星の数ほどの音楽のなかから - ACIDMANという光に出会った日の話

 すでに長い軌跡を辿ってきたアーティストにふとしたきっかけで心奪われることがあって、そんなときは大抵、感慨よりも「もっと早く出会えていれば」という後悔が先に立つ。
 名前は目にしたことがあったはずなのに、なぜ一度ちゃんと聴いてみなかったのだろう。これからCDを集めはじめても遅くないだろうか。キャパシティの限られたライブ会場において、ステージに立つ彼らを拠り所としてきたファンの人たちの隣に並んでよいものか。――なんて風なことを、自分でも考えすぎだと自覚しつつ、それでも考えてしまう。
 今こうしてパソコンに向かっているのはつい最近もそういう経験をしたためであり、今回こそはこの感覚を言葉に残しておこうと決めたからだ。

 結成二十余年を誇るロックバンド・ACIDMANと出会ったのは、昨年末頃のこと。
 縁あって知り合いになった人が楽しそうにその名前を口にしていた。ゆえに私にとっての彼らの第一印象はあくまで「私が興味を抱いた人が興味をもったもの」であり、それ以上でも以下でもなかった。
 帰宅後、何気なくバンド名を検索すると真っ先に出てきたのは、デビュー曲“赤橙”のミュージックビデオ。唯一無二を思わせる掴みどころのない歌詞と、ふわふわと宙を漂うような独特の雰囲気が印象に残った。ただ、常に傍らに置いておきたいと思うほどに強く心揺さぶられたわけではなく、成程こういう音楽もあるのだなとほんの少し世界が広がった程度だった。
 都心のとあるプラネタリウムで彼らの楽曲が使われた特別番組が投影されていることは、ACIDMANを勧めてくれた彼と再び会ったときに教えてもらった。

 正解のない問いについて深く思考を巡らすことには没頭できる反面、数字や化学式の類はなるべく視界に入れたくない。
 そんな先天性の文系人間のわりに、プラネタリウムや水族館、科学館といった空間はなぜか幼い頃から好きで。そういう場所に連れて行ってもらえる日を特別に感じていたし、大人になった今でも、時間を見つけてはふらりと足を向けてみることがあった。
 だから、期間限定のその番組がいまだ終わっていないことが分かって仕事帰りに立ち寄ってみようと思い立ったのも、なんら意外性のないいつもの私自身だ。

 18時半少し前、最寄り駅に到着。19時からの番組だしとのんびり歩いていたら、どうやら駅の出口を間違えたことが判明。散々遠回りした挙句ようやく目的地に辿り着いた。冬という季節をそのまま写し取ったような風が冷たく、高層ビルの隙間、透明の大気の向こう側に星が瞬いていた夜だった。
 チケットを購入して一息ついたときには、すでに開始十分前を切っていた。
 束の間、焦りを覚えた自分の姿を顧みて、なんだか急に可笑しくなる。
 そういえば最近忙しくてあまり余裕がなかった気がする。こんな風に何かに対する一途な期待感にとらわれたのは久々かもしれなかった。

 投影開始五分前。開場。
 ドームの奥へと歩みを進め、解説員の立つコンソール右側、端のほうの席に座る。
 聞きやすい声音のアナウンスがゆったりとドーム内に響き渡り、身体の力が抜けていくのを感じる。
 不意に、ACIDMANの音楽を初めて聴く方、という問いが投げかけられた。
 手は挙げなかった。
 すると今度は彼らの音楽のファンの方はいらっしゃいますか、という。
 ほんの少し迷って、やはり手を挙げることはできなかった。
 別に知り合いと来ているわけでもなし、ここにいる赤の他人の誰かが私の挙動を気にしているはずもないのに。「にわか」ってもしかしてこういう状態のことを言うのかもしれないと思い至り、ひとりで妙に腑に落ちてしまった。
 やがてロビーへと続く扉は静かに閉ざされ、視界が闇に沈んでいった。

 ――あっという間の四十分だった。
 限られた時間に詰め込まれた、星や宇宙にまつわる楽曲の数々。それらはいずれも美しいプラネタリウムの映像と調和していて、終始心を掴まれてやまなかった。綺麗に洗った透明な瓶に一滴残らず注いで持ち帰りたくなるくらいに、それは素敵な空間だった。
 傍から見れば人工の星空の下ただ椅子に座っていただけ。それなのに、ACIDMANの音楽に背を押されてこの手と宇宙との距離がぐっと近くなったような、そんな気がした。
 ふと、毎日が息苦しかった十代の頃、写真でしか見たことのない遠くて深い銀河の姿に思いを馳せたことを思い出した。自分がいかに小さな存在であるか、人の一生がいかに短いかを宇宙の物差しで測って安堵し、どうにか眠りにつくことができていたあの日々を思い出した。多くの経験知識がいまだ手の内にない幼い時分、祖父母の家近くの路上から澄んだ夜空を見上げるひと時が何より楽しみだったことを思い出した。

 「宇宙」「自然」「生命」といったテーマは「身近」と呼べる領域の極地に存在しているのかもしれない。そう感じたことは過去にも幾度かあった。
 本当はいつも目に見える場所にあって、ふと思いを巡らせる瞬間は訪れるものの、常に頭の片隅で考え続けていなければならない事柄ではなくて。
 人生が有限であることを知ってしまって、今日明日を生きるのさえ必死なときなんかはとくに――「そんなことを考えている余裕はない」と、つい後回しにしてしまう類のもの。
 
 ACIDMANの音楽は、そんな風に後回しにされたいくつかを拾い上げて、再び丁寧に眼前へ並べていってくれるような感じがする。だからこそ生き急いでいるときほど、追い詰められているときほどにその歌声は、音は、言葉は、心に沁みる。
 彼らによって音楽へと仕立てあげられる様々は、普段の生活において取り立てて意識してはいなくとも必ず私たちの深層部分に存在していて、生きている限り絶対に忘れてはならないものばかりだ。

 たとえば私たちがこの世界でいかに小さな存在であるかということ。

《世界が終わる事なんて 些細な事さ
 小さな僕ら 生まれて 消えるだけ》(“世界が終わる夜”)

 何気なく見上げた夜空の先に救いがあるということ。

《世界の夜に 降り注ぐ星 全ての哀しみ洗う様に
 さあ 降り注げ 今、降り注げ 心が消えてしまう前に》(“ALMA”)

 光の下で誰かと出会うことの素晴らしさ。

《あれは春という鮮やかな光
 悲しみを溶かし また出会えるように
 今は遠すぎる 互いの日々も
 溶け合って行くだろう そのままの声で》(“式日”)

 無限に広がるこの世界が、有限な音と言葉をもって紡ぎ出される美しさ。

 私はACIDMANに――彼らの手で生み出される音楽に出会えることを、待ち望んでいたのかもしれない。
 そう気づいたときには、例の後悔の念はすっかり上塗りされてしまっていた。
 今更かもしれないけれど、生きているうちに出会うことができてよかった。そんな澱みのない幸福感に満たされてゆく。

 未知の音楽との出会いはいつだって胸が高鳴るもの。
 これまでの人生で何度も何度も思い出してきたその真理を今、また思い出す。
 そうして、一通りの昂りが落ち着いたのち頭に浮かぶのは、いつも同じ祈りの言葉であることも。

 「はじめまして。これから先の軌跡はどうか、ともに歩ませてください」


この作品は、「音楽文」の2020年4月・月間賞で入賞した東京都・kako.(24歳)による作品です。


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