「天使」という言葉を聞いて、何が思い浮かぶだろうか。いわゆる「羽の生えた子供のような姿」を思い浮かべる人が多いであろう一方で、ある人にとってそれは愛しい恋人であったり、大切なペットであったり、憧れのアイドルやアニメのキャラクターであったりするかもしれない。
つまり「天使」とは、それぞれによってイメージするものが異なる存在だということだが、そこに共通しているのは「幸せをもたらすもの」や「生きがいになる対象」だということ、すなわち「救い」になるようなものであるということではないだろうか。
では、「天使」がそのような存在だとするなら、もし誰かに「天使とはあなたのことです」と指さされたら、その時あなたはどう思うだろうか。
フィッシュマンズの「頼りない天使」という曲は、そうした「思いもよらない瞬間」の、驚きと喜びが溢れ出す瞬間を切り取った楽曲であるように思う。
そんなこの曲のはじめに歌われるのは、喜びとは正反対の茫漠とした悲しみだ。
《遠い夜空の向こうまで連れてってよ
あの娘の天使のとこまで 連れてってよ》
諦めにも似たこの悲しみは、この後の一節にある
《やさしい天使が降りてきたら
きっと あの娘は喜ぶさ》
という、「天使だけがあの娘を喜ばせる」のだという無力感からもうかがえる。しかし、バンドの中心人物である佐藤伸治の作品の多くが、ある一定の「諦観」を通奏低音として持つなかで、この曲が傑出しているのは、《遠い夜空》に思いを馳せる諦観の視線が突然「地上」に降りてくる点にこそある。
《なんて不思議な話だろう
こんな世界のまん中で
僕が頼りだなんてね》
ここに描かれているのは、《遠い夜空の向こう》ではなく《世界のまん中》で起きていることだ。そして、佐藤伸治が歌っているのは「自分が誰かに必要とされている」という、意外な報せへの驚きと戸惑いである。
そうした逡巡はやがて、
《なんて素敵な話だろう
こんな確かなことが
今もそばにあるなんて》
という「喜び」へと変わっていく。その喜びとはいうまでもなく、自分が誰かにとっての「頼り」であるという事実への、静かな歓喜のことだ。だから、佐藤伸治はおそらく「戸惑う《僕》」の様子を指して「頼りない天使」であると、この曲に名付けたのではないだろうか。
とはいえ、たしかに「私は誰かにとっての天使です」と胸を張って自認する人はおそらくいない。だから、この曲に描かれるようなことなど、思い上がりか勘違いで、現実離れしていると切り捨てるのは容易なことだ。
ただ、「頼りない天使」に歌われている光景が、あながち「奇跡的」なものではなく「日常的」に起こりうるものなのかもしれないと思うのは、この曲を聴くたびに、昔読んだ中島らものエッセイを思い出すからだ。
「その日の天使」というその作品で、中島らもはこう語る。
《一人の人間の一日には、必ず一人、 「その日の天使」がついている。
その天使は、日によって様々な容姿をもって現れる。少女であったり、子供であったり、酔っ払いであったり、警察官であったり、生まれて直ぐに死んでしまった、子犬であったり。
(中略)
こんな事がないだろうか。暗い気持ちになって、冗談でも”今自殺したら”などと考えている時に、とんでもない友人から電話がかかってくる。
あるいは、ふと開いた画集かなにかの一葉によって救われるような事が。 それはその日の天使なのである。》
(「その日の天使」『恋は底ぢから』)
私たちはとかく、自分のことを「救う」存在であるというよりも、「救われる」存在であると認識しがちだ。それは実際に、地上に生きる「その日の天使」たち––––家族や友人はもちろん、赤の他人であったりもする––––に、日々救われながら生きているという実感があるからだ。だからこそ、「頼りない天使」の《僕》のように、《遠い夜空の向こう》のどこかにいるはずだと、「他者」の中から「天使」を探しては、一喜一憂している。
しかし、実は自分の何気ない行動や言動も、気づかないうちに誰かにとっての「救い」になっているかもしれない、つまり自分も「天使」になりうるのかもしれないとしたら。「頼りない天使」と「その日の天使」という二つの作品は、そんな途方もない希望が、きっとゼロではないと信じさせてくれるのだ。
そして、頼りない自分でも「思いもよらない瞬間に、思いもよらないことをしているのかもしれない」という希望を持って生きていくことは、「天使」を見つけることと同じくらい、きっと私たちを強く変える。佐藤伸治が、《あの娘の信じた確かな気持ちは きっと僕を変えるだろう》と歌ったように。
この作品は、「音楽文」の2021年9月・月間賞で最優秀賞を受賞した東京都・芦塚雅俊さん(34歳)による作品です。
『 思いもよらない瞬間に(驚) 』 - —フィッシュマンズが歌う「天使」について—
2021.09.15 18:00