輝くのは「瞳に映る東京」 - ヒグチアイ「東京にて」が描く、「ロックバンドから見える東京」は輝いているか

 東京は、その場所がどこにあるとか、日本の首都だからとか、情報の発信地だからとかそういうことではなく、とにかく特殊な場所だ。ギラギラした目で信号を睨む人、アスファルトに染み込んだいろんな人の汗と涙、そしてそれを踏んで歩く強制的な緊張感。様々な人が夢や希望と共にやってきては去り、またやってきては去る。

 僕は東京に住むバンドマンだ。身の回りには、誇張でなく「音楽をやるために裸一貫、地方から東京に出てきた」という人間が少なくない。そして、バンドをやめて地元に帰っていってしまう人間も、やっぱり少なくない。

 彼らから見える東京はどんなものだろう。生まれ育った土地から東京へやってきて、時に笑い、時に歯を食いしばりながら、定めた目標や思い描く夢に向かって進んでいく。彼らにとっての東京は、きらびやかで、でもどこか無遠慮で冷たくて、ちょっと残酷で、とかそんなものなのかもしれない。
 神奈川県で育った僕にとっては、東京は中途半端に身近で、中途半端に憧れる場所だった。だからこそ。そういう視点から東京を見れることに少しだけ、ほんの少しだけ憧れてしまう。東京に夢と共にやって来て、そして帰る場所が遠くにあるということも、少しだけ羨ましいと思ってしまう。
 
 ロックバンドから見える東京は、そのほとんどが憧れでできた妄想で、噛みつきたくなる時も、過剰に称賛したくなる時もあるのかもしれない。なぜだか全てがうまくいかず、無為に過ぎる日々を過ごすうちに、目的もなく赤提灯の下をくぐるたびに、東京は自分の一部になっていく。それは地元から見ていた「憧れの東京」とはちょっと変わってしまっているのかもしれない。そのことに気が付いたとしても、彼らはもうここを離れるわけにはいかなくなっている。東京は本当に特殊で、残酷な場所だ。

 またしても大切な仲間がバンドを離れ、東京から地元へ戻っていってしまった夜、ヒグチアイの「東京にて」が耳に滑り込んできた。

 固定カメラで写された東京の映像を早送りで見ているような軽やかなメロディの歌い出しから、ヒグチアイの世界に深く深く引き込まれる。足が触れる場所としての東京でなく、瞳に映った東京を描き出すその視点、そのカメラワークから目が離せなくなる。
 東京は、誰が見るかでその姿を変えていく。本当の東京は、物理的なものではなく、誰かの心が映し出されたスクリーンのようなものかもしれない。夢や諦め、愛や恨み、様々な想いが東京に映されて、その輝きを変化させていく。

 「ここにいる」ということと、「自分がいる」ということを、東京に映し出して確かめながら、どうにか踏ん張って生きている人がどれだけいるのだろう。全ての人に物語があって、その物語の輝きは、どうやって東京に反射してこちらの心を動かすのだろう。

《見えてるものは一緒でも 違う方法で見つけたものだろ
 最初で最後 きみだけの きみだけの東京にて》

 僕の瞳に映る東京は、他の誰かには違うように映っている。横に誰がいたとしても、誰がいなくなったとしても、僕にとっての東京は、僕の中で形を変えていく。その時その時のいろんな想いとともに、その光を揺らめかせながら、それでもやっぱり輝くしかないんだと、瞳に映る東京が囁きかけてくる。

 この曲のアウトロは長い。曲の1/3が、歌詞のない1分半のアウトロだ。
 アウトロを聴きながらじっくりと、僕はどんな目で東京を歩いているだろうか、僕はどんな東京を瞳に映しているだろうかと考える。フェードアウトしない、しっかりと展開をもったボリューム感のあるアウトロが進んでいく。
 どんどん進んでいくアウトロに背中を押されて、東京を歩く足が早くなる。自然と走り出してしまいそうになる。いや、走り出したくなる。ここであってここじゃない、僕の瞳の中の、僕だけの東京へ。

 アウトロは進む。カメラはどんどん上空へ飛び立っていき、東京に暮らす人たちの輝きを見下ろしながら曲は終わりを迎える。この街は、時に優しく時に残酷で、どうしようもないこともあるけれど、この東京を瞳に映しながらそれぞれに輝くしかないんだと、この光を見ながら思う。
 
 2020年9月。東京にて。

(※《》内は作中歌詞より引用)


この作品は、「音楽文」の2020年10月・月間賞で入賞した東京都・Kabaddiさん(31歳)による作品です。


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