あいみょんはなんにでもなれる。時に時代を糾弾するメッセージを放つ人になり、時には凪いだ恋を晴れやかに持て余す人になる。ミディアムロングの、すっと伸びたまなじりが見据えるのはステージの向こうの観客だ。彼女が提示してみせたそのビジュアルは今や、令和の新しいシンガーソングライター像として若者世代に周知されている。そして、彼女の魅力とは一体どんなものなのだろうか? 飾らない歌詞で歌い上げるラブソング、等身大で背伸びをしない素朴な性格。普段の言動や考え方などを聞くと、彼女は非常にナチュラルな人物であり、それが自身の作詞作曲する音楽と相まって多くの人間に受け入れられているといえる。
しかし、私はその姿にひときわ輝く個性を見た。彼女の「性の区別を超えた自由な表現」について、今回は3つの楽曲を取り上げ論じてみたいと思う。
俳優としても活躍する菅田将暉とコラボレーションした楽曲“キスだけで feat.あいみょん”は、歌詞が女性パートと男性パートにわかれている。歌い出しの、呼吸の音をふんだんに含んだ菅田将暉の丸く優しさを帯びた声とその歌詞から、リスナー側は彼が女性パートを歌っているのだと気づく。呼応するように、あいみょんは彼が演じる女性パートに続く男性パートを追いかける。
彼女の歌声の魅力とは何か、と聞かれた時、耳触りのいい、掠れたハスキーボイスだと捉える人は多い。この時点で彼女のビジュアルと歌声のギャップが生まれているのだが、この“キスだけで”では男性パートを、つまり自らの持ちうる性別とは逆の性別を示しながら歌っている「表現」をしてみせているために、そのハスキーボイスは最大限の魅力をもってしてリスナーの耳に飛び込んでくる。
お前今日は女だから 今日は女だから
あいみょんが歌い上げると、性別という色相環のグラデーションがぐるりと回り始める。この時あいみょんはどこにも留まらず、色のあわいに揺蕩っている。そしてそれは彼女ないし彼と身体を重ねようとする菅田将暉も同様である。これはまさに、現代の性別に対する不特定化とそれに合わせた愛の多様化への理解に繋がるのではないか、と感じる。アーティストが自ら性別の括りをなくすこと、ひとつの表現として楽曲とすることで、自由の裾野が無限に広がっていく可能性をそこに見ることができる。
また、ライブステージでの彼女が歌の合間に見せる姿はどこまでも「素のまま」という感覚で、そこには脚色なく「あいみょん」しか存在していない。“ハルノヒ”“今夜このまま”など、リアリティの溢れる自然体のラブソングを歌う彼女は、ギターを抱えたつぶらな瞳の少し背の高い女の子だ。MCも、まるで友達に話しかけるように気さくで明るい。けれど、この“キスだけで”を歌うあいみょんの外側には、確かに女を《お前》と言う男性像のヴェールがかかっている。そして、素のままのあいみょんを透かし、余計に美しく見せている。この一見相対するようなふたつの像がぴったりと重なって、オリジナルのあいみょんを際立たせているさまもまた、この楽曲での彼女の「表現」における魅力だと感じる。
同様の印象を感じたのが、2019年のツアー「AIMYON TOUR 2019 -SIXTH SENSE STORY-」での“愛を伝えたいだとか”のパートだ。赤と青のライトに照らされて、その表情には紫の影が落ちていた。そう、あいみょんの歌う「男性性」は紫色なのだ。女性の抱く香りを少しだけ残した、襟足の少し伸びた髪型のような「男性性」。私は、彼女の表現する性別に惹かれる。彼女が表現において歌い上げる性とは、単純なものごとと同義ではない。奥行きがあるぶん、リスナーはあいみょんの歌声に深度を覚えるようになる。男か、女か。或いはどちらでもないのかを考えるために、彼女の歌を聴くようになるのだ。
菅田将暉に続いて、アーティスト・平井堅とのコラボレーションで発表された楽曲“怪物さん feat.あいみょん”。私の中で平井堅というアーティストは、「内在する女性性」という言葉で形容できると感じている人物だ。彼の描き出す女性が主体となる世界観の楽曲では、異性に対する複雑な心境や女心が表現されている。今回のコラボにあたって、先に挙げた彼の「内在する女性性」があいみょんの「女性的な側面」と共演したい、ひとりの男に対しての思いを共に吐露してみたい、と渇望したような背景がもしあるのだとしたら、私としてはとても喜ばしい。それは彼らふたりの内なる表現がぶつかり合った証拠であって、それこそが私の聴いてみたい音楽のコラボレーションの形だからだ。
いなくなれ いなくなれ あなたを好きな私
好意を純粋に受け入れたくない、裏返しの感情を歌ってしまう女性像を、異性である平井堅と彼女と同性であるあいみょんが歌う。その時、全員が「むつかしい性格を抱えた」女性になっている。素直に愛されたくない女性が3人、合わせ鏡のように対面し、そしてひとりの像に結ばれる。ミュージックビデオでは、あいみょんが部屋で平井堅と対話をし、多角的・同一的な女性の影があいみょんを囲み、阻んだり平井堅に択ばれたりする。そして曲の終盤、あいみょんはドアノブを握り部屋を出ようとしても出られずに終わる。
「複雑」なのはどちらなのか、「引き止めている」のは彼と彼女、どちらのほうなのか。性別において1組の男女でありながらも、同性にもなりうるアーティストというのは、きっと彼らだけではないだろうか。「虚飾のない女性」から「複雑さを抱えた女性」に、彼女の新たな表現を垣間見ることのできる、色鮮やかなキラーチューンだ。
男性アーティストふたりとのコラボを経て、新曲として発表した“裸の心“は、清潔なピアノのイントロから始まるバラードだ。
今、私 恋をしている
裸の心 抱えて
あいみょんというアーティストを表すものとして最も顕著な「等身大さ」が「裸」という歌詞でストレートに表現された楽曲となっている。
なぜ、あいみょんは「裸」になったのか? 私は今までに楽曲を通して経験してきたあらゆる恋を回顧し、一日の終わりに窓を開けて深呼吸をするのと同じように、彼女のネイキッドな部分が今、この時点で露わになったのだと感じた。待ち合わせしたり、飲んだり、駅に行ったり、男になったり、女になったりしてきたあいみょんが、すべてを「自分自身が好きだと思える記憶」として抱きしめ、そして、裸になった。
バイバイ愛しの思い出と
私の夢見がちな憧れ
その中には少し背伸びをしてみせた憧れもあったかもしれない。しかしそれもすべて彼女の経験によるものなのだ。あいみょん、というアーティストは、音楽を通して恋をしてきた。音楽の数だけ恋をしてきた。今、彼女はあいみょんという裸の性を歌っている。色づいていない剥き身の果実のようなその身体は、今までと比べて傷つきやすく、過去のように思いを募らせているだけじゃ足らず、相手に好き、と伝えないと不安になってしまうかもしれない。けれどそれが今の「あいみょん」なのだ。裸で恋をしてみようと思った、彼女の新しい恋の始まり。
カメレオンのように姿を変えることのできる、あいみょん。恋の数だけ歌があるのだと教えてくれるその姿は、髪がリズムに合わせて揺れ、フレットを握る指は細くしなやかで、形の良いまぶたはゆっくりと瞬きをし、瞳はスポットライトを取り込み輝く。
人は単純なものには惹かれない。見つめてみた時、異なる方向へ異なる光を散らすものは、真ん中にある熱に触れてみたくなる。あいみょんというアーティストは、自らの音楽性の中で「人はなんにでもなれるのだ」という、これからの未来を生きる不定形で、それゆえに美しい人々に向けて勇気を放つ人物としてこれからも支持されることと思う。
音楽は自由だ。すべてのものにとらわれず、どんなものも形づくれる。
そのことが、今を生きる人間の未来を明るくすると信じてやまない。(安藤エヌ)
『ROCKIN’ON JAPAN』2020年7月号 「JAPAN OPINION」記事より
現在発売中の7月号には、あいみょんの18ページにわたるロングインタビューも掲載中です。
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