「この恋のかけら」のゆくえ - THE YELLOW MONKEY アルバム「9999」のはじまりのうた

自分の力が及ばない事柄に、なすすべもなく立ちすくんだことはあるだろうか。
時の流れ、自然の力、誰かの心の機敏、エトセトラ。どうにかしたい、あるいはなってほしい、けれど、どうしようもないこと。
それに気づいたとき、人は、はたと歩みを止める。さて、どちらの方向へ歩みを進めればよいのか。
そもそも、このまま歩くこと自体が、正解なのだろうか、と。

THE YELLOW MONKEYのアルバム「9999」は、「この恋のかけら」という曲で幕を開ける。
無音だった空間に、高い空を旋回する鳥の鳴き声のように、はたまた遠くから聞こえる懐かしい呼び声のように、情感をもって響くギター。
それに誘われてふと振り返って空を仰いだような心持ちでいると、あたたかな音のドラムとベースが、優しくも確かに歩みを進めるようにリズムを刻み始める。
ああ、ついにアルバムが始まる。彼らが再集結して初めて出すアルバム、その瞬間に響く歌詞がこれだ。
「錆びついたエンドロールが流れていく またひとつ僕たちの映画が終わる」
そう、一曲目にして“終わり”が告げられるのである。
悠々と流れていくメロディに、映画のハイライトをバックに流れていく演者やスタッフの名前をぼんやりと眺めているような感覚をおぼえる。そこはかとない寂寥感と、物語の世界から抜けて現実と対峙しなければならない時が刻々と迫っているという静かな絶望感。どこまでも穏やかな曲調が、逆にその感情を際立たせるようで、余計に胸が締め付けられる。
このエンドロールが流れきってしまったら、その先は一体、どうなるというのだろう。

タイトルである「この恋のかけら」は、曲の中ではともすればやっかいなものの象徴ともとれる。
一度刺さってしまったら抜けない、抜いてどこかに埋めてしまいたいのにそうはできないもの。アンデルセンの童話のように、誰かの涙ですうっと溶け去ってしまうようなこともきっとないであろうもの。
その中身は、父親と母の話、君の言葉といったワードでつづられているが、つまりはいい意味でも悪い意味でも心をひどく震わされた“何か”なのだろう。
通常の“恋”であれば、やわらかくあたたかく花が咲くような、心に留め置きたいもののように語られる。けれどこれは「かけら」だ。断片的で、小さくもなりえるが、その分、鋭利さを増して余計に心から離れず、刺さった部分を傷つける可能性だってある。
時に任せてもそれが抜け落ちることはなく、ついには自力でどこかに埋めるか仕舞うか、することにする。けれど、歩き回って探しても、時期によって「人だかりができる」「行き止まりになる」場所ばかりで、埋めることが躊躇される。
そうして立ちすくむ。「この恋のかけら どこに埋めればいいのだろう」と。
それまで気づかないふりでいた、そもそも埋めるのに適した場所などあるのだろうか、という疑問とともに。
歩みを進める目的を見失って、立ちすくんでしまうということ。それもきっと一つの“物語の終わり”だ。
けれど、それに反して、音は確かに盛り上がりを見せていく。大木の幹のような確かな佇まいのドラム、そこから伸びる枝のようにリズムを彩るベース、その周りに蔦が絡まっていくようにするすると上昇していくギター。
いよいよエンドロールも佳境か、というところで歌われるのは「ダメ元で やってみよう」という、それまでには出てこなかった前向きな言葉だ。
そして繰り返される、「冬になるとこの辺りは雪深くなるから これより先は行き止まりになる」という歌詞。けれどにわかに明るくなった曲調と先ほどの言葉の前では、その事実は絶望的には響かない。いや、もちろん、ここにも埋められない、という事実への多少の落胆はある。しかし、だからと言って苦悩するのではなく、しばし立ちすくんでから、仕方ないな、とまた別の場所へ歩みを進めていく…そんな、どこか前向きな諦観を持っていることが感じられる。
やっかいなものを抱えたままでエンドロールが流れきり、物語が一つ終わってしまっても、またそこから(新たに、ではないかもしれないが)歩みを進められる。そんなほのかにビターなポジティブさをもって、アルバムの1曲目は終わっていくのである。

ところでこの曲の風景にはどこか、秋の風が感じられる。
それは歌詞の中に「春になると」「冬になると」というワードがあるからでもあるだろうし(つまり今はその季節ではないということだ)、彼らが以前歌っていた「くちびるが躍る」ような、はたまた「太陽がギラギラと燃えている」ような季節は、心に刺さったものの仕舞い場所を探して歩くには、少々厳しいものがあるだろう。
ではどうして、秋なのだろうか。
それはおそらくだが、現在のバンドの心象風景が多少なりとも描かれているから、かもしれない。
寿命が80~90年である人の一生を一年とし、4つの季節を当てはめてみる。すると、秋に当たるのは、40~60代の、いわゆる壮年期。つまり、現在のTHE YELLOW MONKEYのメンバーの年齢にあたる。
秋は実りの季節であり、それまでの人生から結実したものができたり、それを他者に分け与えることもできる。そしてそれと同時に、余分な葉を落とし、シンプルな姿に近づいていく季節でもある(曲中で歌われるマトリョーシカとは、逆の様相を呈するように)。
先に挙げた、この曲の中ではポジティブな言葉の後に続くのは「残された 時間は 長くはないぜ」というフレーズだ。それだけ抜き出すと、胸がドキリとするような言葉。しかし、それがなぜか悲壮感をもって響かないのは、おそらく彼らが、自分たちの季節が“秋”であることを知っていて、それにあらがわず、自然の流れに沿ってその季節を歩んでいるからだ。
冬が来れば(もちろん、人生の季節が“冬”だということは全く悪いことではないし、自然の流れなのではあるが)、辺りは雪深くなり、何かを埋めるには雪を掘り起こさなければならないし、目印もないからどこに埋めたかわからなくなることもある(おそらくだが、人だかりができる場所や雪深い場所に埋めたくないのは、埋めてしまった後でもふとしたときにその場所に戻って、埋めてしまったかけらに思いを馳せたい気持ちもあるからではないだろうか)。
そんな季節が今自分たちがいる季節の次に来ることを、きっと彼らは知っている。しかし、だからと言って絶望したり焦ったりするでもなく、その事実をただ静かに見つめている。
そしてなおかつ、もしかしたら「この恋のかけら」を埋められる場所が見つからず、冬になっても抱えたままでいる可能性(そしてもしかしたら、その可能性の方が高いかもしれないこと)にも気づいているのではないだろうか。
そこから導き出された、それでも「ダメ元で やってみよう」という意気。その前につく「さぁ」という呼びかけの言葉が、その道のりがきっと、孤独ではないことをほんのりと示唆する。
自分たちの中にある「恋のかけら」と、それがもたらす痛みを自覚し、抱えながらも、秋という季節を歩いていく。そういえば、彼らも昔、秋を「コスモスが恋する」季節、と歌っていた。人生の中でいえば春や夏だった時期とは、言葉の意味やとらえ方も違ってくるのかもしれないが、“恋”が、何かに焦がれたり、心を震わせるような感情だとするならば、人生のどの時期においても触れることがあるはずだ。「ギリギリの」ゲームに狂うようなそれも、「荒れた海のような」それも、「ハマりまくって抜け出せない」それも。
だとしたら、「恋のかけら」が刺さってしまうことも、きっと人生のいつにも、何度でも、起こり得る。「ダメ」だった、つまり、最期まで大なり小なりのそれを抱えたままでいる、という可能性もある。
そうだったとしても、それはそれで、仕方のないことだ。やってみた、その結果であるならば、きっとポジティブな意味で、仕方ない、と受け入れることができるのではないだろうか。

「長い足跡に滴り落ちる この恋のかけら どこに埋めればいいのだろう」と、最後に足元を見てひとりごちるように歌が終わる。
去っていく背中が遠ざかるように、徐々に減っていく音たち。最後にはイントロと同じようにギターの音だけが残り、木の葉が風に飛ばされるように、ふっと消える。一抹の寂寥感を残すそれが、この曲の終わりだ。
長い足跡がつくのは足を引きずっているためなのだろうか。だとしたら、アウトロの点々としたギターの音のように、そこに滴り落ちるものとは、ともすれば…と、明言されていない部分に思いを馳せてしまうような、胸が小さく締め付けられるラストシーン。
それでもどこか、ほんのりとしたあたたかさを感じるのは、この曲がどこまでも静かな、けれど確かなグルーヴをもって演奏されているからだろう。すなわち、一度立ち止まっていた彼らが今、自分たちの持って(抱えて)いるものを再確認し、共有し、また共に歩み始めている――新しい曲やアルバムを作り、バンドとして歩みを進め始めているということだ。
先のことはわからない。抱えたものは抱えたままかもしれない。けれど、だからこそ、冬に向かって(迎える、のではなく)歩みを進めていく。そんな静かな覚悟が、この曲からはにじみ出ているように思える。
そんなエンドロールの終わりは、新たな物語の幕開け。斬新だが、とても人間的で、彼ららしい、“アルバム”の最初の一ページだ。


この作品は、「音楽文」の2019年5月・最優秀賞を受賞した埼玉県・宮原 辰巳 さん(30歳)による作品です。


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