なお、下記に抜粋したインタビュー発言のうち、①〜④は『風に吹かれて-エレファントカシマシの軌跡』(1997年刊)、⑤〜⑩は9月16日(土)発売の最新単行本『俺たちの明日ーエレファントカシマシの軌跡(上巻・下巻)』にも掲載されているので、機会があればぜひお手にとって確かめていただければと思う。(高橋智樹)
①「俺、ロック気狂いじゃなかったんですよね。特に歌詞なんか絶対作品の方がすぐれてるし……俺から見ると、何か気取ってるように見えちゃうんですよ。もう全体的にこう……根こそぎどうにかしちゃいたいっつうか。全くの地の底から沸き上がってない。……そういう気がするんです」
(『ROCKIN’ON JAPAN』1988年5月号)シングル『デーデ』&アルバム『THE ELEPHANT KASHIMASHI』でデビューを飾った直後、宮本浩次21歳当時のインタビュー。拍手する観客を「何騒いでんだよ」と一喝したり、伝説の「客電つけっ放しライブ」を敢行したり……といった具合に、デビュー当時のエレファントカシマシのライブがエキセントリックなまでに張り詰めた緊迫感の中で行われていたことはあまりにも有名だが、その空気感が「ロックバンド特有のストイシズム」とはまったく別のところから――むしろロックそのものに対するシビアな批評精神から生まれたものであることを、上記の発言は生々しく物語っている。
②「重いってどういうことですか? 演奏が重いとか、内容が重いとか。暗い? そうかなあ!? だけどさ、その重いっつうのは、じゃあ、真面目に生きればやっぱ重いですよ。そういう意味での重いだったらわかる。真面目にやれば必ず重いですよ」
(『ROCKIN’ON JAPAN』1989年9月号)3rdアルバム『浮世の夢』リリース時に行われたメンバー全員取材からの発言。インタビュアー=渋谷陽一が発した「エレカシってもともと重いバンドじゃない? 重くなきゃあんな2枚目(『THE ELEPHANT KASHIMASHI II』)作んないでしょう」という問いかけの真意を、言葉のひとつひとつに至るまで真っ向から掴み取りに行くようなテンションが、文字だけでも十分に伝わることと思う。「真面目にやれば必ず重い」――己の現実と/時代と真摯に向き合い、問題意識を最大限に研ぎ澄ませていくことこそが真っ当な音楽家の在り方である、という哲学は、現在に至るまでエレファントカシマシの根幹に息づいている。
③「楽しい歌をやります、僕は。だって俺もともとそうなんだもん。例えばさ、『あくびして死ね、この野郎!』っつってさ、それだって俺の意識の中では明るくて楽しいから」
(『ROCKIN’ON JAPAN』1996年5月号)デビュー当時のレーベル=EPICとの契約終了&事務所解散という危機的状況を経て、新たにポニーキャニオンから移籍第1弾シングル『悲しみの果て/四月の風』をリリースした際のインタビューにて。かつての《太陽の下 おぼろげなるまま/右往左往であくびして死ね》(“奴隷天国”/1993年)のルサンチマン逆噴射的な爆発力と、後にヒット曲“今宵の月のように”へと至る“悲しみの果て”でのメロディアスな訴求力とが、宮本の中では至って自然に整合性の取れた形で共存していることが浮かび上がってくる。
ちなみに、宮本は後日「僕はもう、何しろ最初から『ポップな音楽をやりたい!』と(中略)要するに、奔放にやりたいんですよ。ところが、奔放にやるっていうのはこれ難しいことなんですよ」(『ROCKIN’ON JAPAN』1998年10月号)とも語っており、その時々で「己をいかなる形で解放するか」が各作品の路線に大きく影響を与えていることがわかる。
④「俺“かけだす男”はウォークマン叩き壊しましたけど。ミックスのときにさ、ウォークマンで自分の上がったのを聴きながら新宿をブラブラするわけ。で、『なんだよ、これじゃあよー、〇〇みたいじゃねえか!』って道にバーンって叩き壊しちゃったもん」
(『ROCKIN’ON JAPAN』1997年3月号)これも宮本浩次の「伝説」として頻繁に語られるエピソードのひとつだろう。転機となったアルバム『ココロに花を』で自身初の週間チャートTOP10入りを果たし、さらに最大のヒットアルバム『明日に向かって走れ-月夜の歌-』へ――というタイミングで、『ココロに花を』の完パケの音を初めて聴いた時を振り返って宮本が語ったひと言。“ドビッシャー男”と“うれしけりゃとんでゆけよ”に至っては「最後にもう1回ミックスやんないかって、俺会社に言ったのよ」と明かしており、プロデューサー:佐久間正英&エンジニア:トム・デュラックによって提示された新たなエレカシサウンドへの戸惑いが克明に伝わってくる。その後、「理想のバンドサウンド」を求めた宮本は逆に打ち込みを導入するようになり、やがて衝撃の闘争ミクスチャーロックボム=“ガストロンジャー”を生み出すに至るのである。
⑤「現実に抗うテーマと理由が、わかりやすい部分では目の前にないよね。また、それを好まないよね、僕らはね。で、僕らは『争いのテーマがない』っていうことの、自分自身のもどかしさとの闘いを繰り返してるわけなんですよ」
(『ROCKIN’ON JAPAN』2000年8月号)東芝EMI(当時)移籍第1弾シングルとなった“ガストロンジャー”も収録したアルバム『good morning』を携えてのツアー「超激烈ROCK TOUR」最終日、沖縄ファイナル公演の直後に『JAPAN』誌のインタビューに応じた宮本。停滞した時代への抵抗を『good morning』という作品に最大限に結実させたものの、それによってかえって日本の「攻撃を好まない洗練」という国民性に直面することとなり、新たな葛藤と苦悩を抱えていくことになる。「“ガストロンジャー”なんていう曲を出す時には、実は僕、ずいぶん緊張してたんですよ。『殺されるんじゃねえか?』ぐらいに思ったんだよ、本当に。全然そんなことなかったけど」(同)。
⑥「大衆文化の中で非常に優れたものが数々あって、それを誇りとプライドを持ってやり続けた人たちってたくさんいて。まぁ現代にだってきっといっぱいいると思うんですが、ただ、時代がどうしても非常に豊かですからね。死がここにあるっていうのを意識するチャンスもなかなか少ない。それを意識したギリギリのポップさっていうかですね、そういうのがいいんじゃないかな」
(『bridge』2004年5月号)15thアルバム『扉』リリース時の取材より。作家であり官僚でもあった森鷗外の生涯をそのまま楽曲に昇華した“歴史”に象徴される通り、「世の中におけるポジションとしては空中浮遊をしてる状態だと思いますね」と自身のバンドの状況を分析していた宮本が、21世紀の音楽シーンの中で「命を懸けて闘うべき場所」を探していたことを窺わせる一節だ。このインタビューの中だけでも滝沢馬琴、葛飾北斎、世阿弥といった名匠の名前を次々に挙げる宮本の発言からも、日本の歴史への造詣の深さが鮮明に感じられる。
⑦「『子供の時はこうだった』って振り返るモードとかさ。『でも一歩進まなきゃ』っていうモードとか、そういうのがピタッと合ったような気がしたんですね、この曲(“俺たちの明日”)の中で。だから俺《がんばろうぜ!》っていうのってさ、まあ常套句なんだけど……今まで言えなかった。言いたかったの。それが、攪拌されて素直になれたっていうかさ」
(『ROCKIN’ON JAPAN』2007年6月号)ユニバーサルミュージック移籍第1弾シングル『俺たちの明日』発売に先がけて着うた配信がスタートしたタイミングでのインタビュー。40代に差し掛かり、青春期との決別と「その先」へのさらなる決意を名曲“俺たちの明日”に結晶させた充実感が、虚飾なき言葉のひとつひとつにあふれている。そして、「デビューアルバムの頃の《黒いバラとりはらい》(“ファイティングマン”)を、今の言葉で言ったら《さあ がんばろうぜ!》だったのかもしれない――っていうことに、曲で答えを出せたんですよね」、「全然“ガストロンジャー”と違わないっていうか……さらに言えば、もっと一歩踏み込んでる、最新鋭の僕らだっていう想いがあって」(同)といった発言からは、この曲を明確な「闘いのロックソング」として作った宮本の思索を読み取ることができる。
⑧「『自分は耳聞こえなくなっちゃうのかなあ』って。したら生きてるみんなが眩しいんだよね。19歳から21歳ん時の感じ。自分だけ、どんどんズリ落ちちゃってるっていうかさ」
(『ROCKIN’ON JAPAN』2012年12月号)映画『のぼうの城』主題歌シングル『ズレてる方がいい』インタビュー……というよりも、2012年9月に左耳の急性感音難聴を発症した宮本の近況報告的インタビューからの発言。「俺、今まで120%じゃなきゃ歌わなかったでしょ? その人がさ、20%も出せない状態なのに、人前でなんか歌えない、っていう風に思った」(同)とエレファントカシマシは直後のライブ活動の中止を決定。その後、手術を経て快方に向かう中で、街を歩いている時に感じた違和感と疎外感を伝えた言葉が、当時の宮本の心境をリアルに立ち昇らせてくる。2015年のアルバム『RAINBOW』は、そんな逆境から一歩また一歩と希望へ前進する宮本のドキュメントそのものでもあった。
⑨「巨大なんです、エレファントカシマシって! 巨大だよ、俺は! 知らなかった。傲慢な意味じゃなくて、天職だっていう意味でね。『自分は歌が好きだ』っていうことですよ」
(『ROCKIN’ON JAPAN』2014年3月号)2014年1月、初のさいたまスーパーアリーナ単独公演「エレファントカシマシ デビュー25周年記念 SPECIAL LIVE」を大成功させた直後の取材より。一時はライブの開催自体も逡巡したという宮本が、トータル4時間・計37曲に及ぶ金字塔的ステージを通して、サポートメンバーやスタッフとともにひとつの音楽を具現化していくことの意味を痛感したという宮本。そして、それは取りも直さず、その空間の中核にある楽曲の強さそのものを宮本自身が改めて突きつけられるという体験でもあった。「『俺が楽しいと、みんなも楽しいんだ』っていうことに、ようやく、今さら気づいたの」(同)。
⑩「それこそ今の“ファイティングマン”、今の“四月の風”を4人で歌うべきでさ、それができなければバンドとして存在してる意味ってないんじゃないかっていうふうに毎日、夜寝る前に考えてる。じゃないと、ほんとに生きていけないっていうふうに思って寝られないですよ。だからそのくらいの意気込みでやって、売れなかったらしょうがないっていうところで、この30周年が終わったら、もう一回スタートするべきなんだよ、って思ってます」
(『ROCKIN’ON JAPAN』2017年5月号)デビュー30周年記念の『JAPAN』表紙巻頭特集で行われた「エレカシ10大事件簿」インタビューにて。「エレファントカシマシっていうバンドって、今の宮本君からすると何?」というインタビュアー=山崎洋一郎の質問に対して「…………もうちょっと売りたかったねえ。悔しいよ。精一杯やりたいなと思いますね。ほんと精一杯やんないとマズいよね。ってすごく思います。100%」という述懐に続けて飛び出した上記の「今」の決意表明は、「デビューから30年間、同じメンバーで歩み続けたアニバーサリーイヤーの祝祭感」とは明らかに一線を画した、「これから」へ向けて沸き立つバンドの衝動と焦燥感を真っ向から告げている。《行き先は自由/私の未来に 幸多かれ》と歌い上げた“風と共に”や“今を歌え”、“RESTART”といった新曲群は、エレファントカシマシというバンドが今なお――いや今こそ激烈に音楽の生命力を炸裂させていることの何よりの証だ。
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