【知りたい】宇多田ヒカルに「世に送り出す手助けをしなきゃいけない」と言わしめた、小袋成彬を必ず聴くべき理由

宇多田ヒカルのアルバム『Fantôme』収録“ともだち with 小袋成彬”で、温かく流麗なコーラスを聴かせてくれたのもまだ記憶に新しい小袋成彬が、宇多田プロデュースのもと、EPICレコードジャパンよりメジャーデビューを果たす。

R&BユニットN.O.R.K.のボーカルとして活躍し、音楽レーベルTokyo Recordingsを設立した後、水曜日のカンパネラ柴咲コウ、Capesonらのプロデュース、さらにはRADWIMPS・野田洋次郎が作詞作曲を手掛けたadieu“ナラタージュ”のアレンジとプロデュースを務めるなど、デビュー前にもかかわらずすでにただならぬ経歴を持っている小袋。しかし彼の本当の恐ろしさは、26歳の若さにして数々の著名アーティストや作品に携わるというプロデューサーとしての手腕にあるのではない。それは彼自身に秘められ、そして彼自身の身体によって解き放たれるアーティスト性――すなわち歌唱センス、作詞作曲センス、パフォーマンス力にこそあるのだと、先日行われたデビューコンベンションおよび4月発売のデビューアルバム『分離派の夏』で思い知らされた。おそらく多くの音楽リスナーにとって2018年最初の衝撃となった/なるであろうアーティスト・小袋成彬の凄味を、今、ここに書き記しておきたい。


ソロアーティストとしての彼の表現に触れてまず思ったのは、生きるということはこんなにも切なく、呆然としてしまうほど果てしないものなのか、ということだった。

アルバム『分離派の夏』には、友の死、逃れられない自意識、忘れられない恋の一幕、そしてそれらの出来事や心の揺れによって否が応にも引き起こされてしまう、圧倒的な孤独が描かれている。特に友人の死に触れたある楽曲はアルバムの中で一際印象的で、パーソナルな出来事が描かれながらも、聴き手の心のど真ん中にすとんと落とし込まれるような悲哀が生み出されている。小袋自身が「いなくなってしまった昔の親友のことを突然思い出したことが一つのきっかけとなり、この『分離派の夏』を創り上げた」と語っているとおり、この曲で歌われている喪失感は、アルバム全体に血液のように脈々と流れているように感じる。サウンドも歌詞の寂寥感に寄り添うがごとく、時にぽろぽろと爪弾かれ、時に激情的に雄叫びを上げるギターや、寂しい歌詞を優しく受け止める柔らかなキーボードなどが、ゆったりとしたリズムの中に施されているものとなっている。

しかし彼の楽曲が素晴らしいのは、単に孤独の奏で方が秀逸だからというだけではなく、それを通じて人生の「真理」にまで触れてしまいそうなところにある。
たとえば現在配信されている宇多田ヒカルとのコラボ曲“Lonely One feat.宇多田ヒカル”では、《まだ生きながらえている/なぜ生きながらえている》というリリックが歌われ、またアルバム収録のある曲の冒頭では《世界は僕を待ってないと知る》という言葉が現れる。若くして大きな孤独や痛みを抱えた彼が、このような歌詞をなぞる意味――。それは、どんなに重く悲しい事件や煩わしい苦悩に出遭ってしまっても、それはただのひとつの出来事=点にすぎず、私たちの時間は止まらないし人生は終わらない。すなわち生きるということは、たとえ悲しみや虚しさに埋葬されそうになっていても、真顔で無言でやってくる日々を、止む無くただただ享受し続けるということなのだ――というひとつの「真理」を提示しているということだと思う。きっと彼は、自分が親友の不在という点の延長線上を生きていることをはっきりと自覚し、と同時に孤独感や自我と真正面から対峙することで、人生というものが途方に暮れるほど茫洋であることを悟ったのだ。またそれは、彼が創作活動を行い歌を歌う大義のひとつになっているのかもしれない。小袋の楽曲は日常を描いたものでありながらもどこか常に神秘と手をつないでいるように感じられるのだが、その理由は自らの内面に一心に意識を傾け続けることで逆説的に広大な「真理」へと導かれていくという、彼の不思議なソングライティングの性質にあるのだろう。


これだけ濃密な楽曲を作っているからには、聴き手に届けるのにもかなり高度なスキルが必要となってくるわけだが――小袋成彬というアーティストの歌声とパフォーマンスは、その高尚な詞とサウンドに匹敵するくらいに、いやそれ以上に、受け手に大きな衝撃を与えるものである。

弦楽器のようなビブラートを湛えた美しいファルセットとチェストボイスを駆使し、つぶやきと絶唱の間を縦横無尽に行き来しながら切々と歌い上げるのが彼の歌唱の特徴だが、この歌から醸し出される浮遊感や哀愁はまさに比類がない。彼の手腕や才能だけではなく、これまでの経験や胸に密かに抱えている祈りなど、当人の人生のすべてが歌に詰まっているような気さえする。“Lonely One feat.宇多田ヒカル”や“ともだち with 小袋成彬”で宇多田ヒカルのボーカルと対等に渡り合えたのも、きっと彼が歩んできた26年間の物語が歌声から滲み出ていたからだろう。いちリスナーとしても、アルバム『分離派の夏』を聴いていて、何気ないフレーズなのに息が詰まるほど感極まるシーンが何度もあった。歌だけで聴き手を泣かせられるくらい、彼のボーカルは本当に奥ゆかしいものなのだと思う。

そして、ライブがこれまた畏怖を感じてしまうほど素晴らしかった。デビューコンベンションで見た時、小袋はヘッドホンをつけ、マイク一本を持ちステージに立っていたのだが――まるでサウンドに弄ばれるマリオネットのごとく舞台上をゆらりと歩き回り、絶えず身振り手振りを加えて歌唱する姿が鮮烈だった。音楽を歌い鳴らすというよりも、音楽に憑りつかれているというか、彼自身が半分音楽になってしまっているというか。一般的にライブというのは、アーティストが音楽を主体的に操りオーディエンスの感情を揺るがす場だと思うが、小袋のライブはむしろ、彼自身が誰よりも深くサウンドに憑りつかれ、そのシャーマンのような立ち振る舞いを観客が固唾を呑みながらひたすらに見つめる、という空間だった。そしてそのライブにこそ、筆者の心はもっとも震え上がった。こんなに音楽的な人、正直今まで見たことがない――そう思ってしまうほど、深く、深く、驚嘆させられたのだ。まるで別世界に呑み込まれてしまったかと錯覚させるくらい、たまらなく至高なパフォーマンスを、小袋は草創期から見せつけてくれた。

宇多田ヒカルに「この人の声を世に送り出す手助けをしなきゃいけない」という使命感を抱かせるほどの才能とスキルを開花させた小袋成彬。宇多田がそう語る背景には、誰にも真似できない美しい歌声と、誰にも歩めない物語と、誰にも奪えない流儀があったのだろう。この切なくて偉大なる音楽に、多くのリスナーが触れることを心から願う。(笠原瑛里)