私たちは川谷絵音に与えられすぎている - indigo la End『幸せな街路樹』を巡る旅

旅をする気持ちでこのツアーを回っていきたい、と彼は言った。

単に公演のため、各地域へ足を運ぶという意味ではない。それはいわば、曲を巡る旅である。作った本人でもずっと解決しきれず、未だに心に引っかかっているのが、今から歌う曲だ。だから今日から全8公演のワンマンツアーを通して、繰り返しその曲を歌うことで、少しでも何か掴むことができれば、と。
最後の1曲を前にして、期待と高揚に包まれた会場に向けて、ボーカル・川谷絵音の決意が語られた。
その曲の名前は『幸せな街路樹』という。

2019年5月、木々がにわかに青々と色づき始めるころ、indigo la Endのワンマンツアー「街路樹にて」が始まった。
横浜での初回公演の帰り道、火照った身体を微かに潮の香りがする夜風で冷ましながら、私は『幸せな街路樹』の余韻に浸っていた。
そして今も余韻は続いていて、『幸せな街路樹』を繰り返し聴きながら、
「折角だから、私も旅をしてみるのはどうだろう」、などと考え始めている。
本人がそうなのだから当然と言ってしまえば当然だが、『幸せな街路樹』の歌詞は解釈できていない部分が多い。川谷絵音にはもちろん遠く及ばないけれど、その曲を自分なりにじっくりと噛み砕くことができたのなら、ツアーファイナルでは今まで見たことのない景色が見えるかもしれない。

* * *

『幸せな街路樹』は、“僕”の少年時代の回想で幕を開ける。通学路の光景だろうか、街路樹を“家に帰る目じるし”にしていた幼い頃の“僕”は、毎日街路樹が寂しくないように話しかけていた。そんな少年もいつしか、一生分の愛情を注ぐ相手に出会うが、恋はやむなく終わってしまう。
私がこの曲を聴いて、川谷絵音の言葉を借りれば「引っかかった」のは、次の部分だ。
“与える側は愛に満ち溢れている、そう考えれば楽じゃないか”と吐き出し、もう“与える側”にはなれないと諦めかけていた“僕”は、雨のなかで過去を反芻し、こう思う。
“一生分の愛情が絵に描いたような方法で
たくさん君に注がれていた
溢れてたのは僕だったんだ
降りしきる雨に涙が溶けてった”
“君”は“僕”の恋人だった人で、“僕”は“君”をとてもとても愛していた。ここまでは恋愛ソングの定石だが、愛情は“僕”から“君”に注がれていたのに、なぜ“溢れてたのは僕だった”と強調するような口調で歌われるのだろうか。一生分の愛情が“君に注がれていた”なら、注がれた愛情で“君”のほうが溢れていたと考えるのが自然だろう。
私はずっとこの部分の歌詞の意味を理解することができなかった。だが、「答え」になるフレーズを曲の中に見つけた気がした。
“止められない兵器と命の釣り合わない交換も知った上で
奪い合う醜い僕らも与えられていて与えてもいて”
“与えられていて与えてもいて” ――与える側/与えられる側、という単純な二項対立ではなく、生きとし生けるものが、知らず知らず誰かに何かを与えられており、与えてもいる。そのことに、“僕”は、そして私たちは気づく。
一生分の愛情を注いでいた“僕”としてみれば、“君”を愛することがそのまま、生きる理由、存在意義になっていたことだろう。「与えていたつもりなのに、実は溢れるほど与えられていた」ことに気づいたからこそ、涙したのだろう。
そう考えると、こんな解釈もできる。通学路の街路樹が温かい気持ちを味わえるようにと、街路樹に話しかける冒頭のシーンについて触れたが、“温かい気持ちを味わえる”のは街路樹ではなく、“僕”のほうだったとも言えるだろう。「愛を与えることで与えたほうも救われる」構図が、ここにも見てとれる。

だからこそ、“意外とこの世界は救いがある”と“僕”は歌う。
サビで繰り返される、“「幸せだった、でもまた会えたらいいな」って”という思いは一見ひどく切ない。
“幸せだった「から」また会えたらいいな”の場合、再会の可能性がわずかでもあるが、“幸せだった、「でも」また会えたらいいな”、の場合は、二度と会うことの叶わない相手に向けて歌われていると考えられる。行間に「もう(あの頃と同じようには)会えない」が差し挟まれている。つまり、幸せだった思い出は、絶対的な過去となっている。にもかかわらず、曲を最後まで聴くと切なさだけでなく、一筋の光を見出すことができる。それは、失った痛みと同じくらい、抱えきれないほど幸せな思い出が与えられていたからだろう。

そして、幸せな思い出を抱えつつも、歩き出そうとする“僕”は、こう問いかける。

“少しだけ
胸に手をあててみて
心が動いているでしょ?
幸せな街路樹を植えてさ、あなたも与えて”
“心が動いているでしょ?”と問う部分、この「心」は感情としての心でもあれば、文字通り、心臓という意味でもあると考えられる。生命の躍動を感じとる部分で終わる、印象的な幕引きだが、生命こそ、私たちが与えられた最たるものではないだろうか。何も与えられていないように思えても、私たちは与えられることなしには存在しえない。生まれたときから、生命が与えられている――これは、“与えられないのは運命で僕も君もあんたも同じなんだ”と自暴自棄になっていた中盤の歌詞への応答とも読み取れる。
また、タイトルにもなっており、曲中で重要な役割を果たす街路樹は、生命の象徴だと言うこともできるだろう。
さらに、忘れてはいけないのが、雨の存在だ。
“雨の日は嬉しそうにしてるような気がして”、“いつかの夜に大好きだった雨”、“降りしきる雨”――街路樹に恵みをもたらすものであり、それ自体が生命と同じ構造(連綿と循環していく)でもある雨を、単なる背景に留まらせておくのはあまりに惜しい。
だから『幸せな街路樹』は、この言葉で始まって、この言葉で終わるのだ。

““雨のにおいがしたって””

* * *

『幸せな街路樹』を巡る旅は、ようやく一つの着地を見た、ような気がしている。
しかし、最初に書き忘れたが、この旅が終わることはない。ここで書いたことは一つの見方に過ぎないし、他の曲と関連づけて考えたわけではないし、聴けば聴くほど新しい見方、旅路に誘われることは容易に想像がつくからだ。

とどのつまり、私たちは川谷絵音に与えられすぎている。
でも、だからこそ、この文章を読んでくれたあなたに、何かを与えることができたのなら。

私は、とても幸せだ。

(本文中、indigo la End『幸せな街路樹』の歌詞を引用した箇所があります。※引用符で表記しました。)


この作品は、「音楽文」の2019年7月・最優秀賞を受賞した東京都・もろきゅうさん (25歳)による作品です。


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