僕も貴方も人間だから - Mrs. GREEN APPLEは「愛」を歌う

人間は綺麗なものではない。
人を裏切ることだってあるし、嘘をつくことだってある。
弱さ故の自己防衛でもあるのかもしれないが、それをわかってはいても、受け入れることは容易ではないのだ。
誰かの醜い部分が垣間見えた瞬間はどうしようもなく嘔吐感に襲われるし、それは自身の場合も同じで自己嫌悪で息ができなくなる。
誰も彼も、弱さを、その醜さを受け入れることは、不可能でないにしろ困難である。
人は誰しも傷つきたくはないのだ。
自分のことでこんなにも精一杯になってしまっている。
人と関わるのに少しずつ恐怖を感じるようになり、億劫だと思うようになってしまっている。



そんな日々に手を差し伸べてくれた人達がいた。
Mrs. GREEN APPLEだ。

彼らは、「人の弱さ」を知っていた。
そして、その弱さに寄り添ってくれた。

《独りじゃないと否定出来るように/明日も唄うんだ》(“StaRt”)

彼らは僕を独りにはしなかった。
弱さを否定することもしなかった。
キラキラしたメロディーに載せて「愛」を歌っていた。
まるで、親が子に抱くそれだ。無条件の愛だ。

「底なしの人間愛」

僕は、彼らの音楽に込められたものをそう呼びたいと思った。
誰にでも平等に愛を与えるその姿勢はまるで神様みたいだ。



その愛情はどこから湧いてくるのだろうか。



彼らの音楽に救われる毎日で、そんなことをぼんやりと考えていた。
彼らが、「愛」を歌う理由についてただひたすら思いを巡らせた。


ふと、胸が痛んだ気がした。

「寂しい」

誰かが泣いているような気がした。


《私の中の「寂しさ」を/その心とその眼で/救い出してよ》(“日々と君”)

そう歌っているのは紛れもなく、大森元貴であった。
僕に愛を与えた張本人が、愛を欲して泣いている。
彼が吐き出した言葉たちが流れ込んできて、どうしようもなく胸が締め付けられた。
息ができなくなって、嗚咽が漏れた。

ああ。彼はこんなにも「人間」である。
神様のようだ、なんて口走ったのはどこのどいつだ。何もわかってないじゃないか。
彼は神様の器など持ち合わせてはいなかった。
僕と、何ら変わらない「人間」であった。
弱くて、脆い、「人間」であった。


彼の歌う「愛」に絶対的な説得力がある理由はそこにあった。
彼自身が欲しているものだからだ。
彼自身が紛れもない「人間」だから、寂しさも悲しさも痛みも全部全部知っているのだ。

……だが、何故彼は弱さを知っていて、自らも弱い「人間」であるのに、自分を守ることをせず、誰かに愛を与えようとするのだろうか。


そんな思いを見透かしたように、先日リリースされた彼らの4枚目のアルバム「Attitude」に、その答えが綴られていた。

《まずメロディーに乗せる愛を探しながら/阿呆みたいに今日もね/何かを信じて心を踊らす》

《益々生きにくい日々慣れれず削りながら/真面目にも今日もね/明日を信じて歯を食いしばる》

それこそが彼の「Attitude(姿勢)」なのだ。
そう歌われていた。
彼の「愛」は「信じる」ことから始まっていた。
「未来」を信じる。
「明日」を信じる。
「人間」を信じる。

「愛」は人間だからこそ与えられるものだと思う。
人は人を想うことができる。
苦しんでいる人に手を差し伸べることができる。
そんなことはきっと誰もが知っていることだろう。
だって、これを読んでいる人は1人残らず人間だからだ。

ミセスの曲には、よく「温める」という表現が出てくる。
「温める」、ものを介さなければそれは体温を共有するということで、どちらかが一方的に与える、のではなく「温め合う」という形になる。
そして、それは寄り添う、とイコールになると思う。
人間は、これを体温ではなくても言葉でできる。
それこそが「愛」を与えるということではないだろうか。
そして、もちろんそれは一方的なものではなくてお互いに、与え合えるものなのだ。

《明日になって君想って/明後日になったら愛を唄うから/シンプルに シンプルに/受け取ってくれて構わない/手を繋いで輪になって/温もりを感じる事が出来るなら/シンプルに ただシンプルに/この世は終わっちゃなんかいない》(“SimPle”)


「手を繋いで、温もりを感じる」
それは人間にしかできないことだ。


それなのに、どうだろう。
最近耳にしたり目にしたりするのは、繋ぎ合える手で傷つけ合い、愛を伝え合える言葉で傷つけ合う、そんな場面ばかりだ。
それはSNS上などでのファン同士の会話も同じで、ファン歴等の自慢、それに対する不満、民度が低いと嘆く声、アーティストのことをわかってる、いやわかってない、などの言い争い、そんなもので溢れている。
そういうものに疲れて、「もうファン辞めます」と去っていく人をもう何度も見てきた。


彼が伝えたいことは、伝わっているのだろうか。
ファンでさえも、彼が歌う「愛」を受け取って、終わってしまっているのではないだろうか。
「ミセスは私たちに寄り添ってくれる!」
「ミセスのおかげで前を向くことができた!」
そこで留まってしまっているのではないだろうか。
僕たちは、その受け取った「愛」を今度は他の誰かにも与えることができるのに。
そう教えてくれているのは紛れもなくMrs. GREEN APPLEなのに。


ファンに限った話ではない。
今日の音楽はとても身近なもので、日常のどこかで何かしらの音楽が流れている。
音楽に触れやすい環境なのは、確かだが、その代わりに込められたメッセージが置き去りにされやすくなってしまっている気がするのだ。

どんな名曲でも「○○(某アプリ)の曲だ!」の一言で済ませられてしまうような時代なのだ。

そんな中で、届いて欲しい、伝えたい、と歌い続ける彼ら。
傷つけ合う人々を目にしながら、汚れた世間を目にしながら、それでも届くと信じて歌う彼ら。

そんな彼らに対する評価が、声が、態度が、これでは、あんまりではないか。
誰も報われないではないか。
憤りで手が震えている。
どうしようも無いのかと、この文を打ちながら何故か僕が途方に暮れている。

彼らにとって、彼にとって、今まで世に出してきた曲たちは《産み落とした子達》であり、《心臓》であり、《遺言》なのだ。(“Attitude”)
今日は届かなくても、明日は、明後日は、と信じて、誰のせいにも、ましてや世間のせいにもせず、すべての責任を自らに課して、ずっとずっと曲を、言葉を、「愛」を、綴ってきたのである。時には挫じけそうになることも、絶望することもあっただろうと思う。所々にその悲しみや心の闇が垣間見えるのだ。
彼らの曲に時々とてつもなく深い悲しみがまとわりついているのはきっとそのせいだ。

《どうやって生きていけばいいのだろう》

《どうやって息を吸えばいいのだろう》(“クダリ”)

大森元貴の弱さが、こんなにも滲んでいる。
声が届かないことに、こんなにも絶望している。
先述したように、彼も人間なのだ。

《背伸びが出来なくなり/目を擦って埋める足りない価値/でも心のどっかで/助けてほしいんだろうな》(“クダリ”)

これは彼の叫びだ。
悲痛な叫びだ。
「叫び」と呼ぶにはあまりに静かだけれど、「歌」として吐き出された彼の悲哀に満ちた思いだ。

どうしようもなく叫び出したい衝動に駆られた。
彼が、叫んでいる。
それに応えたいと思った。
あなたの思いは届いているよ、とそう伝えたかった。
でも、僕の声じゃもちろん届かない。
彼らのような術も持ち合わせていない。
だからこうして言葉にしている。
誰に届くか分からない、誰にも届かないかもしれないこの文章を綴りながら叫んでいる。



どうか、愛を繋いで欲しい。
彼が与えてくれた愛を、次は他の誰かにも与えて欲しい。
僕たちは、手を繋ぎ合える。
悲しんでいる人に手を差し伸べることができる。
体温を共有することができる。
皆、みんな、弱い生き物だ。
脆く、壊れやすい。
だからこそ支え合えるではないか。
人は1人では生きられないのだ。


《愛を注げる人になろう。》(“PARTY”)



彼らが伝えたいことは本当に届いているだろうか。
自らに問うて欲しい。


この作品は、「音楽文」の2019年11月・月間賞で入賞を受賞した山形県・蓮水レイさん(17歳)による作品です。


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