Frank Oceanの「アンビエンス」の行方 - 2017年上半期の覚書

2012年の《Channel Orange》ですでに「アンビエントR&B」とか「インディR&B」と呼ばれはじめたいち潮流の代表選手として評価を決定的にしたFrank Oceanは、2016年の《Blonde》でさらなる支持を得ることになった。「アンビエントR&B」ということばは単純すぎて少し馬鹿っぽい感じがして好きになれないけれど、《Channel Orange》で既に確立された、リヴァーブやエコーといったいわゆる「空間系」のエフェクトに包まれ、ローファイとハイファイを自在に行き来するようなその楽曲は、たしかに「アンビエント」というジャンルを想起させる。

彼はしばしばビートを離れ、つかみどころのない曖昧な音色とともに歌声を漂わせる。その様子はまるでR&Bのスウィートネスが空中でおぼろげに凝結してしまったようでもあり、あるいはまた、あやうく脆いアイデンティティが霧散してしまうのをかろうじてこらえているかのようでもある。その印象は次から次へと表情を変えるその音像にもあらわれている。プレイステーションの起動音(“Start”)から始まる《Channel Orange》にせよ、サウンド・コラージュとインタヴュー(“Interview”)で幕を降ろす《Blonde》にせよ、彼の楽曲にはさまざまなサウンド・ソースが混在し、ゆるやかに、かすかにつながりあいながら共存している。

複数の質の異なるサウンド・ソースを縱橫にはりめぐらせるプロダクションは、サンプリングの全面化以降のラップ・ミュージックやR&Bにおいては必ずしも目新しいものでもないし、その視野をポップ・ミュージック史に拡げても同じことが言える(言ってしまえば1960年代、録音技術が飛躍的に向上して以来着々とその道筋は開かれていったのだから)。しかし、とりわけ近年のラップ・ミュージックやR&Bに見られたコンセプト・アルバム志向の要となっていたのは、リリックを通じて語られる物語や主題と並んで、こうしたプロダクションにあったと思う。数多の音楽メディアで高い評価を得たSolangeの《A Seat at the Table》など、丁寧なプロダクションを施されたトラックのあいだを様々な音質の「声」が縫い合わせていく流れが印象的だった。それはたとえば、四半世紀以上前、Public Enemyのラディカルで戦略的なサウンド・プロダクションがカオスを生み出していたのとは違って、ポリフォニックな物語を紡ぎ出す原動力になっていた。

あるいはエッジの薄い靄がかかったような音色のなかに漂う歌声といえば、いまのラップ・ミュージックの主流をなすトラップ・ミュージックもその志向を共有しつつある。キャッチーなタイトルとメロディ、そしてネット・ミームの後押しを受けてヒットしたRae Sremmurdの2016年作“Black Beatles”は、トラップの特徴であるアタックの強いキック・ドラムとダイナミックな緩急をつけて刻まれるハイ・ハットを中心としながらも、バックトラックを埋め尽くすパッド音からヴォーカルに至るまで、深いリヴァーブとエコーに包まれている。まるで洞窟の中でライヴしているかのような底なしの空間性(アンビエンス)は、ポップ・ミュージックというにはあまりにも曖昧模糊としたものだった。

と、Frank Oceanと2010年代前半のラップ・ミュージック/R&Bとを貫くひとつの時代性(そこにエレクトロニック・ミュージックやダンス・ミュージック、インディー・ロックを含めてしまうことも可能なのだろうけれど)をまとめたうえで、2017年に入って彼が発表した3つ(厳密にはひとつのヴァージョン違いを含めた4つ)の楽曲に耳を傾けてみよう。

これらは、ヴィジュアル・アルバムである《Endless》及び前掲の《Blonde》という2つのアルバムを間髪を入れずに発表して話題を振りまいた2016年から一転、ほとんど「月刊フランク・オーシャン」みたいなノリで立て続けに発表されたシングル群だ。ティーザーサイトの公開(“Biking”)や、恒例となっているBeats1 Radioでのプレミア公開など、彼なりの一貫したメディア戦略は垣間見えるものの、いまのところそれが1枚のアルバムに結実するかどうかは定かではない。セクシュアリティに対する自らの見方をシャネルのロゴに例え、「バイセクシュアルのアンセム」との反響も呼んだ“Chanell”。インディペンデントなアーティストとしての自らのアティチュードを息を切らすように歌いきる“Biking (feat. JAY Z and Tyler, the Creator)”。セレブリティの仲間入りを果たした自らの抱える不安を人生のさまざまなモーメントに重ねた“Lens”。いずれも巧みなプロダクションが施されている。

たとえば“Lens”。エレクトリック・ピアノと弦楽器がぽつり、ぽつりと鳴り響くなか、短いエコーとオートチューンのかかった声が印象的なファーストヴァースから始まり、コーラスを越えると次第にリッチなリヴァーブが姿を現していく。どうにもうまくいかなかった夜やすれ違いを描く郷愁に満ちたファーストヴァース、些細な幸せに満ちた日々を思い起こすセカンドヴァース、それらをつなぐコーラスでは、自らに注がれる微笑み――それは身近な人々やファンたち、あるいはメディアの「レンズ」からのものかもしれない――を受け、呆然としていた自分を奮い立たせる。ショートエコーとリヴァーブは次第に空間を拡げ、彼自身の決意をドラマチックに演出し、そして生者も死者も入り混じった微笑みの主(アウトロで彼は自分に「レンズ」を向ける「魂たち」たちの名を挙げてゆくが、そこには気鋭のまだ若いアーティストの名もあれば亡くなった叔父の名もある)の姿をも幻視させる。

あるいは“Biking”。冒頭からどこかハイの削れたくぐもった音質と、ヒス・ノイズに耳が反応する。JAY Zによるイントロダクション的なヴァースが終わると一気にハイが開け、アコースティックギターを中心とした比較的シンプルなバックトラックのうえでOceanが歌い出すのだが、ヴォーカルとギターは中央に定位して、左右の拡がりは限定されている。しかし、バックコーラスやダビングされたヴォーカルがさりげなく空間を伸縮させていき、Tyler, the Creatorのヴァースが終わりに差し掛かるととたんに空間は歪みだす。Tylerのパンチラインに呼応するコーラスは、まったく唐突に空間のなかに浮かび上がって、過ぎ去る。Oceanの声が空間のなかに展開する彼のセカンドヴァースに至ってはサイケデリックでさえある。

改めてキャリアを遡ってOceanのリリックを眺めてみると、性愛や孤独をめぐるプライヴェートな物語が詩的に、巧みに綴られる《Channel Orange》から比較して、《Blonde》のリリックは、断片化した記憶や印象が連なって描き出すモザイク画のように見える。それに伴って、楽曲の音像もより深く(リヴァーブ)、より断片的に(過剰なピッチ・モジュレーションやつかみどころのないサウンド・エフェクト)なっている。冒頭で述べたようにそれは「空中でおぼろげに凝結してしまった」ような、「霧散するのをかろうじてこらえている」ような印象を与える。《Blonde》は明確なひとつの像を結ぶことを拒み、むしろボケやブレ、そしてそれに伴う複数性を内在化さえしていた。(*1)

それに対して、2017年に入って発表された3つのシングルは、一曲一曲がはっきりとした像を結びかけていると思う。未だそれらがアルバムという大きなコンテクストからまだ自由であり、それぞれが自立した作品に見えることもひとつの理由だろうし、印象的なアートワークがシングルごとに用意されていることもまた理由のうちに数えられるだろう。しかし最大の要因は、そこにOceanが自身のアイデンティティ――この上ない名声に対して当惑する感情であるとか、オープンリー・バイセクシュアルの黒人というマイノリティ性であるとか――を肯定し、奮い立たせるような言葉がそこに見られることにあるのではないか。

My guy pretty like a girl
僕の彼は女の子みたいにかわいい
And he got fight stories to tell
彼は武勇伝をたくさん話したがってる
I see both sides like Chanel
僕にはどっちの面も見えるんだ、シャネルみたいに(*2)
See on both sides like Chanel
どっちの面も見えるんだ、シャネルみたいに

――"Chanel"(拙訳)

God gave you what you could handle
神が与えてくれたものならきみは扱いこなせる
Gave you what you could handle
与えられたものを、君は扱いこなせる
I got the grip like the handle
僕はハンドルを握りしめるみたいに落ち着いている(*3)
And I'm bikin'
そして自転車で駆けている

――"Biking"(拙訳)

Spirits watch me, pants down
魂たちが僕を見ている、不意を突かれた僕を(*4)
Can't be 'barrassed of it
それにまごついてられない
I feel their smiles on me (smiles on me)
みんなが僕に微笑んでいるのを感じる(僕に向けた微笑みを)
I feel their smiles on me (smile on me)
みんなが僕に微笑んでいるのを感じる(僕に微笑んでいるのを)
I feel their smiles on me (lens on me right now)
みんなが僕に微笑んでいるのを感じる(レンズがいままさに僕を捉えてる)

――"Lens"(拙訳)

上に掲げた3つの引用は、私見ながら、自らのアイデンティティを肯定すると同時に、築きつつあるキャリアに対して未来を向くOceanの姿を見せているようだ。自分の男性パートナーのフェミニンな容姿と、武勇伝を語りたがるマッチョな両側面を、(バイセクシュアルとしての)自分は同時に見ることができる。神に与えられた試練は必ず乗り越えられる(し、自分はいままさに乗り越えようとしている)。そして、たくさんの「魂たち(Spirits)」が微笑みながら自分を見守っている(たとえそのまなざしがレンズを通して歪んでいたとしても)。

とりわけ“Lens”の“I feel their smiles on me (lens on me right now)”という一節は、親しい人々や彼に尊敬を向ける人々の微笑みと同時に、メディアを通したあらゆる人々のまなざしが彼を捉えていることに対する恐怖を垣間見せる。しかし、“Can't be 'barrassed of it”という決意の言葉がそれを包み込んでいる。それは、次から次へと待ち構えるタフな試練を、筋肉を火照らせ、車体をきしませながら(“I'm bikin' uphill and it's burnin' my quads / I'm bikin' downhill and it sound like a fishin' rod”)乗りこなさんとしている“Biking”での自己表象に具体化される(リリースの時系列は逆だが)。

かといって、すでに述べたことだが、Oceanの楽曲のサウンド・プロダクションがオーセンティックに回帰したりはしない。むしろ、たとえば“Biking”の繊細かつ大胆な音像のコントロールは、彼自身のこの上なくエモーショナルなアウトロでの歌唱(というかシャウト)も手伝って、はっきり言ってスペクタクル的でさえある。《Blonde》においては断片的な記憶や内省、ふたしかな関係性といった主題に寄り添っていたかに見えるそのプロダクションは、また異なった主題、あるいは物語を紡ぎ出すことを待ち受けているようだ。2017年上半期にコンスタントに発表されてきた新曲群や、既に数多くレコーディングされていると噂される未リリースの素材は、果たして新しいアルバムに結実するのだろうか。それとも、これらのシングルは次のアルバムへ至るための助走であり、予想だにしない新たな世界を見せてくれるのだろうか。

2016年は《Blonde》をはじめとした名盤が数多く世に出たと評価される。しかし、2017年もまたそうした評価を受ける年になるかもしれない――既に僕は今年出た多くの新譜に感銘を受けっぱなしなのだが――、Frank Oceanのシングル群は、僕にとってそうした予感を増幅させてくれるものだった。

(*1) 複数性といえば、《Blonde》は当初3つの異なるカヴァーのヴァリエーションを持つフリーのZINEとあわせて配布され、その内容はストリーミングで配信された《Blonde》とは若干異なる。また、2016年のブラック・フライデーに突如発売されたフィジカル版も、ストリーミング版とジャケットが異なる。本題とは少し離れるけれど、いかにも戦略的、マーケティング的とも言えるこうしたヴァリエーションたちもまた、《Blonde》の全容を掴み難くしている。

(*2) 互いに鏡像になっている2つの“C”が重なり合ったシャネルのブランド・ロゴを、ここではものごとや人がもつしばしば相反する二面性に例えている。

(*3) “get the grip”で「落ち着く」とか「しっかりする」という慣用表現で、さらに「自転車のハンドル」“handle(bar)”を握りしめるように、という意味がかかっている。

(*4) “be caught with his pants down”は「不意打ちをくらって当惑する、まごつく」という意味で使われる表現で、身の回りの急激な変化(セレブリティとして人々の注目をあつめるようになったことも含めて)にとまどっている自分をあらわしていると思われる。セックスやセクシュアリティについてリリックで語る自分を“pants down”な状態にたとえているという解釈もあるようだ。


この作品は、「音楽文」の2017年8月・月間賞で最優秀賞を受賞した藤崎洋さん(21歳)による作品です。


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