①つじつま合わせに生まれた僕等
《善意で殺される人 悪意で飯にありつける人/傍観して救われた命 つじつま合わせに生まれた僕等》インディーズ期に青森県限定500枚でリリースしたミニアルバム『0.』、および同作にボーナストラックを追加したamazarashi初の全国流通盤『0.6.』に収録。湧き水から始まる命の連鎖を描いた1番、現代社会の息苦しさを写実したような2番、その間で歌われているのが上記のフレーズだ。「つじつまを合わせる」とはつまり、話の筋道が通るようにする、矛盾点をなくすということ。人は、時には理不尽に見舞われながら、叶わなかった願いに合わせて進路を曲げる。そうしてどうにか落としどころを見つけながら、人生を進めていく生き物である。自分を納得させようとしても、飲み込めない感情は当然あって、それでも、それらを喉に詰まらせながら生きていくしかないのである。そんなどん詰まりの中で、いったい私たちは何を信じ、何を愛することができるのか。秋田はそれをずっと歌い続けている。
②空っぽの空に潰される
《楽しけりゃ笑えばいいんだろ 悲しい時は泣いたらいいんだろ/虚しい時はどうすりゃいいの? 教えて 教えて》平たく言うとニヒリズム(虚無主義)とは、「『人は何のために生きるのか』、『誰のために生きるのか』などと考えたってしかたがない」という思想のこと。それとは逆の姿勢=「アンチニヒリズム」を掲げるamazarashiの曲からは、自分の生きる意味・価値に向き合うことから逃げてはいけないのだ、というメッセージを読み取ることができる。たとえ、暗いところからやって来て、暗いところへ帰っていくだけの人生だとしても。いくら自分自身と戦ったって、虚しさからは逃げられないと分かっていようとも。
アルバム『千年幸福論』(2011年11月リリース)に収録されている“空っぽの空に潰される”では、上記のフレーズが計3回、サビの度に登場する。結局虚しい時にはどうすればいいのか、その答えは明言されていないし、《教えて 教えて》と叫び続ける状態のままやがて曲は終わっていく。空っぽな空は空っぽなままだし、潰されそうになっている我々は結局そこから逃れることができない。この曲がそうであるように、聴き手に絶望を直視させる秋田の歌詞表現は、決してやさしくはない。人によっては「厳しい」とさえ感じるだろう。しかし、一縷の光のように配置された希望の言葉の欠片たちが、私たちを静かに導いてくれている。
③ジュブナイル
《君が君を嫌いな理由を 背負った君のまま 成し遂げなくちゃ駄目だ/僕は讃える君等のジュブナイル 向こう見ずだっていい/物語は始まったばかりだ》アルバム『ねえママ あなたの言うとおり』(2013年4月リリース)収録曲。リリース当時のインタビューによると、「頑張っている人への応援歌」である一方、秋田が自身の過去を顧みながら、今の自分を奮い立たせるために書いた曲でもあるそうだ。そう考えると、自分嫌いで自信過剰な《少年少女》の中にはかつての秋田も含まれているということになるし、《「人間嫌い」っていうより 「人間嫌われ」なのかもね》というフレーズは自分自身を刺すために書いたことばなのかもしれない。
秋田の歌詞表現の根底にあるのは、下積み時代に蓄積された周囲の人々への苛立ちや、それ以上に大きな自身に対する絶望感である。彼のみならず、結局人には一つや二つの欠落があるものだが、欠落から来る世間とのズレ、ズレから来る違和感というものは、誰にどう説明しても100%伝えきるのはまず無理である。突き詰めると、自分がそれと向き合うしかない。だから秋田は、自分のままで叫んでみろと声を張り上げる。社会に合わせて自分の形を無理に変えるのではなく、そのままの自分で幸せになればよいのだと、声を張り上げる。こういったメッセージは他の曲でも頻繁に登場しているため、秋田ひろむというソングライターの根幹にあるものと判断して差し支えないだろう。例えば、先に紹介した“空っぽの空に潰される”にある《恒久的な欠落を 愛してこその幸福だ》というフレーズもそれにあたる。
④ひろ
《あの日と同じ気持ちでいるかっていうと そうとは言い切れない今の僕で/つまりさお前に叱って欲しいんだよ/どんな暗闇でも 照らすような強い言葉/ずっと探して歩いて ここまで来ちゃったよ》アルバム『夕日信仰ヒガシズム』(2014年10月リリース)収録曲であり、今は亡き友人に向けて秋田が書いた曲。《ひろ お前に話したい事が 山ほどあるんだ聞いてくれるか?》と始まるように、歌詞は、その友人=「ひろ」に語りかけるような形式になっている。この曲を演奏した2019年のツアー「未来になれなかった全ての夜に」では、「若くして死んだ彼は僕にとって青春の象徴です。そしてあの日以来僕にとって青春とは安寧との闘争です。あの夜からずっと背後霊が見張ってます」と語っていた秋田。亡くなった人に対して、私たちはしばしば「きっと天国で見守ってくれている」という言い方をするが、秋田にもそのような感覚があるみたいだ。
夢を諦めて別の道を選んだ人でも、夢を叶えてかつて憧れていた道に進むことになった人でも、一つのことに夢中になれた頃の無邪気な気持ちはいつしか忘れてしまうものである。波風の立つことをおそれ、知らず知らずのうちに妥協の選択をとってしまうものである。秋田のように「青春時代に友人を亡くした」という経験がない人でも、「あの頃の自分に叱ってほしい」と思ったことのある人、心の中で「ひろ」を求めている人はそう少なくないのではないだろうか。上述の通り、秋田の実体験を投影した極めてパーソナルな曲ではあるが、同時に多くの人に刺さる普遍的なメッセージを持った曲でもあるのは、きっとそのためだ。
⑤季節は次々死んでいく
《拝啓 今は亡き過去を想う 望郷の詩/最低な日々が 最悪な夢が 始まりだったと思えば 随分遠くだ/どうせ花は散り 輪廻の輪に還る命/苦悩にまみれて 嘆き悲しみ それでも途絶えぬ歌に 陽は射さずとも》2015年2月リリースの1stシングル表題曲。抜粋したフレーズは、最後のサビで歌われているもの。ここでは、最初のサビで歌われていたフレーズと比較し、両者における共通点と相違点に着目したい。
最低な日々は最低なままで、最悪な夢が最悪なままであることには変わりはない。悲しみや苦しさに苛まれながら紡ぐ歌が途切れることはなく、そしてそこに陽は射さない。しかし過去との心中が叶わないことから来る絶望は、その絶望すらも懐かしみ慈しむ気持ちへと変わった。曲の進行とともに明るい方へと向かいつつ、しかし闇は晴れないのだと同時に歌うこの曲は、「絶望も希望もつぶさに見つめる」という秋田のソングライターとしての基本姿勢が分かりやすく表れた曲といえるだろう。結局我々は、随分遠くまで来たと思えるその日まで生きるしかできないのかもしれない。《絶縁の詩》が《望郷の詩》に変わるその日まで。
⑥僕が死のうと思ったのは
《僕が死のうと思ったのは 心が空っぽになったから/満たされないと泣いているのは きっと満たされたいと願うから》ミニアルバム『虚無病』(2016年10月リリース)収録曲。秋田が中島美嘉に提供した曲で、後にamazarashiでセルフカバーされている。衝撃的なタイトルだけに、中島美嘉が歌唱するバージョンがリリースされた当時(2013年)には賛否両論を呼んだ。《僕が死のうと思ったのは~から》という文体を軸とした、詩のような構成であるこの曲で、冒頭で要因として挙げられているのは《ウミネコが桟橋で鳴いたから》、《誕生日に杏の花が咲いたから》である。ギリギリの状態でどうにか踏ん張って生きている人ほど、日常の中のふとした出来事をきっかけにプツリと糸が切れる瞬間が訪れてしまうもの。そんな過酷な現実が美しくも躊躇ない言葉選びで描かれている。
しかしこのタイトルの意味するところは、「僕が生きようと思ったのは」とつまるところ同義なのだということが、曲が進むにつれて分かってくる。抜粋したフレーズは、曲の中盤で歌われているもの。《僕が死のうと思ったのは》に続く要因が具体性を帯びていく中、《僕》は何に対して悲しみを感じる人物なのかが次第に浮き彫りになる。それはつまり、《僕》が生に求めているもの、生きることに縋りつきたいと思う理由と等しい。生きることに真面目過ぎるあなたの存在によって、救われる命だってある。ラストのフレーズはそんな希望を示唆しているようだ。
⑦命にふさわしい
《愛した物を守りたい故に 壊してしまった数々/あっけなく打ち砕かれた 願いの数々/その破片を裸足で渡るような 次の一歩で滑落して/そこで死んでもいいと 思える一歩こそ/ただ、ただ、それこそが 命にふさわしい》2017年2月リリースの3rdシングル表題曲。生活を営む中で、あなたはどんな時に、自分が生きていることを実感するだろうか。この曲では、《~こそ(~であれ)命にふさわしい》という形で4つの事柄が挙げられている。例えば、人肌の温もり。自分を馬鹿にした相手をいつか見返してやるのだという気持ち。「この人になら裏切られたってかまわない」と思えるほど、信頼できる人との出会い。そして最後に歌われているのが、上記のフレーズである。
優れた才能が生まれつき備わっていて、思うがままに人生を進めることができている人など、実際はほとんどいない。頂に立つ人は輝いて見えるが、そういう人の足元には往々にして、得る代わりに払った犠牲、諦めた願いの亡骸が山積している。それほどまでして手に入れたいもの、他人には絶対明け渡してはならない場所のことを私たちはきっと「心」と呼ぶのだろう。苦痛の滲む《心さえなかったなら》の連呼が表すように、感情がなければ私たちは失望せずに済む。一方で、感情があるからこそ希望を感じることができる。“命にふさわしい”とは、愚かにも希望を諦められない私たちの生き様を、高らかに肯定する歌である。
⑧独白
《「言葉にならない」気持ちは言葉にするべきだ 「例えようのない」その状況こそ例えるべきだ/「言葉もない」という言葉が何を伝えてんのか 君自身の言葉で自身を定義するんだ》シングル『リビングデッド』(2018年11月リリース)、およびアルバム『ボイコット』(2020年3月リリース)収録曲。前者はノイズにより一部の歌詞が聞き取れないようになっている「検閲済み」バーションであり、後者は全容が明らかになったバージョンである。
胸にしみついたコンプレックスや忘れられないトラウマだとしても、その事象に感情を揺り動かされ、それ以降の人生が大きく変わってしまったのならば、悲しくともそれは、あなたを構成する重大な一要素だ。だからこそ、絶望であれ希望であれ、それを言い表すのを誰かに任せてはいけない。他人が言った言葉に同調し、頷くことに甘んじてはいけない。
突き詰めるとそれは、人としての尊厳を放棄しているのと同じではないだろうか――。2018年11月の日本武道館公演「朗読演奏実験空間“新言語秩序”」では最後に演奏された“独白”。その時は小説「新言語秩序」内のいち登場人物の声明として披露されたが、秋田ひろむが歌い続ける理由、そして私たちが「言葉」を手放してはならない理由に肉薄した、非常に核心的な曲でもあるように思う。
⑨未来になれなかったあの夜に
《なじられたなら怒ってもいいよ 一人で泣けば誰にもバレないよ/そんな夜達に「ほら見たろ?」って 無駄じゃなかったと抱きしめたいよ》2019年11月に配信リリース。横浜流星ら若手俳優を起用したMVも話題になった曲。バンドマンの夢と挫折を描いたその物語は、秋田の過去を基にしたものだという。
《夢追い人とは ともすれば社会の孤児だ》というフレーズもあるように、子どもの頃は「将来の夢」を持つことが美徳とされていたにもかかわらず、歳を重ねるにつれていつの間にか、夢を追い続ける人は世間知らず扱いされるようになる。煙たがられるようになる。そんな中、苦渋の想いで「諦める」道を選択したあなたを、事情を知らない他人たちは「戦いに負けた者」とみなすかもしれない。分かりやすくカテゴライズして、好き勝手に論じるかもしれない。馬鹿にしてくるその相手に言い返したところで、どうしてかこちらまで「愚か者」扱いされる窮屈な世の中だが、そうすることで、あなたが人としての尊厳を失う必要など絶対にない。そうなるくらいなら、ギターの音に紛れて怒ればいいし、夜の闇に包まれて泣いたっていい。全ての夢追い人を大きく抱きしめる曲が歌えたのは、不器用ながらも真面目に生きるあなたのことを、一度もないがしろにしなかったamazarashiだからこそだ。
⑩とどめを刺して
《ねえ二度と泣かないように 君を見くびる君にとどめを刺して/僕と逃げよう 潔白ではいられなかった人生 呪いながら》ここまで繰り返し述べてきたように、人はどこかしら欠落している生き物であり、その欠落はどうしても他人には分かってもらえない、結局自分自身が唇を噛み締めながら向き合うしかない。しかし上澄みを解釈した他人は時に好き勝手にあなたの話をするし、それがあなたを生きづらくさせることもある。
アルバム『ボイコット』収録曲“とどめを刺して”は、「社会からのボイコット」をテーマにした曲だ。泣きたくないのは悲しいと認めたくないからだとしたら、悲しいと認めたくないのは「悲しい人」だと周囲から認知されるのが嫌だからか。「誰にだって辛いことはある」と励まされた時に心が曇ったにもかかわらず、「いや、悪気があって言ったことじゃないから」と咄嗟に笑顔を作ってしまったのは、そうして自身の想いを封じ込めることに慣れているからか。自分の気持ちを殺すくらいなら、社会から逃げることは決して悪いことではない。むしろ、逃げること・引き返すことは、時に現状維持の何倍もの勇気を要するため、その決断をできるあなたは誰よりも偉大だ。“とどめを刺して”はあなたが必死に絞り出したその勇気を力強く支えてくれる曲だ。