人でいることのススメ - SUPER BEAVER・アルバム『歓声前夜』リリースツアー 仙台公演に寄せて

アルバムリリースから3ヶ月が経った2018年9月24日。見事チケットソールドアウトで迎えたこの日、SUPER BEAVERが「『歓声前夜』Release Tour 2018~初めての、ラクダ運転~」の9本目となる仙台公演を行った。

たまたま出会ったあの日から2年、やっと初めてライブに来ることが出来た私は、今回のアルバム発売がアナウンスされたときからずっと不思議に思ってきたある疑問の答え合わせをすると共に、彼らが伝えたいことを受け止めるというよりかは、もう両手では抱えきれないほどたくさんの個人的な思い入れを持ってここに来ていた。あの曲が聴きたい。あの曲を一緒に歌いたい。自分の望みをとにかく片っ端から叶えようと意気込んでいたはずだった。しかし終わってみて、自分の細々とした欲なんかよりも真っ先に心に浮かんだのは、「あぁ幸せだ」と馬鹿みたいな台詞を恥ずかしがらず口に出来るくらいの清々しさだった。それくらい彼らのライブはどこまでも本当にクリアに澄んでいて、たった2時間というあの限られた時間の中には、このバンドのすべてが、そして『歓声前夜』の本当の凄さがぎゅっと詰まっていた。

あれから3ヶ月経った今でもあれもこれもととにかく書きたいことがたくさん思い浮かんでくるが、まずはこのバンドが歌うラブソングの素晴らしさを教えてくれたあの曲のことから触れていきたい——。

ライブ開始から続いていたロックバンドらしいヒリついた流れをここに来てガラリと変えたのは、藤原“30才”広明(Dr)が得意気に刻む軽快なリズムのドラムだった。それだけで目の前の景色がパッとワントーン明るくなるそのポップな音色に乗って、「踊れないロックバンド...」という直前の自虐的な発言とはまるで別人のように、ボーカルの渋谷龍太がお立ち台の上で意気揚々とステップを踏み始める。そうして自らお見本を見せるように「踊れますか?」と問いかける彼だったが、それに照れた様子を見せるオーディエンスへと向かって今度は「何恥ずかしがってんだよ!」と愛のある喝を入れると、その言葉が深く心に響いたのか、それぞれが誰に合わせる訳でもなく体を揺らし始め、フロアはあっという間に愉快なダンスホールへと変わってしまった。

こうして始まった“irony”は、実際目にしたこの一部始終を見ても分かる通り、その底知れない明るさと軽やかな足取りに聴いた誰もが思わず心を許してしまうような楽曲になっている。しかしそんな曲調とは打って変わって、意外にも結構辛辣な歌詞がずらりと並んでいるのも1つの大きな特徴だと言えるだろう。例えば1番初めのAメロには、

《駆け引きなんてさ 恥をかかないための 陣取りゲームでしょう》
《終電間際の 優しさなんて 空っぽだって知っている お互いに》

という歌詞がある。どちらのフレーズの頭にも聞いただけで思わずキュンとするような言葉が共通して並んでいるが、その地続きを目で追ってみると、どういう訳か、彼らはわざわざ薄情すぎるほどの現実をその引き合いに出してきて、さらにイコールで結んで方程式にしてしまっている。皆が見て見ぬふりをしてきた恋愛の裏側にある禁断の本質をいとも簡単にほじくり返してきて、さらにそれを暴露しているのだ。しかし見栄がチラつくそんな皮肉を容赦なく吐く一方で、悪戦苦闘しながら何だか力なさそうにこんな本音を漏らす場面もある。

《嫌いじゃない 好きとは言えない/認めてしまえば負けちゃうとか 不毛すぎる自問自答/切り出せない 面倒くさいと 捨てられるのは耐えられないから/繰り返すだけ》

しかも、最後の極めつけはこれだ。

《恋に恋してる なんて本当うまいこと言ったもんだよなあ》

そんな中、SUPER BEAVERのラブソングを語る上で絶対に外せない究極の1曲がある。一昨年リリースされたフルアルバム『27』に収録されている、“赤を塗って”だ。その中で彼らはキラキラした恋に理想を押し付ける虚しさを、恋に恋することへの情けなさをさっきと同じようにつらつらと書き並べているが、ここでもやはり、不器用だけど恋に対してとにかく一生懸命になろうと努力する、「せめて」が口癖の1人の女の子の姿が描かれている。

《泣きたい時にいつだって 夕暮れ時だとは限らない》
《ガラスの靴も履けなければ 悲劇のヒロインにもなりきれず/村人A か Bあたり か弱いセリフなんてない》

しかし、こうして2曲とも「今の状況をどうにかして変えねば...!」と確かに頭を悩ませながら奮闘しているものの、なぜかシリアスな方向に進む気配が全くもってないのだ。“irony”では恋愛に潜むあんなにリアルな真実を暴いていながらも、ライブで実際に披露するとみんなが笑顔になってあっけらかんと踊っていたし、“赤を塗って”では知恵を出してあれやこれやと手を尽くしていた女の子本人が、《幸せじゃないけど 不幸でもない/実は今に浸っている/本当のところ 主人公と思っちゃってるの》と自分で口走ってしまうほど、誰よりも今の状況を楽しんでしまっている始末だ。

しかし、実はこの能天気さこそが、SUPER BEAVERのラブソングの素晴らしさを掴む上で最も重要なヒントになるのではないだろうか。だって考えてみれば、普通なら落ち込み要因にしかなり得ないはずの頼りなさも情けなさも不甲斐なさも、彼らの手にかかれば一瞬にして愛嬌へと変えられる。さらにもっと歌詞の中をよく見てみると、自分の弱みを包み隠さず話してしまうようなそのうっかりした性格も逆手にとって、飾り気のない素直さとしてむしろ自分の武器へと昇華されている。そうして、これまでずっと蓄積してきただけだった自分の欠点と改めてきちんと向き合い、その1つ1つを成敗していくことで、たとえ自分の非力に泣くような恋であろうとも、彼らはロカビリー調のサウンドに乗せて楽観的に歌い上げることが出来るのだ。しかも、そこにはちゃんとした続きがある。

《夕暮れ時なら 涙を浮かべて/もう少し このままでいいかと 笑う/笑えてるうちは まだこっちのもんだ/強気に 赤を塗って》

“赤を塗って”の1番最後にあるこの歌詞。仕事に行くときにしろ、どこかへ出掛けるときにしろ、口紅を塗るという行為は女性にとってとても大事な儀式のようなものだと思っている。毎日のルーティーンに組み込まれている、メイクという行為。それは社会の荒波に揉まれても強く在り続けるための武装だとどこかで耳にしたこともあったが、中でも特に口紅を塗るという工程はその最後の締め。何かに向かう本気スイッチをオンにしていざ自分が変わる瞬間でもあるように、“赤を塗って”でついさっきまで「せめて」が口癖だったあの女の子も、夕暮れ時に泣けない自分を可哀想だと思うことを捨てて、さめざめと泣くことへの憧れを最後の最後で遂に断ち切ったんだろう。しかも、とびきり真っ赤なリップを選ぶときは、いつもよりちょっと特別な1日にしたいと思うからこその最終兵器だ。私だけでなく多くの女性がきっとそうであるように、彼女もまた真っ赤なリップを鞄にそっと忍ばせて、再び前を向いて逞しく歩き出そうとしているに違いない。

そんな彼らが歌うラブソングは、誰かの取り返しのつかない哀しい過去を救うことはないかもしれないし、幸せなはずだと信じて疑わない未来も輝かせてはくれないのかもしれない。でも《流行りもののラブソング どれも全然 自分に当てはまらなくて》(“irony”)とあるように、最も健全にラブソングの役目を果たすべくしてここに鳴る、それ以上でもそれ以下でもない誰かの今を伝える恋の唄。たとえ自分の恋がありふれすぎたものだったとしても、その普通さに胸を張って生きていけるような選択を、きっとこれから先も私たちにさせてくれるはずだ。

さて次は、そんな彼らの唄が見つめる先についての話をしよう——。

この日のライブは、1階スタンディングのキャパシティが約1450人(正確には1451人らしい)を誇る仙台で2番目に大きなライブハウス・仙台PITで行われた。渋谷はこの正確なキャパの中途半端な数が余程ツボだったようで、「一体どこからこの数字が出てきたんだ?」と何度も面白がるように口にしていたが、東北最大の都市とはいえ、これだけの一地方都市のライブハウスを埋めるというのは決して容易いことではないはずだ。それなのに彼は会場の広さどうこうではなく、「1人1人の顔がよく見えます」とこれまた何度も嬉しそうに話しては、端から端まで皆の表情をよーっく眺めており、そのときの心から幸せそうに笑ったあの顔が私は今でも忘れられない。しかも、その言葉と笑顔が決して嘘ではないことを身をもって体験するある出来事が起きた。

“irony”の途中、大好きなこの曲が聴けた喜びを全身で感じながら歌詞を口ずさんでいると、急に渋谷が私に向かって指をさしてきた。あまりにも突然のことに目をまん丸くしていると、さらに彼は笑いかけながら、小さな子供にご褒美のアメ玉をあげるときのように親指と人差し指で丸を作ってくれたのだった。もし自分が観ている側だったなら、彼が指さした先にいるのが誰であるかなんてまず分からないし、特に気にもならなかっただろう。知っているのは当の本人だけかもしれないし、時間にすればわずか2秒にも満たないこと。それなのに、こうして一ファンのたった一瞬の表情でさえも自ら手を伸ばして拾い上げ、「あなた」と「わたし」だけの空間を、まさに「一対一」の時間をそれとなく作り出してくれたのだ。

しかし、嘘のないありのままの「一対一」の関係を、その場限りじゃない末永い関係を、何年も何十年も変わらず唱え続けることは決して簡単なことではないし、とても根気がいることだと思う。彼ら4人はもちろんのこと、それを信じ続ける私たち聴き手もとてもじゃないが楽だとは言い難い。もしかしたら、《不甲斐ない夜こそ本当は出口だ》(“ふがいない夜こそ”) と歯がゆさと向き合わざるを得ないことを言われたら、「そんなに私は弱くない」と捻くれ者の自分が勝つかもしれない。《やれない理由をいくつ探してみたって/やらなかった 後悔が勝つんだ》(“閃光”)と終わった過去のことを掻い摘んできて言われたなら、「そんなこととっくの昔に知っている」と強がりな自分が勝つかもしれない。腹を割って2人で向き合う、「一対一」というのはそういうこと。やはりいろんな意味でリスクを伴うものなのだ。だが、彼らの曲を聴いているとき、あなたは一体どんな姿勢でそこに向き合おうとしているだろうか?あくまでも1つの例だが、私の場合、気付けばいつもまっさらな心のままで彼らの言葉に素直に耳を傾けて、何かを変えようとしている自分がいる。元来、根っこからひん曲がっている性格ゆえ いろんな所で躓いてきたはずなのに、どうしてSUPER BEAVERの音楽を聴いているときだけは 彼らにどんなことを言われても自分はこんなにも素直に聞き入れることができ、何かを起こそうとすら思えるのだろうか?

その理由を探していたとき、ふと頭をよぎったのは、このライブで目にしたある2つの何気ない場面だった。

今回、インディーズながら“予感”がドラマ主題歌として大抜擢されたことを受け、渋谷が書いたバンドストーリーを毎週の放送に合わせて1チャプターずつ公開していく「僕らは“軌跡”でできている」と題した企画が行われた。そこにはお世辞でも手軽に読めるとはなかなか言い難いかなり長めの文章が綴られており、このバンドに起きた出来事の1つ1つが事細かに記されている。この日もある大事な曲を前にしたMCで、軽くなぞる程度ではあったが、渋谷がここに辿り着くまでの自分たちの道のりを話してくれたが、いくら毎週その足跡を自分なりに読んでいたとはいえ、やはり本人の口から直接聞くというのは既知のエピソードやただの年表としてこれまで頭の中で捉えていたのとは訳が違う。彼らの本気の意志に目で声で触れ、より一層、特別な意味を持って心に響いてきてはまるで自分のことのようにどうしようもなく胸が痛んだ。そして、一言一句正確だったかは正直自信がないが、その1つ1つの場面を振り返った後、彼は感傷的になるような素振りも全く見せることなく、サラッとこんなようなことを言っていた。

「人一倍苦労してきた、なんて言うつもりはさらさらないです。この歳まで生きてきただけの、それ相応の苦労をしてきただけだと思ってます」

これを聞いたとき、「あぁそっか...」と心底納得したと同時に、分かっていたつもりで本当は分かっていなかった/忘れかけていた大切なものに触れたような気がして、思わずハッとし涙がこぼれた。確かに、これだけの苦労を味わってきても「それ相応」と一瞥して毅然と立ち振る舞えるその精神的な強さとしなやかな生き方には誰が何と言おうと感服の他はない。もしかしたら、いや残念ながら間違いなく、同じようなことを経験しても私は彼らのようにはなれないだろう。しかし「それ相応」ということは、私たちが各々の年齢で日頃感じるのと同じように彼らもまたそう思ってきたということだ。要するに、彼ら4人はバンドマンとしてステージの上に立つ人間である前に、1人の人間として私たちと同じように何かに悩みながら生きてきた。いや、今日もこうして生きているのだ。

そして、本当にいろんなことを考えさせられたこの意義深いMCの直後に満を持して披露されたのが、あの大事な曲——そう、“シアワセ”だったのだ。

《漠然とした 未来の中に/僕が望んだ 瞬間が/来るのだろうか? 答えはいつも/僕だけが 知ってるはずで》(“シアワセ”)

聴いてまず驚いたのは、木の年輪のように歳を重ねた分だけ厚みと深みを増した、味のある歌声とざらりとしたバンドサウンド。リリース当時にはなかったストリングスのアレンジも加わり、何もない空間に光を引き込み、風を吹かせるかのように、曲が進むにつれどんどんと壮大なアンサンブルが広がっていく。アグレッシブな勢いはそのままに、でもあの頃の若さとはまた違う、彼らと苦楽を共にし、一番近くでその姿を見守ってきたからこその達観した落ち着きが、そこにはあるように感じられた。
一方の歌詞はというと、今の彼らが歌うべくして書かれた予言のようなフレーズばかりが並んでおり、過去に書かれたものであることはもちろん重々承知済みなのだが、それでもやはり未来を全く知らなかったなんて正直到底信じられないくらいだ。しかし、7年前には未来に起こりうる1つの可能性でしかなかったそれらの言葉たちが、今やバンドのこれまでを振り返る上で決して欠かすことの出来ない事実となって、彼らの歩みを伝える1番の語り部としてこのアルバムのど真ん中で鳴り響いている。まさに、奇跡としか言い様のないことが今私たちの目の前では起きているのだ。

《張り裂けそうな 心の奥が/それじゃ駄目だと 僕を殴る/思い返せば 確かな事は/あの日から 変わらなかった》(“シアワセ”)

そんな奇跡から遡ること7年前、のちに「大きな挫折」と呼ぶことになる出来事が、この曲をシングルとしてリリースした2年後に起こった。遂にもうありとあらゆることが決壊してキャパオーバーとなり、ある日のレコーディング最中、しかも自分の歌を聴き返しているときに椅子から崩れ落ちるように力無く倒れてしまったという渋谷。当時はほとんど口もきかないほどメンバーの仲も最悪になってしまっていたというが、これをきっかけに初めて腹を割って話をして、4人はもう一度、自分たちだけで音楽をやり直す決意をする。そう、これがメジャーからの離脱だった。そこからは、自ら車を走らせて今まで行けなかった土地へ挨拶をしに回る日々。しかし、やり直しなんて絶対に効かないまさに絶望的という言葉がぴったりの状況下で、彼らが選んだのは「それなら」の順従ではなく「それでも」の仕切り直しだった。渋谷の言葉を借りれば「逃げないために逃げる」、“シアワセ”から言葉を借りれば《矛盾》ということになるだろうか。しかし、未来のことなど何一つ分かっていなかったはずの4人の少年は、偶然か必然か、この曲の最後にこう書き残してメジャーを去っていったのだ。

《誰もが抱いてる 矛盾のその先に/僕にとって あなたにとっての/シアワセが 待ってるだろう》

それから7年の月日を経て、あの根拠のない予言は、いや正解が全く見えなかったはずの希望は、これっぽっちの差異もなく完璧に現実のものとなった。今こうして私たちが躍起になって牙を向けることなく、穏やかな心のままに彼らの言葉を受け止めることが出来ているのは、きっとその端々に感じる苦労と痛みを知る者としてのとてつもない説得力のおかげなのだろう。

《僕が見せたあの日の 覚悟は迷いながら/いつの間にか 重さを変えて 僕の事支えていた》(“シアワセ”)

そして、思い浮かんだもう1つの場面というのが、アンコール1曲目でのこと。鳴り止まない拍手に手を挙げて応えながらそれぞれの定位置に着くと、一言も言葉を発しないまま、ただ渋谷の優しいブレスだけを合図に4人は静かに曲を始めた。上杉研太(Ba)の包み込むような温かいベース。柳沢亮太(Gt)のコーラスとアコースティックギターは渋谷に寄り添うかのように優しい音色。呼吸することさえ惜しいと思えるほど、全員が吸い込まれるようにステージに目をやり、これまでの流れが嘘のようにぴたっと時が止まり、会場の空気がスっと色を変える。そんな超自然的な瞬間だった。

《一言で 今を変えていける》

こうして始まった“ひとこと”で2度も登場するこのフレーズを耳にすると、私はいつも彼らの曲のタイトルのことを思い出す。というのも、このバンドの曲にはまさにたった一言だけで曲の核心部分にグッと迫るようなタイトルが多く付けられており、痛いところを突いてくるその鋭さと無駄のなさには毎度自分の心が見透かされているような気がして思わずドキッとしてしまうほどだ。挙げればキリがないが、例えば以下のようなものがある。

《好きなこと 好きな人 大切にしたいこだわり/胸を張って口にすることで 未来を照らすんだよなあ》(“秘密”)
《正攻法でいい まっすぐでいい まっすぐがいい/正直者はいつだって 馬鹿のその先を見ている》(“正攻法”)

もちろんこのバンドは上記の言葉通りの信念を持って様々な場面で戦ってきたはずだが、それはあくまでも生きる上での所信表明やマニフェストとして彼らだけに当てはまる事であって、とてもじゃないけど自分とはかけ離れている。私はずっとそう思ってきた。だが《あなたの目に映る顔を見て 僕の知らない僕を知った》(“証明”)とあるように、彼らの音楽は私たち1人1人を映す鏡である。歌詞に映る4人の生き方を通して拗らせた自分の姿をもう一度見つめ直すことが出来るだけではなく、《人として 人として かっこよく生きていたいじゃないか》(“人として”)と真っ直ぐに訴えかけてくれるからこそ、彼らがそうしてきたように自分もまた自分らしくいたい/人として美しく在りたいと自然と思え、無気力だったのが「何かを変えよう」と意欲的にすらなれる。こうした聴き手の曲への向き合い方はすべて、彼らの努力が生んだ財産なのだ。

最後に余談だが、メジャー初年度に3枚目のシングルとリリースされた“シアワセ”を今回再録するにあたり、曲中の《君》という歌詞がすべて《あなた》へと書き換えられた。このバンドがこれまで「一対一」という関係性を、ただの二人称として以上に「あなた」という存在をどれだけ信じてここまで来たのか。それがひと目で分かるこの変化は、彼らが今の時代で歌う理由が他の誰でもない私たち自身だということをそれぞれが強く自覚するための大きなきっかけとなるに違いない。やっぱり彼らの唄が見つめる先には、いつもどうしようもないくらいに「あなた」しかいないのだ。

《僕があなたに伝えたい たくさんの言葉は/いつの間にか 意味を変えて 大切なものになった》(“シアワセ”)

そして最後に——。

思い返してみれば、このアルバムがリリースされると知ったのは今から8ヶ月前、14年目のインディーズバンドが初の日本武道館ワンマンライブを開催したときのことだった。残念ながらその場に居合わせることが出来なかった私は、終演後に舞い込んできたニュースでこの知らせを知った訳だが、普通なら何てことないはずのあることに引っ掛かり、嬉しさに先行して思わず「ん?」と首をかしげてしまった。というのも、彼らはついさっきまであのすり鉢状の八角形の底にいて人々の溢れんばかりの大歓声を存分に浴びていたはず。その夜はもう過ぎたはずなのだ。それなのに次のアルバムのタイトルは、これから歓声が起こるということを意味する『歓声前夜』。この文章の1番初めで触れたように、私はずっとそのことが気になって仕方なかった。

「縁とは、人間の意志をこえて人間に幸福を与える力。もしくはその巡り合わせ」

さて、一瞬だけ話が逸れるが、この日の仙台について渋谷は自身のTwitterで「人の縁を最も感じる土地」だと語っていた。さらに、縁といえば、ロックバンドがこんなにもライブハウスを恋しく思うのは、本当なら交わるはずのなかった無数の人生がそこで出会い交差するからなんだそう。生まれた環境も地位も違う人々がこうして同じように楽しみに待っていた夜を共有して、また別々の日々へと散っていく。悲しいようだけど、それは何より幸せなこと。だから、またこの場所に1人1人の生き方を持ち寄って同じ時間を過ごすために、たった1回きりのその最大級の幸せを皆で噛み締めるために、ライブが終わった後にいつも「またね」とたった一言の約束を交わすのだと、彼はそう言っていた。私がその言葉に堪らず空を仰いでみると、頭上のミラーボールがゆっくりと周り出し、無数の星たちが光る濃紺の夜空のような空間が広がり始め、次に始まる曲を瞬時に察したオーディエンス全員による大シンガロングが巻き起こったのだった。

《東京流星群 見上げた先が遠くても/東京流星群 そこに光があるんだろう/東京流星群 東京流星群/挫折と希望 入り乱れる この日々から手を伸ばして》

そうして始まった曲はもちろん、“東京流星群”。その中でこう歌われるように、確かによく考えてみれば、ここまで長々と触れてきた彼らのラブソングの素晴らしさも、それらの唄が見つめる先も、過去と今の現実の姿と向き合い、そこから手を伸ばしてこそやっと見えてくるものばかりだった。さらに、たとえそこが自分らの故郷に鎮座する日本武道館という大舞台だったとしても、彼らはその一夜限りのライブ以上に、観客それぞれに待つ明日からの人生を見つめ、輝くまであと一歩のその現実の日々を生きる歓びへと変えようとしてくれている。それは、この曲にある通り《眠れない夜の裏側に 僕を待ってる朝があって/眠らない街の片隅で その日を信じてる》からこそ出来ることであり、今回のアルバムが『歓声前夜』と名付けられた1番の理由なのだろう。しかもその宛先は《願いは愛すべき人へ》とある。そう、このアルバムはSUPER BEAVERから私たち聴き手宛ての贈りもの。それを裏付けるかのように、先程触れた「またね」の話の後、渋谷は「そのためには、あなたが必ず生きていること!」と一段と力を入れ身体中を震わせながら叫んでいたが、もし手元にアルバム『歓声前夜』があるなら、ぜひCDと一緒に付いてきた帯を手に取って、その裏側をよく見てほしい。そこに書いてある言葉は、私たちが人として生きるための終身保障の切符。彼が叫んだあの言葉の重み、このアルバムが本当に彼らからの贈りものであることを、この言葉は伝えてくれるはずだから。

そして、この切符を握り締めて生きる限り、私たちは間違いなくこの世界の片隅で幸せに生きていけると強く信じて、思う存分、歓びの声を上げる朝を明日はいっしょに迎えよう。


この作品は、「音楽文」の2019年1月・月間賞で入賞した山形県・蜂谷 芽生さん(21歳)による作品です。


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