『似非ファン』からwowakaさんへ。 - ヒトリエの偉大なフロントマンの訃報に寄せて

『あの時』から、もう数日が経つ。後悔先に立たずという諺があるが、僕は今でもその言葉を重く噛み締めている。


4月8日、突如公式ツイッターで発表されたヒトリエのwowaka(Vo.Gt)の訃報は、日本列島を駆け巡った。


ひとたび彼の名前をツイッター上で検索してみると、それは酷い有様だった。ヒトリエのライブに足を運ぶ現在進行形のファンのみならず、ボカロP時代を知るファンや、彼の作る楽曲群を愛したリスナーたちの悲痛な叫びが、それぞれの140文字の中にぐしゃぐしゃに書き殴られていた。


wowakaは2010年代のボカロシーンを牽引してきた第一人者。その後は自身がフロントマンを務めるバンド『ヒトリエ』を結成し、唯一無二のサウンドでもってロックシーンも盛り上げてきた。そんな数々の功績を残した彼が31歳の若さでこの世を去るのは、あまりにも残酷だ。


正直に言えば『メンバーの諸事情』との理由でヒトリエのツアーが中止になった時点で「何か嫌なことが起きている」という確信はあった。何故なら数ヵ月前、ワーナーミュージック・ジャパン所属のFear, and Loathing in Las Vegasのベーシスト・Keiが亡くなった際の一報も、文言ひとつ取っても似通っていたからだ。


ツアー中止の発表後は数日間、沈黙の時間が続いた。メンバーのツイッターすら一度も更新されない中、ファンは皆「どうか杞憂であってくれ」と望んでいたと思う。結果として最悪の結果に収束してしまったが、公式サイトからwowaka逝去の一報を受けた後も、未だに信じられないというのが正直なところだ。「令和きれいだー。」と最期にツイッターで呟いていた彼がファンと共に新時代を迎えられなかったことは、とても悲しく、辛い。


今でこそ米津玄師や須田景凪といった、かつてボーカロイドを用いて楽曲を製作していたプロデューサーたちが、フロントマンとして表舞台に立つことも増えてきたが、その中でもいち早くバンドに着手したのはwowakaだったのではなかろうか。


しかしながらその音楽性は、当時のバンドシーンではかなり異端だった。彼の製作したボカロ時代の楽曲に矢継ぎ早に展開する『ワールズエンド・ダンスホール』や『ローリンガール』等があるが、wowakaが作詞作曲を務めるヒトリエの楽曲も必然的に、それらと同様に生楽器では実現不可能なほどにスピーディーかつ高難易度のものばかり。それはさながらバンドというよりは『人力ボカロ』と呼ぶに相応しいものだった。


そんなオリジナリティー溢れる楽曲群のプレイヤーとして集められたのが、当時同じくネットシーンで活躍していたイガラシ、シノダ、ゆーまおの3名だった。前述したようにwowakaが手掛けたヒトリエの楽曲は非常に難易度が高く、矢継ぎ早に展開するものばかり。ややもすれば腕2本では足りないような演奏技術を必要とするが、彼らはその類い稀なるテクニックでもって、100%の完成度で世に送り出していた。そこには間違いなく4人でしか出せない音が、切れ味鋭く鳴っていた。


僕が個人的に彼らのライブを観たのは3回。ファーストフルアルバム『WONDER and WONDER』リリースツアーと、セカンドミニアルバム『モノクロノ・エントランス』リリースツアー、そして某サーキットイベントだ。


奇しくもその3回のライブは全て『センスレス・ワンダー』からの幕開けだったと記憶している。甲高く鳴り響くギターと性急なビートは観客のボルテージを一瞬にして上昇させ、灼熱のダンスフロアに変貌させていた。wowakaが歌い始めると自然発生的に手拍子が鳴り、サビに突入する頃にはモッシュとダイブがあちらこちらで発生していた。初めてヒトリエのライブに参戦した際、僕はもみくちゃにされながら「ヒトリエのライブはこんなに激しいものなのか」と驚いたのを覚えている。


1回目のライブに衝撃を受けた僕は、そこから自身の住んでいる地域でライブがあるたびに通うようになった。全身ヒトリエグッズで身を包んだ状態でライブに行き、その都度モッシュに参加した。思えばシャイで内向的な自分がモッシュをするのは、ヒトリエ以外にはほとんどなかったのではと思う。


ライブ終了後には寒空の中出待ちをし、実際にwowakaと話をしたこともあった。人付き合いが苦手で時折言葉に詰まる僕に対し、全てを包み込むような笑顔で接してくれたのが印象的だった。


僕はサーキットイベントでのライブを最後に地元に戻ることとなったのだが、結果的にはそれがヒトリエを観た最後のライブであったと同時に、wowakaの姿を見た最後のライブでもあった。


その後もほぼ毎年ニューアルバムをリリースし、全国ツアーを定期的に行っていたヒトリエ。僕はそんな彼らのライブを、もう何年間も観ていなかった。遠征費用が足りないだの時間がないだの、あれこれ理由を付けながら、前へ進み続ける姿を見ようともしなかったのだ。そして2019年4月5日、wowakaは旅立ってしまった。最後にライブを観た日の夜に、彼が「またライブ来てね!」と語った際のくしゃっとした笑顔が、今も頭から離れない。


僕は自分の愚かさを恥じた。CDを購入し、各紙のインタビューに目を通し、3回ほどライブを観て出待ちしただけの分際で、周囲に「自分はヒトリエの熱心なファンである」と吹聴して回っていたのだから。


「何がファンだ」と思った。彼が亡くなった後に改めて全アルバムを聴き直してみたが、どのアルバムも血湧き肉踊る、最高のロックアルバムだ。なぜ僕はもっとライブに行かなかったのだろう。『IKI』のツアーも『ai』のツアーも、さぞ最高なライブだったに違いない。だが僕は非情にも、それらのライブには行かなかった。おそらく「もっとライブに行っておけば良かった」という後悔の念は、これからもずっと抱えて生きて行くのだろうと思う。


wowakaが旅立ってしまった今、ヒトリエがどうなるかは分からない。メンバーが「今後のことについては考えている」という旨の発言をツイッターで呟いていたため、長期間立ち止まることはないだろうとは思う。しかし悲しいかな、今後wowakaが楽曲を作り歌う可能性がゼロなのもまた、揺るぎない事実なのだ。


周囲の人に趣味を聞かれた際、僕は決まって「音楽鑑賞です」と語る。しかしながらアルバムの楽曲を半分も聴かなかったり、有名な曲しか知らないアーティストもたくさんいる。そんな中ふと思ったのだ。「そういえばヒトリエの曲は全部歌えるな」と。普段意識的に聴いていたわけではなかったが、僕の生活を彩ってくれていたのは間違いなくヒトリエだったのだ。そんな大切なことを彼が亡くなった後に気付いてしまったというのだから、笑えない。


僕はヒトリエの活動を知りながら、何年もライブに行っていなかった。グッズにも手を出さず、あまり聴かなかった時期もある。言うなれば僕はまやかしのファン……さながら『似非ファン』だったのかもしれない。


しかし今なら「僕はヒトリエのファンだ」と胸を張って言える。彼のくしゃっとした笑顔をもう一度見ることは叶わないが、音楽プレーヤーを再生するたびに、ヒトリエの音楽は彼の笑顔を携えたまま高らかに鳴り響く。これからも、ずっと。


この作品は、「音楽文」の2019年5月・入賞を受賞した島根県・キタガワさん(24歳)による作品です。


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