母なら、ミサイルだって止められると思っていた。 - 宮本浩次と、少女の私と、父と母に捧ぐ。

これからの文章の大半が音楽文らしくないかもしれないけれど、書かせてほしい。
これが私の人生で、だからこそ届いたものがあると思うから。なんだかもう、私はこのことを書き記さなければ、どこにも行けない気がするから。
少しだけ、暇な人だけ、良かったらきいてほしい。

《 暇な奴だけ聞いてくれ 俺は此頃つくづく思う
  俺たちゃ 何で生きてんだ 》[道]

シャンソン歌手の母と、ピアニストの父。
3歳の頃に二人は離婚し、母に姉と共に引き取られた。
音楽で生きる両親のもとにうまれた私は、2年前まで音楽がなくても生きていけると本当に思っていた。

父は酒と煙草とギャンブルと女が好きという、典型的な音楽しかできないろくでなしだった。
離婚後、娘の気を少しでもひくためにペットを飼っては、面倒が見れないような人で、駄目なことだけれど、父のそんな不器用な気持ちが嬉しかった。

中学生になるころ、母から父が酔って警察沙汰をおこし服役することになったときいた。
成人するまでは今後会わないことにしたいと相談され、私はそれが当然のことだと、母のためにも約束をした。

数年して父親が出所し、蕎麦屋でバイトをしているときいて、時々、偶然父と出会うのではないかと想像することがあった。でも成人するまでは会わないと、意地になって考えていた。
実際、母と姉と私の三人で出かけている時に、前方の車に乗る父をみかけたことがあったけれど、私はとっさに助手席に身を埋めて、顔を合わさないようにした。

いつかに届いた葉書には、どこから聞いたのかその時ドーナツが好きだった私に向け、いつかミスドでデートしようね、と書かれていた。

母に一度、相談されたことがある。
あんな父を私たちが支えた方がいいのだろうかと。その時、冷静を装って、今後どれだけ迷惑をこうむっても、それでも良いという覚悟なら良いと思う、でもそれが出来ないならすべきではないと、母に苦労をかけてしまうのが嫌で、人の相談をうけるように答えた記憶がある。

それから少しずつ父が音楽仲間にピアノを弾く仕事をもらっていて、変わってきているみたいだときいた。

8月23日。17歳の時だった。 
起きたら母が電話をしていた。電話を終えると母が「パパ死んじゃった」といった。
「うそだ」といって座り込んで泣いた。嘘じゃないとわかったから泣いた。

亡くなった日も、原因も正確なことはわからなかった。
一人暮らしをしていた父は、異臭で亡くなっていることがわかり、2週間ほど前に取っていた新聞で倒れた日を推定された。
57歳、孤独死だった。

親族からも縁を切られていた父は、引き取り手がおらず、離婚した母が請け負ってくれた。
母が確認するあいだ、警察署内の廊下にある椅子で泣く娘二人を、スーツを着た大人がちらちらとみてきていやだったのを覚えている。

中学ぶりに見た父は、白い布にくるまれておぼろげなかたちをして、腐敗臭なのかたくあんのようなニオイがした。
一人、警察車に父と共に乗らなければいけなかったが、私は知らない人と車に乗るのがいやで断った。
父の骨はスカスカで軽く真っ白で、納骨の時、骨がすこしだけ風に舞った。あれはどこにいったんだろう。

ああもうミスドでデートすることもないんだ。偶然町で出会うこともないんだ。

なんの富も名誉もなく、親にも子にも会えず死んだ父。
こんなの、一人の人生としてあんまりじゃないかと思った。

あの時、成人まで会わないことに反対していたら。
あの時、車に身を埋めて隠れなかったら。
あの時、母に面倒を見ようと言っていたら。

そうしてそんな時ですら、自分のためにいやだという気持ちのある自分。あんまりの人生だと思う自分。

少ししてから、父が私を背負う夢をみた。私は背負われているうち、気が付いてしまった。
「だって、パパ、死んじゃったんだもん」
目が覚めたら、泣いていたのはそれが初めてだった。


母は、あるステージを目にして、当時の夫と子を捨てても歌手になると決め貫くような、強い女性だった。
雪深い町でたくさんの兄弟の末にうまれ、もらわれて育ち、たくさん恋をし、再婚したピアニストはろくでなしだったけれど、娘二人を女手一つで、歌い育ててくれた。

母の事が大好きだったし、母は私を愛し、愛されている自信をくれた。40歳年がはなれていたけれど友達のように、様々な事を語り合った。

私を抱いて眠りながら愛おしく指の一つ一つをつまんで撫でてくれたこと、前を歩く母が後ろで組んだ手をぱたぱたとして手を繋ごうと合図してくれたこと、子守歌、歌手として歌う姿、ことば。
何もかもがこわくて引きこもっていた私にとって、母は絶対的なもので、唯一の世界だった。

スーパーマンであったし、ヒーローでもあった。

小学生のころミサイルのニュースに不安になったとき、母と共に眠るだけで、今この窓にミサイルが落ちてきたとしても、母ならばそれを止めてしまえるんじゃないかと本気で思えた。
そのくらい、絶対的なものだった。

そんな母が、私が19歳のころガンであることがわかった。

絶対的な世界であるはずの母は入退院を繰り返し、生活にいないことが当たり前になった。
いつも長い髪を丁寧に巻いて、香水やアクセサリーをつけ、ドレスを着て毎晩歌っていた母は、髪も胸もなくなり、抗がん剤で顔はむくんだ。

姉妹二人で暮らす日々が増えていった。

母が寝つきが悪く苦しんでいても、テレビをみているくらいに、病の母といることが日常化した。姉が母を病院に連れていくときも、こわくてついて行きたくなかった。
入院している際に怒られたときも、絶対についてこれないからと病室を出たこともあった。
薄情な娘だったと思う。

母は最期に車椅子の状態でコンサートを開いた。
立つことも叶わないのに、ステージの母は物凄く生命力があるようにみえた。コンサートをなんとか終え、数日して見舞いに行くと、もうほとんど会話が出来なくなっていた。

12月。夜ごはんにカレーを作って、出かけようとした頃だった。
病院にいる姉から電話がかかってきて、母が危篤状態だといわれた。

ああ、作っちゃったカレー、どうしよう。

そこからどうやって病院に向かったのか覚えていない。
病室で見た母はドラマでみるようなマスクをつけられて、目は焦点があわず、白目が黄色くぶよぶよとして、唇はガサガサだった。
日常とかけ離れたその姿だけで、何もかも絶望的に感じた。

それから3日ほど付き添っていたと思う。
他の人が眠る中でも、こわくてずっと起きていた。
最期が近い人間は、吸った呼吸が吐かれるまで、こんなに時間がかかるのだと知った。
手足は冷たくて、気休めで温めようと湯たんぽをあてた足の一部は、かんたんに紫になってしまった。

朝の4時45分。子供たちと数人に見守られながら、母は息を引き取った。
63歳。父が亡くなってから5年後の、22歳の時のことだった。

病気当時はもしも死んだら、という話をするのがいやだった。
でももっと、きいておけばよかったと思う。あとから見た母のノートに書いてあった望みを、命の尊厳を、何一つ守ってやれなかった。

父の時と同様、一人の人生としてあんまりだと思った。
夢を追いかけ、暮らしは豊かにならず、家族に苦労し、愛する人とも添い遂げられず、美しく死ねなかった母。
そうして、やはりそんな時すら醜い自分。

あの時、怒って病室を出なかったら。
あの時、ちゃんと付き添っていたら。
あの時、見舞いに行っていたら。
ごめんね、ごめんね。

人の生も死も決して美しくないと知った。
そして自分が親の死をもってしても、自分が我が身可愛さに生きることも知った。
なんて死に様だろう。なんて私だろう。そんなことって、そんな人生ってあるだろうか。あんまりだ。可哀想だ。酷すぎる。

人が死ぬということは、何かを無くすことではなくて、私にとって開けられない、人に打ち明けられない箱が増える事だった。

それから、心に黒い箱を抱えていた。

時々その箱を、眠りながら撫でていたわった。
私にとって、この箱はとっておきの悲しみだった。
この蓋をあけてしまったら、底なしの黒さに、そこに平然とたっていられない気がしていた。いつだって、泣きわめいてしまえると思っていた。

重くて重くて、こんなもの誰にも背負えない。誰にも打ち明けられない。誰とも開いて触れ合えない。
いったい誰が、背負わずに受け止められるんだろう。
深い底なしのもの、自分。
わかるわけがない。受け止められるわけがない。
そう思い込んで箱を抱えていた。

《 二親に捧げられし愛を
  一体どうやって返そうか?返そうか? 》[地元の朝]

私は、幼稚園の時にはすでに人と触れ合うのが苦手な子供だった。
家では唯一のお姫様で、家族の中で優先順位の一番は自分であると信じて疑わなかった。繊細で傷つきやすく、尊大で天の邪鬼で、内弁慶。

小学生から次第に学校には行かなくなった。
いじめられたわけでもなく、ただただ集団で過ごすことが苦手で、人といるのがおそろしくて、ひとつひとつに傷ついていた。
先生に生意気にも毎日同じことの繰り返しで生きていて意味はあるのか、と質問したこともあったし、何かあっても面白い事もないのに笑えるかと、あまり笑わない子供だった。
冷静を装い、批評精神旺盛で何もかもを見下して馬鹿にし、噛みつき、自分を必死に守っていた。

自分でそう望んでいるくせに、このままではいけないという自覚もあった。
どうして私はこうなんだろう。
学校に行かなきゃ、外に出なきゃ、でもこわい。こわい。何もかもがこわい。
こんな無為にすごす日々に意味なんかないじゃないか、こんなの、生きてても死んでても変わらないじゃないか。

誰か、誰か。

誰かが、自分をここから連れ出してくれるんじゃないかと思っていた。こんなに思っていたら、こんなに祈っていたら、いつか誰かが救ってくれる。そうベッドで祈って泣いている子供だった。

《 子供の頃俺は、毎日精一杯生きて、いつの日か誰かの為に
  格好よく死にたいと、そればかり思って、涙流してゐた。
  涙を流してた。 》[なぜだか、俺は祈ってゐた。]

でもそんな都合のいいものは、当たり前だけど現れなかった。
唯一の世界だった母も亡くなり、両親を亡くした私は、やっと仕事に就いた。学校も、バイトも、地下鉄すらこわくて一人でのれなかったような人間が、状況にせまられて社会に出た。

母が亡くなり、姉妹二人で訳も分からぬまま次の住処をみつけ、日々働いて、ご飯を食べて、テレビをみて、喧嘩をしたり笑ったり泣いたり、なんとか普通のように暮らした。
ただ時折、眠る前に暗闇の中で、心にある黒い箱を撫でていた。

子供のままの尊大さをぶら下げて痛い目をみて、次第に学んでひっこめていく。
そうか普通はこうするのか、こうかな、違うのか、あっているのか。何もわからなかった。
そうして少しずつ重ねるたび、自分は人が当たり前にできるようなことが出来ないのだと知った。
人がなんとなしにとるコミュニケーションが、私にはできない。
後になって知るが、私は自閉症スペクトラムの可能性が高いのだそうだった。
妙な所に過敏なくせに、意図に気が付けず、人とは違うことを知れば知る程、臆病さが増し人と触れ合えなくなっていく。
人の事がわからないし、本気で思いやれることも少ない。

私は、人間のふりをして生きていると思った。

カラカラの荒れた大地に、1人で突っ立っているような感覚だった。
遠くで楽し気な音がしているのをわかっても、そこに行くことはできない。誰も来るなと1人で暴れて、人の形をしたハリボテの中に立てこもり、ふたつ空いた穴から外を伺うような生き方だった。

《 だれも俺には近よるな 》[待つ男]

誰か、誰か。

母を亡くし、社会に出るようになってから5年。
何度か転職を繰り返し、やっと長く続き始めた仕事の中、気が付かぬうちに、人間のふりをしている限界がきていた。

2017年2月10日、9時30分。
会社に向かう為に流れ作業で化粧をしながら、時間確認のために横目で眺めるテレビに現れた4人。

《 さあ がんばろうぜ!
  オマエは今日もどこかで不器用に この日々ときっと戦ってることだろう 》
《 10代 憎しみと愛入り混じった目で世間を罵り 》
《 20代 悲しみを知って 目を背けたくって 街を彷徨い歩き 》[俺たちの明日]

エレカシいいじゃん。と、雨が降りだす前の、最初の雨粒に気づいたみたいに、ふと思えたこの日の事を、私はきっと一生忘れない。

そこから30周年の光に突き動かされるように、エレファントカシマシに夢中になった。
ただそれだけだったら、これまでもあったような少し夢中になってはさめていく一つにすぎなかったかもしれない。芸能人として、どこか一線をひいて偶像化や神格化しかけていた3月、とあるトーク番組をみた。

宮本さんが話している姿をみていて、なぜか急に涙が出た。
泣ける話をしていたわけでもなかったのに、唐突に、傷だらけの、一人で立つ宮本さんを、孤独というものを、初めて感じた。偶像化、神格化しかけていたものから、急に一人の50年生きた人を見た気がした。
こんなに一生懸命生きている人がいるのかと、突然それは深いところに届いた。
強烈な、気づきの瞬間だった。

多分、傷ついて箱を抱え、大地に一人で立つ自分を、勝手に重ねてみていたのだと思う。

私もこの人みたいに一生懸命向き合って生きたいと思い、ずっと抱えていた黒い箱をあけることができた。
箱にあった悲しみと、醜い自分、どうしようもない根源的な生きる孤独を認識してから、人間のふりをしている心地がなくなり心が生まれたと思った。

ハリボテの中に閉じこもっていたのに、気が付けば音楽が届き、大地に雨が降って、草花が芽吹いて、風が吹いてその花びらが舞うような、美しい大事な大事な場所が心に出来たようだった。

こんなところにまで、何かが届くことをはじめて知った。

無為に過ごし続けた、ぎゅっと凝縮すれば数年にもみたないような人生の中で、エレファントカシマシと共に30周年を共に駆け抜けて、ちゃんとした密度の1年を生きられたような気がした。

2017年10月には転職し、生まれ育った北海道をでて、東京へ移り住んだ。

けれど、2018年9月。
エレファントカシマシにとって30周年から続いた物語の、一区切りとなったZepp Nagoya。その感想を眺めながら、私は北海道に帰るための荷造りをしていた。

結局、また失敗を繰り返した。

世の中によくある上京失敗、挫折だったのかもしれない。
小学校も、中学校も、高校も、これまでの職場も。いつだって器用に生きられない自分が、恥ずかしくて恥ずかしくてならなかった。みっともなくて、かっこわるくて。
怯えて気ばっかり使って、うまくできなくてイラついて、耐えられなくて、自分で自分の居場所をめちゃくちゃにしてしまう繰り返し。
ああ、どうかみんな、私が去ったあと、私の事を全て忘れてくれますようにと思っていた。

《 俺の姿を忘れるな
  ニタリ ニタリの策士ども 》[花男]

退職が決まった日は、情けなくて情けなくて真っ暗な玄関で蹲って泣いた。人間のふりをやめられてなんかいなかった、変われていなかった、生きられてなかった。
でも、自分の心にうまれた気のする、あの美しい場所を失いたくない。信じていたい。

北海道に戻ってからは、もう何がしたいのかもよくわからなくなっていた。
とにかく働かなければと仕事を見つけ、これではないかと思っても、結局気持ちは流れて消えていく、そんな日々だった。

《 夢が破れてゆくだけの 灰色の俺の人生
  魂 擦り減らして 目ざした物語はどこへいった? 》[昇る太陽]

そうしているうち、宮本さんのソロ活動が本格化していった。

北海道に戻って最初にみつけた仕事は、自閉症スペクトラムの可能性が高いとわかり退職をせざるえなくなった。
次の仕事の面接をこぎつけた時、《昇る太陽》のシングル発売の報せがあり、7月7日野音の数日前に次の仕事が決まった。

30回目の野音は、本当に素敵な野音だった。
土方さんを迎えた四月の風を聴いたとき、エレファントカシマシの歩みの正しさを感じた。
私とは違い誰かとやることを選んだ姿。
素敵だと思った。なんて素敵な野音だと、雨に濡れることなんて忘れて感激していた。
翌日、帰りの空港で動く歩道に流されながら、野音の事を思い返していた。
雨や客席を気遣うような様子を感じて、気にすることなんてないのに、と思っていた。
宮本さんが歌ってしまえば、エレファントカシマシがあれば、暑さも雨も、全部なんともなくなってしまう。喩えなんかじゃなく、槍がふったってへっちゃらになる。

そこで急に、ミサイルが飛んできても大丈夫だと母を信じていた、子供の私があらわれた感覚がした。

なんで、だって。
だって、そんな絶対的に思えるもの、もう、この世にないはず。

私にとっての、唯一の世界で、ヒーローだった母。
22歳のときになくして、もうこの世にはないと思っていたのに。
まさかそんな、そんな風に思えるものが、信じているあの子供の自分が、信じられるものが、まだこの世にあったなんて。

空港で、一人で泣いてしまいそうだった。

驚きを連れたまま、北海道に帰り、すぐに新しい仕事が始まった。
ばたばたと働いて数日、昇る太陽の先行配信日。
いつもなら待ち望んて24時にすぐにダウンロードしていたけれど、この日はくたくたで眠ってしまった。
宮本さんのソロコンサートに行く夢をみて、5時ごろしあわせな気持ちで目覚め、すぐに曲をきいた。

とても明るく確かで、傷も怯えもあるけれど、宮本さん自身が、こうして歌い届けることが自分の本分なのだと確信されているような。歩まれるのはこれまでの道と変わらないのに、足取りが、歩くところが違うような。《明日》が、また輝いているような曲。

「エレカシ宮本」でも「ソロ宮本」でもない、
宮本浩次」なんだと思った。

ずっと、生きる一人の人を見ていた。
宮本浩次という一人の人の、男の、生きている姿を、生き様を見ている。
バンドだから、ソロだからとかではない。
だってこの人は、こんなにも生きている。
いつだって、この人が見せてくれるものを真正面から受け止めて、笑顔でいたいと思った。なによりそれが、自分にとって大切な豊かさのように感じた。

比べるのも、重ねるのもおこがましいけれど、いつもその姿や歴史と自分の日々が重なってしまう。
自分の情けなさの一方で宮本さんの輝きが、本当にうれしくて救いのように感じたし、何度もそれに恥ずかしくないように、そしてその軽やかさを抱きたいと思える。

本当に些細なひとつひとつ、人と生きられない自分を痛感して、泣いてしまう脆さを引きずって。馴染むために笑顔を作っては、気味が悪くて逃げ帰りたくなる。

《 いつもどこにいっても 調子っぱずれの日々
  無理して笑うあとから ナミダこぼれるだけ 》[昇る太陽]

北海道から逃げて、東京からも逃げて。
ずっと、何かに向き合わなきゃいけない気持ちで、毎日毎日、宮本さんの歩みを見つめながら、自分を見つめていた。

そうしているうち、自分にある鎖に気が付いた。

父も母もいなくなって、生きるしかなかった。
生きるしかない日々だった。
何もかもが重すぎて、負わせてしまうから、誰にも頼ってはいけない、打ち明けてはいけないと思っていた。もう誰かに抱きしめてもらえることはないし、愛されることはない。
それなら母にもらった絶対的な愛を、自分も誰かに捧げたいと信じても、それすらも叶わない。

《 父をこえたいココロ
  母をもとむるココロ 》
《 人に愛されたいココロ 》

《 それが生きている証 》[生きている証]

父や母の歳以上は生きられず、同じ様に生き様も、死に様も美しくなく、花が枯れるように当たり前に、私は幸せになれない。

《 いずれ花と散る わたしの生命 》[冬の花]

そんな風に、気が付けばこれまでの自分の全ての経験や生い立ちが、まるでこの先の事実のように、真理のように、呪いや鎖になって、背骨や足首に絡みついてしまっていたことに気がついた。

でも本当にそうなんだろうか。この鎖は本当に、あるんだろうか。

今「宮本浩次」として立つ宮本さんの生き様を見つめて、
絶対にもう存在しないと思っていたヒーローを見つけて、
この鎖を、ほどきたいと思えている。

《 しばられるな! 解き放て、理想像 》[解き放て、我らが新時代]

私はこうはなれない、こうならなければならない。こうなる運命。
そんな鎖、ないと思いたい。引きちぎりたい。

《 さぁBaby 向かおう約束の国へ 》[going my way]

情けなくて情けなくて、今はなにも見つけられないけれど、何度も繰り返してしまうかもしれないけれど、ただただ頭や心だけの問題なのかもしれないけれど、方法もわからないけれど、やってみたい。

《 昇る太陽 俺を照らせ 輝く明日へ 俺を導いてくれ 》[昇る太陽]

私もいきたい、いきたい!

この先、誰かと共に歩めること、愛されること、愛すること。
また、誰かに、抱きしめてもらうこと。
徒花かもしれないけれど、咲きたい、信じたい。

どこまでも深く落ちても、最終的には足が陽を向くように出来ているのは、エレカシに、宮本さんに出会ったおかげで、私の中に育った力だ。

こうして生き様をもって、何度も何度も奮い立たせてくれる人のことを、ヒーローっていわなくてなんていうんだろう。

真っ暗な気持ちに覆われそうな時も、その先にあると感じるような光り輝く場所を信じたいと思える。月があるだけで救われるような気持になる。
そんな風にずっと共にある音楽を届けてくれた。

ろくでもないピアニストの父と、歌うたいの母のもとに生まれても、音楽なんてなくても生きていけると思っていた。
でも今、確かに、音楽と共に生きている。

誰も助けには来てくれなかったけれど、私はヒーローを見つけられた。
絶対的なものは、ちゃんとこの世にあった。
だから、きっと、この鎖も。

9月、30歳になる。
ずっとそれだけは叶わないと思っていたけれど、今、信じてみたいなと思う。

《 30代 愛する人のためのこの命だってことに あぁ 気付いたな 》[俺たちの明日]

唯一無二のヒーローが、これからもどうか、望む限り歩んでいけますように。
良かったと思える瞬間がひとつでも多くありますように。
そうして私も、自分が好きだと思えた、信じることができたものを、笑顔で受け止められますように。

《 この世で一番大切なモノ
  お前の笑顔とオレの魂  》[解き放て、我らが新時代]


いつか、この鎖をほどいて生きられますように。


《 私“たち”の未来に 幸多かれ 》[風と共に]2019年1月18日 新春ライブより


この作品は、「音楽文」の2019年9月・月間賞で入賞した北海道・Bさん(29歳)による作品です。


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