「青春」に鳴るBUMP OF CHICKENを。 - 「青春」に聴いたBUMP OF CHICKENを、今なお抱きしめ続けている「大人」たちへ。

2019年 11月3日。


『「イマ」という ほうき星
 今も一人追いかけている』
―天体観測


この歌詞を、信じられないほどに涙を溢しながら、あの魔法のような空間で叫んだことを、私は覚えている。


あれから、約半年。

これは、「BUMP OF CHICKEN」と、BUMP OF CHICKENを「青春時代に聴いていた大人」、そして、BUMP OF CHICKENを「現在進行形の青春に聴いている私」についての話だ。





2020年 5月4日。


それは、突然のことだった。

BUMP OF CHICKENの過去のMV22本、一斉公開。

MVがあることは知っていたけれど、どうやって見ればいいのかも分からず、きっと自分は一生見ることが出来ないんだなと諦めていた矢先のことだった。

いざ、公開されたMVを見てみると、見たことがない画質の粗さで、自分が生きている時代の画質は進化したあとのモノなんだなと強く実感するばかり。

藤くんの目は隠れていないし、チャマは金髪じゃないし、ヒロは中学生みたいで、ヒデちゃんの髪にパーマはかかっていなかった。

とにかく私にとって、そのMVたちは「新鮮」だった。
それはそのはず、私がまだこの星にいない時や、まだ赤ん坊の頃の映像だったからに他ならない。


だけど、ネットの向こう側に溢れていた言葉は、
私とは正反対の、「懐かしい」という言葉だった。

そして、そのほとんどは、
もう自らの道を歩んでいたり、立派な家庭を築いていたり、他人のために働いている「大人」が、

自分自身の「青春」を思い返している姿だった。

「そりゃあそうか」と思いつつも、想像以上にあるその姿の多さに、戸惑いが隠しきれない自分がいる。

BUMP OF CHICKENが20年以上も活動を続けていて、そして人々に愛されているという事実は、痛いほどに頭の中に入ってはいるが、本当は実感していなかったのかもしれない。

2月の24周年の時は、「24年って凄いな」と思っていたし、24年もずっと一緒にいられている彼らの繋がりに心から感動していたけれど、実際、私は24年という月日が、どれだけ長い時間なのかということを分かっていなかったのかもしれない。

そのことに多少のショックを受けながらも、私は強く思ってしまったのだ。


「青春を思い出として語れる年齢になっても、BUMP OF CHICKENを愛している人々が、どうしてこんなにもたくさんいるのか」と。


なぜ大人になってもそのバンドを愛しているのか。
それはきっと、
そのバンドの音楽が、何年たっても色褪せていないからだろう。

じゃあ、どうしてBUMP OF CHICKENの音楽は、ずっと色褪せないのか。

青春時代に聴いても、青春を卒業する時に聴いても、青春が思い出になった時に聴いても、

どうして心の奥まで鳴り響いているのか。




彼らの最大のヒット曲に、
約半年前に東京ドームで叫んだ言葉に、
その答えのヒントがあるのではないだろうか。


『「イマ」という ほうき星
 今も一人追いかけている』
―天体観測


BUMP OF CHICKENは「青春」なんてものは歌っていなかったのだ。

BUMP OF CHICKENは、20年以上も前から、
「イマ」を歌い続けていた。

藤くんの唄には、「イマ」を大切にしている言葉が溢れている。


『昨日や明日じゃなくて
 今を唄った歌』
―メロディーフラッグ


『本当に欲しいのは
 思い出じゃない今なんだ』
―supernova


『もう一度眠ったら 起きられないかも
 今が輝くのは きっと そういう仕掛け』
―新世界


『今もいつか過去になって
 取り戻せなくなるから
 それが未来の 今のうちに
 ちゃんと取り戻しておきたいから』
―宇宙飛行士への手紙


『未来の私が笑ってなくても
 あなたとの今を覚えててほしい』
―pinkie


BUMP OF CHICKENは、藤くんは、ずっと、
それがたとえ10代でも、社会人になりたての若者でも、もう世の中では立派だと受けとめられている大人でも、

暗闇にいるのなら、ひとりぼっちなら、辛くて苦しくて泣いてしまっているのなら、

「君がどんな人でもそばにいたい」と強く願っていた。

だからこそ彼らは「イマ」を歌い続けているんじゃないだろうか。

そこに「イマ」があるのなら、それはきっと、進んでいなくても、立ち上がれなくても、真っ暗闇にいるとしても、それ自体が生きている証拠で。

「イマ」をちゃんと感じているのなら、それはきっと、どんなに暗い過去や未来でも、ギュッと抱きしめている証拠で。

「イマ」を掴みたいと思っているのなら、それはきっと、これからも生きようという、か細い小指の強い約束の証拠で。

だから、年齢に関係なく、藤くんの言葉が、BUMP OF CHICKENの音が、心の奥まで届くんじゃないか。




だけど、私はまたここで疑問に思ってしまった。
「じゃあどうして、ピンポイントに青春を思い返している人が多いのだろうか」と。

微かに脳をかすめたこの疑問に対して、色んなことを脳内討論会で討論したが、結局ひとつの結論にしか辿り着かなかった。


それはやっぱり、
「青春だから」なのだ。


「青春」というのは、異様なほどに人生において特別なものなのだろう。

誰よりも強がりで、誰よりも自分が輝いているように見える。
だけど、誰よりも弱くて、誰よりも弱虫だったりする。

そんなちっぽけな人間の「青春」に湧き出てくる、
「手を精一杯伸ばしたら届くんじゃないか」と本気で思う、この世界にはない、自分が主人公の世界にしかない「光」を探す、海色の疾走感を持つ10代に、

大人なんかに負けるか、大人が知らないモノを見つけてやるとか言って、ボロボロになっても、ずっと何かを追い続けながら必死になって生きている10代に届いたのは、


そんな本気で生きている人間の日々に、
「青春」ではなく、
「イマ」と言って全力で向き合った、
BUMP OF CHICKENの音楽だったのだ。


どこにも描かれていない、誰にも名前を付けられていない、自分の中だけにある憧れをこれでもかというほどに詰め込んだ理想が来るはずだった「イマ」が「青春」のはずだった。

だけど、いざ迎え入れた「青春」は想像していたものとは違っていて、どこかもどかしくて、悲しくて、切なくて、やるせなかった。

「なんとかしなきゃ」と毎日寝る前に思うけれど、どうすればいいのか全く分からないまま、声を出さずに泣き叫ぶ毎日。

そんなどこにも書いてない感情にちゃんと名前を付けて、代わりに向き合ってあげるのではなくて、自分自身で向き合う手助けをしてくれたのも、
紛れもないBUMP OF CHICKEN の音楽だったのだ。

ネットの向こう側にいる、私から見れば「立派な大人」たちの「青春」は、
もしかしたら傷口がたくさんあって、涙で濡れた「青春」だったのかもしれない。

そう思うと、今は大人の人々が「青春」を思い返しているその姿の多さにも、心の底から納得がいく。

それに、きっと今も、その大人たちは、BUMP OF CHICKENの言葉と音に救われているのだろう。

その根拠は、今となっては信じられないような空間で見た、あの光景。


私が新幹線に3時間も乗って行った、東京という、私にとって輝かしい場所で行われていた、aurora ark 東京ドーム公演初日。

きっと、あのありえない程に美しい空間にいた5万人の大人たちの「青春」は、

BUMP OF CHICKENの音楽と共に歩いてきた「青春」で、
それがキラキラした「青春」だったとしても、
平凡な「青春」だったとしても、
傷だらけの「青春」だったとしても、

4人が鳴らした「イマ」の音や言葉と共鳴して、一人ひとりにとってかけがえのない「青春」だったことは間違いないんじゃないか。

そう思って、あの日の光景を思い出すと、
どれだけ叫んでも自分の声が聴こえないほどに5万人の熱い声で溢れた魔法みたいな光景を思い出すと、

あの日の「BUMP OF CHICKEN」と「観客」は、

ただの「ミュージシャン」と「ファン」の関係にはどうしても見えなかった。

それ以上のものが、確かに目の前にあったのだ。

BUMP OF CHICKENはBUMP OF CHICKENで、宇宙よりも大きい熱い気持ちを持って、歌っていた、いや、叫んでいたし、

観客は観客で、それぞれの想いの色は違えど、「青春」をずっと一緒に歩んできて、大人になってもずっとそばにいる音に、彼らに、絶大な「信頼」を置いて、そして、そこに生まれる大きな感謝と喜びを抱きしめて、叫んでいた。

私が初めて行ったBUMP OF CHICKENの「ライブ」というのは、ただ音楽を共有するための空間じゃなかった。

音楽を中心にして、音楽を介して、それぞれが行き場を無くした迷子になった大きな想いを叫び合い、抱きしめて、肯定し合っていた。

そして、それが「青春」であろうと、「大人」であろうと、BUMP OF CHICKENと5万人の大人たちは昔から、
全部「イマ」なのだということを知っていた。

つまり、あの東京ドームの空間は、ひとりぼっちの皆が、「イマを生きていること」を、必死になって確かめている空間だったのだ。




じゃあ、あの空間にいた、「現在進行形の青春」を生きている私は、いったいその光景を見て何を思っていたのか。

その答えはただひとつしかない。

BUMP OF CHICKENを愛している大人と、BUMP OF CHICKENが共鳴しているあの光景は、



本当に綺麗だったのだ。



ありえないほどに美しい繋がり。呆然と立ち尽くしていても音に乗って入り込んでくる、その魂と魂のぶつかり合いの流れ星のような火花は、

ただひたすらに美しかったのだ。

感動した。あんな経験は初めてだった。
私は、あの日の東京ドームにいた、たくさんいるたった一人の大人たちに、「ありがとう」と言いたい。
そして、こんな素晴らしいことに気付かせてくれた、ネットの向こう側にいる、BUMP OF CHICKENの音と共に「青春」を思い返している大人たちにも「ありがとう」と言いたい。余計なお世話なのかもしれないが。




さて、余計なお世話を本気で思っている私は今、「現在進行形の青春」のど真ん中にいる。

私のかつての「青春」は、まさに傷だらけの「青春」だった。
進む意味も、泣く意味も、生きる意味もわからない。真っ暗闇の隅っこにいて、お日様が怖くて、寒くもないのに震えていた。

今だってそうなのかもしれない。

だけど、私のかつての「青春」と違うところはただひとつ。


私にはBUMP OF CHICKENがいる。
ただそれだけの、どうしようもないくらいに愛しい事実。


私は、青春を思い返している大人たちへ、感謝の気持ちの他に、もうひとつ、

「イマもBUMP OF CHICKENの音と言葉は、現在進行形の青春に、優しく、真っ直ぐに、鳴り響いています。」

そう伝えたい。
伝わるだろうか。いや、伝わってほしい。


私がBUMP OF CHICKENを知ってから今までの間、BUMP OF CHICKENがくれたモノは信じられないほどにたくさんあって、その全てが輝いていて、自分にとってかけがえのないモノになっている。

「救われた」という言葉では足りない。
「ありがとう」という言葉では足りない。

BUMP OF CHICKENは、隅っこにいて、何も出来ない私を見つけてくれた。


『自分のじゃない物語の
 はじっこに隠れて笑った
 そうしなきゃどうにも 息が出来なかった
 たいして好きでもない
 でも繋いだ毎日』
―pinkie


暗闇でひとり泣いている私を、訪ねに来てくれた。


『お訪ねします
 この辺りでついさっき
 涙の落ちる音が 聴こえた気がして
 駆けつけたんだけど 誰の涙かな
 そういや君はずいぶん赤い目をしてるね』
―プレゼント


心の中で叫んだ誰にも聞こえないはずの声に、気付いてくれた。


『そうやって呼んでくれただろう
 見上げればちゃんと聴こえたよ』
―流れ星の正体


必死になって伸ばした手を、必死になって掴もうとしてくれた。


『少しでも そばに来れるかい?
 すぐに手を掴んでやる』
―メロディーフラッグ


そして、繋いだ手を握りしめて、「きっと大丈夫」と言ってくれた。


『ねぇ きっと
 迷子のままでも大丈夫
 僕らはどこへでもいけると思う』
―記念撮影


遠く離れた場所にいる、「過去の青春」を持つ大人たちも、同じなのだろうか。

言葉は足りないけれど、
BUMP OF CHICKENは私を掬ってくれた。


でも、それだけじゃない。
BUMP OF CHICKENに出会ってから、私は確かに進んでいる。


11月3日のあの空間だって、藤くんの声を聴くだけで安心する今だって、未来の私にとっては、「キラキラした青春」以外の何物でもないだろう。

必死になって生き延びた先にあったのは、
BUMP OF CHICKENが奏でる音符の煌めきと、全身に伝わる音の振動によるエネルギーだった。

時にワクワクする。時に感動する。
今までなかった色んな感情が、BUMP OF CHICKENらしい寂しさを含みながら、次から次へと湧き出てくる。

今すぐにでも走り出したくなる音と、まだ小さい小指が紡いだ線を結ぶように、心臓が弾む。


『合図決めておいたから
 お互い二度と間違わない
 夕焼けが滲む場所で
 待ってるから待っててね』
―三ツ星カルテット


細胞にも入り込む音のキラキラと、何だって出来るんじゃないかと叫びたくなるような虹。


『生きようとする体を 音は隅まで知っている
 目を開けたって同じ 自分で作る色』
―虹を待つ人


切なさが混じりながらも叫ぶ、君を想うその気持ちの輝き。


『ハズレくじばかりでも
 君といる僕が一等賞
 僕はこれが良いんだ
 何と比べても負けないんだ』
―新世界


言葉を失うほどに切なく、だけどそこにある何かに感動する涙。


『僕は君を 信じたから
 もう裏切られる事はない
 だってもし裏切られても
 それが解らないから
 どうか 君じゃなく ならないで』
―飴玉の唄


これらはほんの一部でしかないというのは、きっと大人のBUMPリスナーは痛いほど分かっているだろう。

きっと、いま私が立っているこの「青春」は、
かつての自分が想像もできないほどに輝いている。

それは紛れもなく、BUMP OF CHICKENのおかげで。気付けば、生活はBUMP OF CHICKENにまみれていて。

藤くんを真似て買った安売りのコンバースと、憧れて始めたギターに張ってある、常に半音下がっている弦。

ビアノの上に座っている水色のベアブリックと、「pinkieみたいだ」と思って買った500円の指輪。

まだ魔法の煌めきを閉じ込めているPIXMOBと、緊張と期待が伝染したあの日のチケット。

そばにいてくれる唄が詰まっているウォークマンと、音と言葉を見つけた時のワクワクを知っているCD。

あの日のオーロラと魔法と流れ星が刻まれている脳と、どこにいたってBUMP OF CHICKENと鳴り続けている心臓。


全てがいとおしい。
結局最後に残るのは、BUMP OF CHICKENが大好きだという、ただそれだけの事実なのだ。




怖いことも、不安なことも、両腕で抱えきれないほどある。

今だって何かに怯えて震えているし、息苦しくなって泣いている。



だけど、もうきっと多分、大丈夫なのだ。

そう藤くんは歌ってくれた。

きっと、大人のBUMPファンも同じことを思っているはず。



「青春」を生きている人間の心に、BUMP OF CHICKENの音と言葉が真っ直ぐ届くのは、

BUMP OF CHICKENが、「青春」ではなく、全力で「イマ」を歌って、たったひとりの「君」に向き合っているから。


そして、「青春」に聴いたBUMP OF CHICKENの音が、「大人」になってもずっと心の奥まで届くのは、

BUMP OF CHICKENは、20年以上変わらずに、
何よりも大切な「イマ」を歌い続けているから。
「君のそばにずっといたい」と願っているから。



あの魔法のような夜から約半年がたった今、

また以前の当たり前が戻ってくるのかも分からずに、音楽を共有する空間が、触ったら崩れてしまいそうなほどになった今、

一生に一度しかない「青春」が、どんどん目の前から消えていっている今、

だけど、それでも前を向き、新しい世界へ手を繋いで進み続けている今、


私は強く思ったのだ。


東京ドームにいた、「青春」にそばにいてくれたBUMP OF CHICKENを、何年たっても大切に抱きしめている「大人」のように、

ネットの向こう側にいた、それがたとえどんな「青春」だとしても、BUMP OF CHICKENのおかげでかけがえのないものとなった「青春」を思い返して、それをずっと抱きしめている「大人」のように、

 

「青春」に鳴るBUMP OF CHICKENを、


私もずっと抱きしめていたい、と。


この作品は、「音楽文」の2020年6月・月間賞で入賞した青森県・マウントピースさん(14歳)による作品です。


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