強く、美しく、生きること - —THE YELLOW MONKEYの『JAM』に込められた普遍的メッセージとは

 私は、THE YELLOW MONKEYの『JAM』という曲が好きだ。といっても、この曲がリリースされたのは1996年2月のことなので、私が生まれる前の曲である。では、なぜ今、『JAM』という曲について書くのか。なぜ、長年のファンではない20代前半の若者がイエローモンキーの曲を語るのか。疑問に思った方もいるかもしれない。でも、純粋にこの曲が好きだし、今の時代にこそ聴くべき曲なのかもしれないという思いに突き動かされ、この『JAM』という曲について書くことにした。いや、書かねばと思った。

 2016年の年明け、イエローモンキーが再結成するという情報が流れてきた。その時は、私にとっては毎日、毎時、毎分更新される新しいニュースの一部でしかなかった。なぜなら、名前は知っているバンドだったが、曲はちゃんと聴いたことがなかったからだ。そして、そのまま曲を聴くこともなく、2016年の最終日を迎えた。このまま、イエローモンキーというバンドの曲を何一つ知らないまま過ぎていくはずだった。が、しかし、その日の朝、何気なく新聞をめくっていると、一面何か詩のようなもので埋め尽くされているページがあり、次のページをめくる手が止まった。そして、ゆっくりと目で追っていった。それは、歌詞だった。『JAM』という曲の歌詞だった。もちろん曲は聴いたことがなかった。だから、歌詞を読んでもメロディーは浮かんでこなかった。でも、何か分からないけれど、言葉の一つ一つから熱が伝わってきた。このときの衝撃を言い表すなら、そう、“言葉に殴られた”ような感じだろうか。私が見たのは新聞広告だった。そして、その日の夜、イエローモンキーは紅白歌合戦に初出場し、この『JAM』を演奏した。そのパフォーマンスを見て、私は鳥肌が立った。その時点では、彼らがこれまでどんな曲をリリースしてきて、どんな出来事を経験してきて、どうして解散したのかなど、何も知らなかった。でも、全身黒の衣装に身を包みステージに立つ4人からは、年を重ね、多くの困難を乗り越えてきた者が醸し出す独特の色気のようなものが感じられ、ゾクゾクした。言葉に殴られ、演奏する姿に色気を感じた紅白のステージは、格好いいとか、素晴らしいというありきたりな言葉では言い表せなかった。これを機に、私はイエローモンキーの曲を聴くようになった—

 ところで、『JAM』の歌詞の中には、聴く者の想像力をかき立てるような表現が多くあると感じる。具体的には、私たちが、自分自身を歌詞に当てはめて聴くことができるような余白がある表現。そして、自分自身を当てはめて聴くことは難しいが、私たちに違和感を抱かせ、「何を伝えたいのだろう」と考えさせるような表現だ。前者の例として、『JAM』の中にこんな歌詞がある。

《時代(とき)は裏切りも悲しみも 全てを僕にくれる》 
《Good Night 数えきれぬ/Good Night 罪を越えて》  (“JAM”)

私は22年間生きてきて、いや、まだ22年しか生きていないが、これまでたくさんの出会いや別れを経験してきた。その中には、決して忘れられない出会いもあれば、つらい別れもあった。そして、人を傷つけたこともあった。例えば、言わなくていい一言を言ってしまい、その人を傷つけてしまったこと。初めは仲良くしていた人でも、その人が冷やかしやからかいの対象になれば、距離を置くようにしてしまったこと。自分が傷つくことを恐れ、言葉で攻撃したり、見て見ぬふりをしたりしたのだ。今思えば、なんであんなことしたんだろうと後悔の念に駆られる。よく、「~やっておけばよかった」という後悔の方が「~しなければよかった」という後悔よりも心に深く刻まれるというが、私はどちらも同じように感じる。それはなぜか。大げさに言えば、「~しなければよかった」という後悔の方は、“罪の意識”として残るからかもしれない。誰でも、社会の中で生きていれば、間違いを犯す。それは、ほんの些細なこともあれば、世間的にも非難されるような大きな間違いのこともある。《時(とき)は~》という『JAM』の歌詞は、“自分のしたことは自分で受け止めなければならない”ということを私に気付かせてくれた。もちろん、“罪の意識”を抱えながら生きていくべきということではない。そうではなくて、何か間違いを犯したと感じたなら、それを受け入れ、次に自分はどうすべきかを考えることが大切なのではないかと思う。作詞をした吉井和哉(Vo./Gt.)は、そんなことを考えてこの歌詞を書いたのではないかもしれない。しかし、この表現を私自身に当てはめて聴くと、“当事者回避するな”と言われているような気がするのだ。
そして、後者の例として、最も心をえぐられた歌詞を挙げる。

《外国で飛行機が墜ちました
 ニュースキャスターは嬉しそうに
 「乗客に日本人はいませんでした」》     

初めて歌詞を見て、言葉に殴られたと感じた最たる要因は歌詞のこの部分にある。とても具体的な表現だが、実際に起きたある特定の航空機事故を指しているわけではないのだと思った。大事なのはそこではない。大事なのは、違和感を覚えるかどうかだと思う。私はこの歌詞を見て、違和感を覚え、もやもやとした気持ちになった。同時に恐怖も感じた。なぜ、怖かったのか。それは、“死”というものが形骸化していると感じたからだ。歌詞にあるように、飛行機が墜落したら多くの犠牲者がでることは容易に想像でき、ショックを受ける。でも、そこに日本人はいなかったという情報が入ると、安堵の気持ちが生じる。「日本人が誰も死んでいないならよかった」というように。その瞬間、多くの人々が死んだ出来事は、 “自分とは関係のないところでたくさんの人々が死んだ”という情報の一つでしかなくなるのだ。でも、本当に「よかった」と言っていいのか。日本人はいなくても、多くの人が死んだことには変わりないのに、なぜ、自分には全く関係ないという態度でいられるのか。そう考えさせられ、もやもやとした気持ちになった。
 私は先ほど、大事なのは違和感を覚えるかどうかだと言った。たくさんの情報が溢れる時代、誰もが気軽に自分の意見を発信することができる時代、影響力のある人の意見はすぐに広がる。そして、大多数が支持すれば、それは正しい意見になる。でも、私はどう思うのか? あなたはどう思っているのか? 大多数が支持していることに対して、少しでも「あれ?なんかおかしい」と感じるならば、一旦立ち止まって、「本当に正しいの?自分はそれに従っていいの?」ということを考えるべきだと思った。そう気付かせてくれたのは、聴く者に違和感を与え、想像力をかき立てさせるようなこの部分の歌詞である。


そして、『JAM』は、こんな歌詞で締めくくられる。

《こんな夜は 逢いたくて 逢いたくて 逢いたくて
 君に逢いたくて 君に逢いたくて
 また明日を待ってる》    

これらの言葉に、人の体温を感じた。会ったこともない誰かの死に触れることで、それを単なる情報として受け流すのではなく、自分の大切な人を思い浮かべているから温かく感じたのだ。この曲は、ただ社会に対して疑問を投げかけるだけの曲ではない。たとえ美しい社会ではなくても、自分が本当に大切だと思うもの、真実だと思うものを信じて生きていこうという熱いメッセージが込められているのではないかと思うのだ。冒頭で書いたように、今の時代にこそイエローモンキーの『JAM』という曲を聴くべきだと感じる理由は、まさにここにある。たくさんの情報が溢れ、飽和状態の社会で、本当に正しいこと・ものを見つけるのは容易ではない。でも、この曲の歌詞にあるように矛盾に満ちた世の中だとしても、自分は何を大切にしたいのか、何が真実だと思うのか、誰を愛するのかを見極め、自分の選択を信じて進む強さが、今の時代を生きていく中で一番求められることなのかもしれない。

 長々と語ってきたが、私はリアルタイムに彼らの解散前の活動を見てきたわけではない。バンドの人気が爆発し、その時代を代表するロックバンドだった頃の混沌とした状況、苦悩などまだまだ彼らについて知らないことがたくさんある。だから、そんな彼らの姿を反映した楽曲レビューは私にはできなかった。でも、彼らの曲を聴き始めるきっかけとなった『JAM』という曲への思いをどうしても伝えたかった。そういうわけで、今の時代になぜ聴くべきなのかという視点で書くことにしたのだ。
 昨年の12月から始まっている30周年記念ドームツアーや、3月の新曲の配信リリースなど、精力的に活動を続けている彼らは、年齢を全く感じさせない。音楽の素晴らしさを信じて、音を奏でる楽しさを噛みしめている4人は、強く、美しく、一際輝いて見えるのだ。


この作品は、「音楽文」の2020年3月・月間賞で入賞した山形県・藤崎洋さん(22歳)による作品です。


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