King Gnuが国から規制されるのではと心配になってきた - 「Teenager Forever」で私の耳はまた呪われた



曲が始まって20秒後、私は一時停止ボタンを押した。



ここまではCMの中で聴いたことがある。ただ、ここから先は未知の領域だ。「Teenager Forever」は約2年前から温められていた曲であり、ライブでは度々演奏されているらしい。しかし、そんなことは私には関係ない。今この時、「Teenager Forever」が私の耳に初めて入ってきているのだ。また私の耳がKing Gnuの新しい音に支配されようとしている。耐えろ、私の耳よ。どうか耐えてくれ。先日、一人でカラオケに行った。最初は色んなアーティストの曲を歌っていたが、歌えもしないのにふとKing Gnuを入れたのが間違いだった。どうしてだろう。ただの電子音、よく分からない男優がくねくねと動く映像、音程もリズムもへったくれもない自分のとんでもない声、それでも、それでも最高に気持ちいい。徹底的に細部までこだわったサウンド作りをないがしろにするわけでは決してないのだが、カラオケの音ですら気持ちいい。どうしよう、それこそが本物の証なのではないか。とりつかれたように4,5曲立て続けに曲を入れる。歌えもしないのに。ただマイクを握り、餌を待つ鯉のように口を開閉し、画面に映る歌詞を目で追い、頭を小さく前後に揺らすだけ。それだけなのに、ただひたすらに気持ちいい。体の血液全てがこの音楽に乗って流れているような感覚。ハッと我に返る。このままではダメだ。ダメになってしまう。違う人の曲を歌わなければ。苦し紛れに私が一番好きなアーティストの曲を入れる。歌える。完璧に歌える。なのに、全く気持ち良くない。なぜだ。どうした。私は一体何を知ってしまった。これはなんだ。この音楽は、なんだ。



またKing Gnuに新たな呪いをかけられる訳にはいかない。そんな簡単に呪われてたまるか。私の耳よ、今こそ意地を見せよ。



「ティッティッティッティッ」



なんだろう。まるでどこかのお笑い芸人のネタのようなコーラスが聴こえてくる。囁くように控えめであるのに、小気味いいリズムにのって笑いながら心を鈍器で殴ってくる強烈な力を持ったコーラス。心なしか「keep」という英単語にも聴こえる。本能的に画面をタップし、そのままカーソルを左へと移動させる。ああ、またやってしまった。まためでたく私の耳は呪われた。わずか1分足らずで私の耳を呪ってくるこの強力な引力は一体どこから来ているのだろうか。そう考えている間にも、何度も何度もカーソルを左へと戻す。全て本能がそうさせている。いとも簡単に私の本能まで乗っとってくるこの音楽の正体とは、いかに。



King Gnuの音楽を聴いていると「目を覚ませ」と言われている感覚に陥る。



《 “Wake up people in Tokyo daydream”
   Open your eyes, open eyes wide
   Rock’n’ roller sing only ‘bout love and life》
『Slumberland/King Gnu』



《皆どこかを目指してひた走る この身守るためにゃツバを飲め
 ってな具合だよ そんな状況 繰り返される日常の挟間で
 勝った、負けた 離れて、くっついた。すったもんだ ラチはあかねえな
 耳塞いで、目を瞑ったなら 突っ走れよ、混沌的東京》
『Tokyo Rendez-Vous/King Gnu』



今日、SNSはいよいよ人間がコントロールできないレベルまで強大な力を持ちつつあるように思える。それはまるでこの世の人間ひとりひとりから発される喜怒哀楽の感情やありとあらゆる質の情報を全て飲み込む「魔物」が世界の中心に鎮座していて、そこから発信される情報に人々が支配されているような感覚すら覚える今日この頃だ。人々は顔も知らない、真偽も確かでない誰かの発言に根拠を求め、同調し、自らの思想を転換していく。それはまるで白昼夢を見ているようなものなのかもしれない。目を覚ましているつもりなのは、自分だけなのかもしれない。「他人の言動でイライラするのは無駄」「他人を嫌うことに時間を割くような人に自分の時間を割くのは無駄」「叩いてくる人は自分に構って欲しいだけ」「他人の批判ばかりするのは実力のない人間だけ」「何かを嫌うことに時間をつかうくらいなら好きなもののことを考えた方がいい」「批判されているのはちゃんと見てくれていることの証」臭い物に蓋をするを地でいくように、魔物の存在自体に蓋をして自分を無理矢理納得させるような「格言」が今日もこの国には溢れている。こんな「格言」が溢れているのはなぜだろう。「人間が人間を、はたまたもっと大きなものを簡単に批判できる社会になった」というのが事実だと思う。この現代社会を生きる我々は、きっと今までとは違う力を身につけなくてはならない。こんな「格言」を使い簡単に蓋をしてやり過ごしてしまっていていいのだろうか。そこに人間としての成長はあるのだろうか。「魔物」は時に良い影響を与えることもあれば、悪い影響を与えることもあるのだろう。そしてそれはきっと個人の向き合い方にかかっている。この国で今こそ鍛えるべきは「自分」ではないのか。魔物に対峙するのに必要なのは「蓋」ではなく自らの力で突っ走ることのできる「自分」ではないのか。情報過多で右へ左へ流される今この時代、確立すべきはきっと「自分」だ。



アコースティックギター1本のみの静寂から始まる。他の音が重なるように加わっていきグラデーションのように動へと移り変わる動きが感情のうねりのように巧みに表現される。ある意味無機質で理性的とも言える常田の声。そこへ、心の奥底から引きずり出してきたような得も言われぬ感情の全てが乗った井口の声が合わさった時この曲は強烈な引力を生み出す。若さゆえの「衝動」「葛藤」「自問自答」が表現されていると思えるこの曲。もちろんそれらは「若さゆえの」と形容することもできるだろう。しかし、それは歳を重ねていく上で消し去ったつもりでも自分の心の奥底にしつこくこびりついたままなのかもしれない。時折、こびりついたものが浮き彫りになる瞬間がある。「こんな年齢にもなってまだ葛藤し、自問自答し、衝動的になってしまう自分」を責めるような場面は私にとって非常に多い。今まで、King Gnuの楽曲に「年相応」というワードを感じたことはないのだが、この曲で初めて「年相応の人間臭さ」のようなものがじんわりとにじみ出ているのを感じたような気がする。自分を殺して、他人に合わせて、どこにも角を立てず流れるように生きていくのが美学なのかもしれない。しかし流されるまま、流れるように生きて一体何が残るというのだろう。突然始まったラストははまさに文字通り「目の覚めるような」激情的なうねりで、白昼夢に酔いしれている心に何かを突き立てられ何かをえぐり取られているような感覚を覚える音だった。



結局、彼らは「目を覚ませ」と叫んでいる。それは最近巷を騒がせている某キャラクターの決め台詞と似ている。「ボーっと生きてんじゃねーよ!」それこそが、今この国を生きる我々にシンプルに求められているスタンスなのではないか。



何かにとりつかれたようにこの曲を十数回リピートで聴いて、ふと思った。



たった1曲でもこれなのに、1月にアルバムが出たら、一気に新曲を放出したら、この危険すぎるまでの依存性と中毒性と快楽をもたらし人々を途方もない引力で引き付けるこの音楽は、「国民が次々とヌーへと化し各地で大きな群れを成している事例が多々報告されており我が国の(都合の良い)発展を阻害する危険分子となるおそれがある」と国から規制されてしまうのではないだろうか。



本気で、心配になってしまった。





この作品は、「音楽文」の2020年1月・月間賞で最優秀賞を受賞した兵庫県・けけでさん(28歳)による作品です。


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