ、Adoはもう歌えない、少なくとも歌い続けることは難しいと感じたのだろうなと僕は思った。生々しいシーンもありますし、知らなくてもよかったかもという情報も開示している。
でも言葉にしていなかっただけで、歌ではとっくに開示していたし、答え合わせでしかない
昨年11月、東京ドームという究極のハレの場に立った直後のインタビュー(ライブ3日後の実施だった)で、Adoは「Ado」としての巨大なサクセスを前に、自分自身を置き去りにしてきてしまったことへの後悔を語った。苦しい懺悔のようだった。
Adoとして走ることで、かつて「歌うことでしか」救うことのできなかった自分自身を置き去りにしてきてしまった、私は「Ado」になりすぎてしまった、このままでは「Ado」も、あの日歌うことでようやく生き延びてきた自身の生もまっとうすることができなくなる──。どこか悲しいインタビューだった。5万人が埋め尽くす東京ドームのステージで燦然と輝く光を浴びながら、あの時、Adoははっきりとピンチだった。
それが小説『ビバリウム Adoと私』、新曲“ビバリウム”の前段である。
《さよなら まだ 私は/歌わなくちゃ》という言葉を歌えたことが、その戸惑いを一気に晴らしたと言えるほど明快ではないが、Adoは今、あらためて、Adoとはまだ「途中」なのだと歌っている。クローゼットの中で歌うことしかできなかったAdoが、そのビバリウムに別れを告げ、「Ado」として生きる生の、そのまだ途中なのだと歌っている。
溢れるようなポエトリーリーディングに綴られたあの日の記憶を経て、「歌うべき人」として生きる新たな覚悟へ。その過程を彫刻したふたつの“ビバリウム”の先で、Adoと「Ado」の夢はこれから、本当に叶っていくのだろう。
インタビュー=小栁大輔
(『ROCKIN'ON JAPAN』2026年5月号より抜粋)
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