エレファントカシマシ 男シリーズというプレイリストを作ってみた - そしたら見えてきた 昭和〜平成〜令和 その世代、その時代における「男」の在り方

「エレファントカシマシ 男シリーズ」というプレイリストを作って聴いている。
同じ事をやった事のあるファンも多いのではないだろうか。


エレファントカシマシはその長いキャリアの中で『○○男』というタイトルの曲をいくつも産み出している。
それらはいつしか「男シリーズ」という名で括られるようになる。
本人たちが言ったのか、ファンがそう呼んでいるうちに定着したのか、そのあたりの事情はよくわからない。

以下は2020年8月の時点でそれに該当する曲の全てだ。


 1.花男(1988年)
 2.習わぬ経を読む男(1988年)
 3.待つ男(1988年)
 4.浮雲男(1989年)
 5.珍奇男(1989年)
 6.無事なる男(1992年)
 7.ドビッシャー男(1996年)
 8.かけだす男(1996年)
 9.戦う男(1997年)
 10.季節はずれの男(2003年)
 11.歩く男(2010年)
 12.涙を流す男(2012年)


どれを見ても、男!男!男!
どうだい?ワイルドだろ〜?

ちなみに、1990年のシングル『男は行く』、1994年のアルバム『東京の空』収録の『男餓鬼道空っ風』は、「男」が頭に付いてしまっているから除外。
1992年のアルバム『エレファントカシマシ5』収録の『お前の夢を見た(ふられた男)』は、入っているのがサブタイトルのため除外させてもらった。
完全なる独断と偏見だ。理由は「並んだ時、字面が美しくないから」だ。
今回あぶれた曲が好きな人、すまん!

純粋にリリース順に並べた。
全12曲。アルバム一枚としてもちょうどいいサイズに収まりとても気分がいい。


エレファントカシマシのほぼ全ての曲の作詞作曲を担うのは、ボーカルである宮本浩次。人呼んで「ミヤジ」。
俺はミヤジの事を男の中の男だと思っている。そんなミヤジから男の美学を学ぼうと思いこのプレイリストを作った。
しかし聴いているうちに、「男らしさ」や「男たる者」というイメージや定義が、時代とともに変化している事を強く実感させられた。

1988年のデビュー以来、昭和〜平成〜令和と3つの時代を跨ぐキャリアを駆け抜けてきたエレカシ。その中で燦然と輝く「男シリーズ」を紐解く事により、各時代に『○○男』として歌の主人公となった男が、俺の目にどう映ったかを考察してみたいと思う。



1.花男
時は昭和末期、1988年3月21日にリリースされたエレカシの記念すべきデビューアルバム『THE ELEPHANT KASHIMASHI』収録の名曲。今でもライブで頻繁に演奏される人気曲だ。

〝ニタリ ニタリと策士ども
 転ばぬ先の杖のよう
 わけのわからぬ優しさと
 生きる屍 こんにちは〟

サウンドもメッセージも衝動的で反体制。本来ならパンクに分類されるべき曲だが、デビュー作にして早くもジャンルで括る事の出来ない唯一無二の存在感を放っている。まさに破格にして異端の新人エレファントカシマシの登場だ。

作品に終始漂うのは「怒り」だ。
とにかくミヤジは何かに怒っている。

それが何であるか。おそらくは何の理想も信念も持たずにただ流されて生きている大多数の人間に対しての怒りではないかと思われる。
ロックバンドを生業とし、これから夢と理想という階段を駆け上がって行く事を誓ったミヤジにとって、彼らの姿は生きる屍も同然に見えたという事なのだろう。
そこから一定の距離を取った場所から「今に見てろ」とでも言いたげに、〝俺の姿を忘れるな〟と歌っている。

〝どうせやるなら ドンとやれ
 やつらを笑って ワハハのハ〟

『花男』というタイトルの本当の意味はわからないが、これからでっかい花火を打ち上げようと企む男ミヤジが、「男たる者でっかく生きて、散り際も花のように潔く」と言っているような気がする。



2.習わぬ経を読む男
こちらも『花男』同様、デビューアルバム収録のナンバー。

〝昔の友に言わせると 俺は変わっちまったそうさ
 人ゴミにからだを任せて 流れに乗ってきたせいさ〟

こちらは『花男』とは逆に、社会に流されて牙を失った人間の側に立った歌であると思われる。

主人公は〝あー俺はなんて幸せな 幸せな奴なんだ〟と叫び散らすが、その叫びは心底自分を幸せだと思っている者のそれではないように感じる。
これは負け惜しみなのだろうか。
認めたくはないが、認めざるをえないこの状況。
そんな自分に対して、狂おしいほどの怒りを感じているのかもしれない。



3.待つ男
2ndアルバム『THE ELEPHANT KASHIMASHI Ⅱ』のラストを飾る珠玉の一曲。
どことなくブルースを基調としているようにも聴こえるが、これは最早既存のジャンルにカテゴライズできるものでは到底ない。
本来必要不可欠であるはずのリズムなんてものは完全に破壊され、能や狂言、歌舞伎といった日本の伝統芸能すら内包したかのような独特すぎる歌唱法で鬱屈とした叫びが展開される。まさに唯一無二の、日本人によるロックの発明である。

〝ちょっと見てみろ この俺を
 何んにも知らないんだ この俺は
 ぼーっと 働くやからも
 おまえ こういう男をわらえるか〟

〝そういうやからに俺はひとつ言う
 おまえはただいま幸せかい〟

「俺はこうだが、お前はどうだ?」と問いかけるような姿勢だ。

〝ああ 待てど くらせど
 さっと背すじがさむくなる
 だれも俺には近よるな〟

男が待っているのは「チャンスの神様」なのか。
慌てず焦らず、これは人事を尽くして天命を待つ男の自信と余裕なのだろうか。

〝何をあわてて ぶざまにこける
 そら ちょっと見りゃ
 富士に太陽ちゃんとある〟



4.浮雲男
平成元年にあたる1989年8月2日リリースの4thシングル。

〝ああ ぷかりたばこを くゆらす男がひとり〟

たばこの歌である。
たばこの煙を浮雲に例えている。

〝よせよ 飯のときにも いっつも煙を吐いて
 彼はやめない ひとり頷き たばこをくゆらす〟

〝吸いすぎだから おやめなさいと 人は言うけど
 そんなときだけ ちょいと笑って そっとつぶやく〟

きっと彼にとって至福なのだ、たばこは。
日々の暮らしの中で訪れるひとときの休息なのだろう。

俺が子供だった頃、まわりの大人はみんなたばこを吸っていた。特に男は。
俺も大人になったらそうなるのだと思っていた。「うまい」「まずい」にかかわらず、吸わなきゃいけないような気すらしていた。身体によくないものだという事は何となくわかっていたけど。

俺たち世代の子供はその中で当たり前のように生きてきた。なんなら父親は俺を抱きながら顔に煙を吐いていたかもしれない。

だがそんな父親も今では換気扇の下でしかたばこを吸わない。
街を歩いていてもそうだ。喫煙可能な場所はごく限られている。灰皿ひとつ探すのも一苦労だ。

この曲が作られた当時、たばこは男にとって癒しであり嗜好であり、そしてかっこつけの象徴だったに違いない。
一生懸命働いた後、ゆっくりと吸い込むたばこはさぞ旨かろう。

だが時は流れ2020年の今年、公共の場や職場等、屋内においては原則禁煙とする法律が施行された。その大きな理由が「受動喫煙問題」である。
これはたばこを吸っている本人よりも、その本人が吸って吐いた煙にさらされるまわりの人の方が健康への害が大きいという問題である。

その事実が浸透した今では、多くの人が禁煙を試み、喫煙者もルールを守って所定の場所でたばこを吸っている。
そう、男は弱きを守るため、自分を変えたのだ。
このように、真の男は優しいのだ。

もちろん、たばこを吸うのは男だけではない。彼女らも皆一様に、時代とともに変化するルールに順応している。

俺かい?
俺はたばこは吸わない。



5.珍奇男
傑作3rdアルバム『浮世の夢』収録曲。
こいつは強烈である。

〝世間の皆さん 私は誰でしょうね
 わたくしは珍奇男 通称珍奇男

 わたくしを見たならお金を投げて欲しい
 あわれなる珍奇男みなさんあきれておられる
 わたしを見たならシャララララ
 お金をなげてねシャララララ〟

アコースティックギターを鈴のように鳴らしながら、まるで妖怪の話でもするようにミヤジの不気味な歌がはじまる。
やがてドラムのキックが加わるとエレキギターとベースもそれに追いつき、いつしか演奏はレッド・ツェッペリンばりの強靭なグルーヴへと発展する。
そしてそれらをさらに煽るようなミヤジの絶唱。

あんなにも世の中に対して怒りをあらわにしていたミヤジが、「怒りこそ我が力の源」とでも言うようだった男が一転、完全に世間に背を向け、世捨て人のようになってしまっている。
「ひきこもり」という存在が増えはじめ、でもまだ「ニート」という言葉はなかったであろう時代の歌だ。

〝誰かがぬかした私が寄生虫だと
 ありがとう皆さん またひとつ勉強しました

 世間の義理に見はられてオトットイェー
 ここまで苦労したのに 働いてつかれ
 苦労してオッとっと 恐ろしや世間風〟

完全に世間を見限り、真面目に働く者を見下し、自分の選んだ道こそが正しく、それに気付いた自分だけが利口だと言っているように聴こえる。
だが一方で、珍奇男は自らを「あわれ」だとも言っている。その自覚も同時に持っているのだ。

平成元年といえば日本中が空前の好景気に沸いていた、いわゆるバブル期の真っ最中だ。
俺自身はバブルを経験していないが、自分よりもっと上の世代でそれを経験していた世代の人の中には、「あの頃は良かった」と遠い目をして話す人がいる。
その思い出話を聞いた限りでは、働く事がそれほど苦痛な時代ではなかったように思える。もちろん俺の印象でしかないのだが。

当時はまだまだ「男は社会に出て働くもの」という概念が当たり前だった時代。この珍奇男の生き方はさぞ肩身が狭かったであろう。
今だったらこういう輩はネットでからんでその中だけで威張る事も可能だが、当時はネットなんてものはない。きっとひとりぼっちだったに違いない。

俺には、こんなザマになるしかなかった珍奇男が「あえて選んでこれをやっている」と自分に言い聞かせているように思える。苦悩が見えるのだ。
働いて、世間の皆さんのように生きていけたらどんなに素晴らしいかと、本当は思っているのかもしれない。

〝机さん机さん 私はばかでしょうか
 はたらいている皆さん 私はばかなのでしょうか〟



6.無事なる男
6thシングル『曙光』のカップリングとしてリリースされ、その後のアルバム『エレファントカシマシ5』にも収録されている。

この『無事なる男』だが、俺は「無難な男」と解釈している。

主人公は平凡に過ぎて行く暮らしを送っている。
毎日仕事に出かけ、休日は家族とくつろぐ。照れながらも奥さんにプレゼントをあげたりするような男だ。
そんな話が軽快なリズムに乗って調子よく歌われていく。

だが、男にはこんな口癖がある。

〝「だってそうだろう。こんなもんじゃねえだろうこの世の暮らしは。
  もっとなんだか、きっとなんだか、ありそうな気がしてるんだ。」〟

この曲がリリースされた時、ミヤジをはじめエレカシメンバーは20代後半に入った頃だ。友人知人にも結婚して家庭を持った人もいたかもしれない。

俺も今では無難な男だ。
この曲が発表された当時よりも、今の時代の方がそんな男が増えているだろう。
ひと昔前までは「家族サービス」という言葉があったけど、最近はあまり聞かなくなった気がする。男が家庭に介入する事は今では当たり前になった。それがデフォルトになったのなら、それは最早サービスとは言わない。

でもミヤジはこの曲の中では、そんな男を非難したりはしていない。むしろ微笑ましく見守ってくれている気がする。

〝無事なる男よ〟と。



7.ドビッシャー男
1994年のアルバム『東京の空』のリリースをもってレコード会社から契約を切られ、その後2年間どこにも拾ってもらえず、作品も発表できない宙ぶらりんな時期を過ごしたエレカシ。そして1996年、ついに決まった新たなレコード会社から発表されたアルバム『ココロに花を』。エレカシはこのアルバムで初めてチャートのトップ10にランクインというヒットを記録する。
そんな転機となったアルバムの1曲目を飾るのがこの『ドビッシャー男』である。
そこに描かれているのは「妥協して生きる男が人知れず流す涙」である。それがハードなロックサウンドに乗って歌われている。

〝新聞を読んで メシをかき込んで 出かけてゆくぜ
 今日も爽やかに

 正義のためさ 悪業のためさ
 漂うロマンチック ああ 男の涙〟

そしてこの頃のミヤジは侍に凝っていたようである。

〝昔の侍は 食わねど高楊枝さ
 プライドのためだけに ああ 死んじまうらしいぜ〟

〝男は侍さ 食わねど高楊枝さ
 喜びも悲しみも ああ 体にあびて〟

非常によくわかる。「男=侍」という発想には共感する男も多いだろう。
そしてこの「武士は食わねど高楊枝」ということわざから引用されたフレーズ。
たとえ食う物に困るほど貧しい状況であっても、あたかも今食べ終わって満腹かのように装って楊枝を使う様を表すのだが、この感覚は時代とともに共感を呼ばなくなってきたように思う。たとえ「ボロアパートに住んでいても身につける物だけは一級品」のような意識だ。
でも、果たしてこれは単なる「見栄」や「痩せ我慢」として片付けてよいものだろうか?
いや違う、これは「気品」や「品格」だ。それだけは何が何でも失わないという誓い、「プライド」と「美学」なのではないか。

現代の男にとっての「プライド」とは何だろうか。プライドとはわがままの事ではないはずだ。
時折、女性の方がそれを持っていると感じる今日この頃だ。

それにしても、『ドビッシャー男』とは一体何なのだろうか…?
それだけは未だにわからない。



8.かけだす男
『ドビッシャー男』とともに、アルバム『ココロに花を』に収録されている。

ハードボイルドな刑事ドラマのような疾走感あふれるサウンドに乗って、雨の中をずぶ濡れになって駆け抜ける男が描かれている。

〝もう俺たちは もう戻れない 明日しかみえない〟

雨に濡れ、無我夢中で、一心不乱に前だけを見て走る男はかっこいい…と、俺は思うのだが。
近頃はどうなのだろうか。風邪を引く心配の方が頭をよぎってしまうだろうか。



9.戦う男
1997年というこの年、シングル『今宵の月のように』がドラマの主題歌に起用されたのも手伝って大ヒット。エレカシはついにメインストリームに躍り出る。
そのひとつ前に発売された14thシングルがこの『戦う男』だ。いわばエレカシの夜明け前である。

〝戦え男よ 聞こえる あのメッセージ
 燃えろよ 静かに
 昨日の喜びも 捨てちまう 道端に〟

〝戦え男よ 聞こえる このメッセージ
 涙を拭うな
 未来の喜びを 胸に秘め 旅立とう〟

どこまでもストレートなメッセージだ。「男は戦う生き物」というわけだ。このあたりは直近の『ドビッシャー男』『かけだす男』の世界観とも似ている。

かつて「戦う事は男の特権」のようなイメージだったが、近年では漫画や映画等でも、女戦士が傷だらけ血だらけになって敵と戦う話も珍しくなくなった。そんな女戦士の姿を見て「かわいそう」とか「汚い」と感じる人はもうほとんどいないだろう。
もちろん戦うというのは肉体的な殴り合いだけではない。心理戦や頭脳戦もある。
もっと広く言えば、何かを頑張っている人はみんな何かと戦っている。

この『戦う男』は、言い換えれば「頑張る人」だ。それはきっと全ての人に当てはまるはずだ。



10.季節はずれの男
俺が思うに、この『季節はずれの男』というのは「時代遅れの男」という意味ではないだろうか。

この曲が収録されたアルバム『俺の道』には、もう若くない、もう中年の部類に入った今聴きかえすと心に突き刺さる曲が多い。
これがリリースされたのは2003年。当時の俺は20歳だった。きっと俺はこの曲のほんの表面上しか理解していなかったのだろう。

またしても雨の中、男はずぶ濡れになって歩く。

〝「俺は勝つ」まじめな顔で俺は言う
 「俺は勝つ」俺の口癖さ〟

2003年当時、もう熱血は廃れかけていた。
だがそれでも男は言う「俺は勝つ」と。

「何に?」
それはきっと、自分にだろう。

〝おのれに言い訳するな ダサいぜ
 季節はずれの男よ ひとり歩め〟

〝努力を忘れた男のナミダは汚い
 言い訳するなよ おのれを愛せよ〟

2003年からもう随分と時間が経った今、「合理化」という名の下に、無駄な努力をしないどころか「努力自体が無駄」という風潮すらある。「働き方改革」を「働かない改革」と勘違いする者すら現れてきている。
確かに日本の社会には無駄が多い。でも、己のために、己に課した努力には全て意味がある。ほとんどが報われないとしても、無駄という事は決してない。しないよりはおそらくマシなはずだ。

ここには「時代遅れ」と揶揄されようとも、努力する事をやめない、やめられない男の生き様が描かれているのだ。

〝鳥が飛ぶように俺よ生きろ〟



11.歩く男
40thシングル『明日への記憶』のカップリングとして発表され、その後のアルバム『悪魔のささやき〜そして、心に火を灯す旅〜』にも収録されている。

帰宅途中、夕陽の中を歩く男に風が囁く〝「満ち足りているのかい?」〟と。

〝夕暮れってヤツは心に 静かにしみるものらしい
 今日一日の俺の姿と
 交じりあって
 交じりあって
 甘くけだるい俺の時間〟

太陽は皆を平等に照らす。夕陽ももちろんそうなのだが、夕陽は太陽に比べて、なんというかもっとパーソナルな感じがする。1対1で対話ができるような感覚だ。
一日の終わりを連想させるタイミングである事もそう思わせる理由だろう。今日一日の自分と向き合う特別な時間をもらったような気になれる。

歩く男は毎日、こうして自らの一日一日を肯定して生きていくのだろう。〝光に満ちた思い出が証拠さ〟と。

〝黄昏 電車から降りて家に着くまでのそう
 俺の手に負えない 甘美な瞬間〟

今の時代、女性だって当たり前のように働く。
だから仕事が終わって帰宅する時に見た夕陽の美しさは、男じゃなくたって理解出来るはずだ。

〝歩く速度じゃあ迷子の生活〟

誰もが皆、昨日より今日、今日より明日と、ちょっとずつでも速度を上げて、時には小走りをしたりして、一日一日と自分を塗り替えて生きていくのだと改めて気付かされる。



12.涙を流す男
この曲は今のところ、どのアルバムにも収録されていない。2012年の44thシングル『ズレてる方がいい』のカップリングとしてひっそりとリリースされているのみだ。

場面は飲み会か何かだろうか。皆が楽しげに集う団欒(まどい)の席で、一人泣いている男がいる。

〝友よ 君はなぜ悲しげに泣く?〟

〝友よ その切なさ打ち明けてくれ〟

〝友よ すぐに勇気を出したまえ〟

まわりは泣いている友を必死で励まし、奮い立たせようとするが、友の返事はこうだ。

〝俺が泣きたいだけ
 泣かせてくれベイベー〟

どんなにその人の身になって考えようとしても、どうやったって他人にはなれない。悲しい気持ちの全てはわかってあげられない。

でも友情というのは良いものだ。
たとえお節介だとしても、親身になってくれる存在がいる事は嬉しい。

涙を流す男と、その悲しみを取り除く力になろうとする男たちの友情が目に浮かぶような曲だ。

携帯電話、スマートフォンの普及で、顔を合わせずとも様々なかたちで会話が成立する時代となったが、こういった皆が集う団欒の席というのも面倒だが大切にしたい。
しかも現在はコロナ禍。やりたくても出来ないのだから。



さて、今は2020年。
エレカシのデビュー当時から断続的に続いてきた「男シリーズ」であるが、2012年の『涙を流す男』以来リリースされていない。実に8年の空白だ。これは今までで最長の空白期間である。

この空白期間の最中、時代は平成から令和へと移り変わった。新時代の幕が開いたのである。
そして令和2年の今、俺は「男シリーズ」が発表されるのを心待ちにしている。
「令和版 男シリーズ」はどんな男が描かれるのか。それがどうしようもなく楽しみだ。

ただ、俺にはひとつ気がかりな事がある。
それはこの8年間で急激に加速したもうひとつの大きな時代の変化である。

それはLGBTの一般化である。
「LGBT」とは、レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダーの頭文字を並べた略称。つまり性的マイノリティの事を表す。
近年はオネエ系タレントの活躍、LGBTを扱う映画やドラマの普及、同性婚を認める「同性パートナーシップ制度」を施行する自治体も増えるなど、今や性的マイノリティの存在や性の多様性という考え方は、広く世間に認知されたと言っていい。

だからこそ、LGBTに対しての差別に当たらないか、言葉に関しても細心の注意を払わなければいけないわけだが、中には重箱の隅をつつくような言葉の揚げ足取りに夢中な人もいる。中には最初から「何か叩ける要素を見つけてやろう」と粗探しをしているような人さえいる。

性別やアイデンティティに関する差別というのはとてもデリケートな問題だ。ミュージシャンも歌詞の表現やインタビューの発言において、無意識にそこに触れてしまう可能性もあるだろう。

ミヤジとて例外ではない。
たとえば『戦う男』の〝戦え男よ〟という歌詞が「男だったら戦え!と押しつけるな!」と炎上の対象になってしまうかもしれない。


エレカシの「男シリーズ」がもう8年も発表されていない…
まさかミヤジ、迂闊に発表出来ない時代になってしまったのか?
「男」と限定してしまう事すら危ない時代になってしまったというのか?

いや、考え過ぎだろう。
そのうち突然「男シリーズ」の新作は発表されるだろう。俺はそう確信している。


その根拠は、やはり歌の中にある。


俺は性別なんてものは「1人1ジャンル」だと思っている。「男か女、しいて言えばこっちかな?」というように、たった2ジャンルの中から選ぶものではないと思っている。

ミヤジが歌う「○○男」も、ミヤジという一人の人間が描いた「ミヤジの男像」でしかない。エレカシのロック同様、性別もまた唯一無二だ。

だから男=俺ミヤジが、「これが俺らしさだ」「俺たる者こうだ」と歌っているだけで、そこに共感する人間が、勝手に自分を重ね合わせればいいのである。


というわけだ。
今年は世の中いろいろ大変だったから、そろそろ宮本浩次が歌う「男」が必要だ。

その「男」を名乗る資格のある曲が生まれたら、その時は俺たちに届けてほしい。

そしたらまた、俺はそいつを指針に歩いて行くぜ。


この作品は、「音楽文」の2020年9月・月間賞で入賞した千葉県・内山慎吾さん(37歳)による作品です。


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