『PAPARAZZI~*この物語はフィクションです~』を聴いた - ―RADWIMPSが教えてくれたのは、世の中を“批判する”ことではなく“疑いをもつ”こと

 衝撃的な6分間だった。
まず、ニューアルバムの発売に先駆けて公開されたMVを見て黙り込み、アルバムが発売されると、歌詞カードを見ながら9曲目を聴いて考え込んだ。

9曲目は『PAPARAZZI~*この物語はフィクションです~』という曲だ。

 色々と話す前に言っておくが、私は“PAPARAZZI”と呼ばれる職業について批判をするわけでも、その職業についている人を攻撃するようなことを書くつもりはない。まだ社会人にもなっていない身で、自分の稼ぎで生活している訳ではない者が、仕事を批判するのは筋違いだと思うからだ。また、歌詞の内容が事実なのではないか?ということを考えるつもりも全くない。フィクションであっても、ノンフィクションであっても、この曲が世に出たことの意味の方が大事だと思うからだ。

 前置きが長くなった。で、何を考え込んだかというと、「世間って誰のことだろうか?どんな理不尽なことも曲に昇華できることが一流のミュージシャンなのか?自分が知りたいことは、ミュージシャンのプライベートか?」という感じだ。
 ある出来事が報道されると、世間の反応は~だとか、ネットでは~という声が上がっている、ということがさらにニュースになる。つまり、「情報を受け取る側の反応」もニュースのネタになるというわけだ。世間というのはある特定の人ではないし、ネットの声というのも、個人の意見ではない。ただ、誰でも情報を発信できる今の時代、一人一人が情報源となり得る存在とも言える。つまり、まとめると、世間やネットの声は、元を辿れば“あなた”であり、“わたし”であるということだ。
世間やネットの声は、まるで人格があるように、偉業を成し遂げた者を賞賛し、不道徳な行いをした者を非難する。芸能人をはじめとして、スポーツ選手やミュージシャン、ある時は一般人ですらその対象になる。当然のことながら、有名になればなるほど、その一挙一動に注目が集まるようになる。これは想像でしかないが、常に誰かに監視されているような状態なのではないかと思う。有名になるということはそういうことだという人もいるだろう。世間やネットの声を怖がっているようでは、この業界ではやっていけないよという人もいるだろう。

でも、忘れてはいけないと私が感じたのは、どんな有名人であっても、ひとりの人間であることには変わりないということだ。例えば、あるミュージシャンがプライベートで食事をとっている状況があったとする。ここで私たち一般人が知りたくなるのは、誰と食べているのか?という情報ではないかと思う。その人物は異性なのか?はたまた人気俳優の誰々なのか?そんなプライベート空間に入り込んでいって、写真をとったりインタビューしたりすることはよくない!と言いたいのではない。私が感じたのは、有名であればあるほど、私たちが知りたいと思っていることの対象が、徐々にミュージシャンの○○さんではなく、ひとりの人間としての○○さんに変わってきているということだ。もちろん、自らプライベートを公開することもあると思うが、それは別として。知ってほしくないのに、個人的なことが知れ渡ってしまうことのつらさを、100%理解することは私にはできない。有名人ではないから。でも、少なくとも、ひとりの人間としての生活が知りたいと思う人がいること、それが実際に記事になることについては、違和感を覚える。

ミュージシャンは理不尽なことも曲にしてこそ本物だ。という意見を何かで読んだことがある。確かに、なるほどと思わないわけではない。でも、それが普通だと考えるのは違うと思う。怒りの感情を曲にこめることで、結果的に評価されるような曲が生まれることはある。でも、精神的に追い詰められ、人間不信になったりする状況が実際にあるということを、私たちは知らなくてはいけないし、その状況はおかしいと疑問をもつことが必要だと思う。

疑問を持つことが必要だのなんだのと若干説教臭い文章になってしまったが、これは私自身に対する説教でもあるという認識で書いていた。私も、好きなアーティストがどんな人と食事をしているのかとか、どんな苦労があってステージに立っているのかということを知りたいと思ってしまう。後者はそこまで問題ないと思う。しかし、前者のように思うということは裏を返せば、有名人のプライベートの、何気ない食事シーンが盗撮されたことに対して、正当化の根拠を与えているということになる。「世間が知りたいことだから、価値のある写真だよ」というように。だから、この曲を聴いて、「ミュージシャンや著名人の気持ちを代弁しているすごい曲だ!」と、客観的にとらえることができなかった。そして、これも私が感じたことだが、この『PAPARAZZI~*この物語はフィクションです~』という曲は、ただ怒りにまかせて誰かを批判するような曲であるとは思わない(あくまで想像でしかないが)。だから、この曲を聴いた人に、同調してほしいとかそういうことを求めているのではなく、この(歌詞のような)状況に対して、少しでも疑問をもって、考えてほしいという思いが感じられた。

 こういった曲に対しては、様々な意見があると思うが、私はRADWIMPSが音楽で表現したかったことの一つとして、アルバムの1曲として受け入れ、ほかの曲たちと同じように大切に聴いている。


この作品は、「音楽文」の2019年1月・月間賞で入賞した山形県・藤崎洋さん(21歳)による作品です。


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