そしてこの時代を生きる私たちへ - アジカンが告げた新世紀、バニラズが歌った「平成」

平成13年、西暦2001年に生まれた。
私の生まれる8ヶ月前に世界は新世紀を迎えた。
生まれた1ヶ月後に、アメリカでビルが燃えた。
ゆとり教育が始まって終わった。
小3のとき遠くで大きな地震が起きた。
小6のとき、19歳になる年に東京でのオリンピックが決まった。
中3のとき反対側の遠くで大きな地震が起こった。
大人になる前に平成が終わると決まった。
私たちの代でセンター入試は終わって、次の学年から新しい大学入試が始まると聞いた。
これからはAIが人間に取って代わるから、私たちが大人になるまでにいくつかの職業は消えるだろうと言われた。

まだ「私たち」の歌は歌われていない。

「俺らは、物心ついたときには不況だったんだよね」

夏、現代社会の授業で、教科担任の先生はそう言った。経済史、バブル崩壊後の解説を始めるときだった。

「いわゆる『空白の世代』、ロストジェネレイションってやつだよ」

先生は、出身高校の進学実績が自分の年が過去最悪だったこと、そのころ未成年の凶悪事件が増えたことなんかを話した。「希望なんて無かった」とも言った。

――そうか、じゃあこの人はきっとゴッチの歌った意味が、説明されずともわかるんだ。

そのとき私の頭に浮かんだ1曲。
ASIAN KUNG-FU GENERATIONの「さよならロストジェネレイション」。
もともと好きなアルバムの好きな曲だった。

『「暗いね」って君が嘆くような時代なんて もう僕らで終わりにしよう』

その曲に時代背景があることは知っていたけれど、詳しくは知らなかったし、知ろうとしてこなかった。
授業を受けて、改めて私はこの曲を何度も聞いた。

アジカンのファンの大多数は世代がいくつか上なので、同級生でアジカンのことを知っている人にはなかなか出会えない。私がアジカンを好きになったのだってベスト盤以降だし、タイミングが合わずまだライブにも行けてない。

でも音楽に好きになることに時代なんて関係ないさ!

……それは、それとして。
間違ってはないけれど、私は「だよね!」とは言えない。
だって過去のアルバムが制作された当時のアジカンを私は知れない。当時の彼らを見ることはできない。都市でのライブに行くファンのツイートを見ては、今自分が田舎の高校生であることを悔しく思う。
そして、「さよならロストジェネレイション」だ。
私はこの曲に共感することはできない。その時代を生きていたわけではないから。その歌詞の意味を、事実としてしか知ることができない。
終盤に向かい広がっていくサウンド、力強くなるボーカル。最後はいつも感極まってしまう。だけど、そこで涙を流すことは、それを私がするのは、なんか違う……と思ってしまって、キュッと我慢していた。

そして、同じアルバムの曲である「新世紀のラブソング」。時間軸は前後するが、ベスト盤で初めて聞いたとき、私はこの曲が少し苦手だった。
それは、私がそれまで知っていたアジカンとあまりに違った。というか、私はアジカンをあまりに知らなかったのだ。
それからしばらくしてアルバムを1枚ずつ聞くようになり、その2曲が収録されたアルバム・マジックディスクを聞いたとき、不思議と「新世紀のラブソング」に対しての抵抗はなくなっていた。

この11月に発売されたアジカン映像作品集13巻には、20周年ツアーの武道館公演が収録されている。前記した2曲はアンコールで歌われ、このライブを締めくくっていた。

アンコール、その2曲が歌われた映像は、そのライブの中で一番綺麗だった。美しかった。

節目であるこのツアーで歌われた、時代を歌ったこの2曲。それだけこの2曲はこのバンドにおいて大きな意味を持つのだろう。
そのとき私はやっと「新世紀のラブソング」を好きになれた気がした。その曲の持つ意味をわかった気がした。
いいなあ、と、素直にそう思った。
生きてきた時代を、つらかったかもしれないその時代を、この人たちが今、歌ってくれているんだ。そんな人たちにとってこの曲は、どんなに大切なものなんだろう。
ーー先生、先生が嘆いたその時代を、今この人たちが歌ってますよ。それを私が聞いていますよ。
あの先生にそう伝えたくてたまらなかった。
これは、私に向けられた歌では無い。それでも、どうしても涙は流れてしまった。

もう一つ、時代を歌った曲の中で印象深いのがgo!go!vanillasの「平成ペイン」。

初めて聞いた時、なんて素敵な歌だ!と思った。
その後、平成が終わると知りバニラズはこの曲をつくったのだと知った。そのときはもう、その思いを言葉に出来なかった。

『踊れ 平成ペイン あなたと行くのさ この道の行く末を』

平成というこの時代は短く、たくさんのことが変わっていった。この30年を悪いものとして捉えて終えてしまう人もいるかもしれない。そんな平成の闇でさえも『踊れ』と言ってくれる。
平成が終わるその瞬間、私はこの曲を聞いていたい。
しかし、この曲に大きく共感するのも少し上の人たちなのだろう。ゆとり教育を受けてきたくらいの世代だろうか。こんな素敵な人たちがこんな素敵な曲を歌ってくれたら、自分の過ごした時代はきっと素敵なものだったんだろうと思えるに違いない。

アジカン、バニラズ、いずれもこのような曲を出したのはまだ最近のことだ。
だから16歳の私にとって、「まさに私たちの歌だ!」と言えるものが今は無いのは当たり前のことかもしれない。

じゃあ、何度も繰り返している「私たち」とは?と言われると、
ある程度の不況を乗り越え、教育には多くの関心が寄せられ、選挙権は拡大され、
「君たちには希望がある!オリンピックがあって、技術も発展していき、グローバル化はさらに加速していくのだから。君たちは新しい時代を担うんだ。」
と、そんなことを語る大人もいる。

まあ確かに、ある意味私たちは希望がある世代なのかもしれない。
でも、大人たちの手で色々なものが変えられていることは変わらないものだろう。
ゆとり教育が終わって以来、「教育」は「革新」されてきた。「グローバル化」を語って、本当に学びたいものが消えていくこともあった。大学入試を変えると言われ、最後のセンター受験生である私たちに浪人という選択肢は既に無いに等しいと忠告された。
子どもたちが中心なはずなのに、私たちはいつも蚊帳の外で、気づいたら勝手に期待を託さていれる。
そして社会の授業でこう習う。

「君たちが社会人になったとき、君たちは1人で約2人のお年寄りを支えなければいけないことになります。」

そんなどうしようもない思いを、140字にぶつけた。「いいね!」されることに執着した。写真でいつでも思い出を残しておきたかった。当たり前のように渡された小さなおもちゃを握って、顔の見えない繋がりに酔って、離れられなくなって。

いつか、そんな私たちのことを。

私たちが、私たちが青春を過ごした時代を客観視できるくらい大人になったころ、誰かがそれを歌ってくれるだろうか。アジカンやバニラズのように。
そうしてその時代の歌として、次の時代の人たちが聞いてくれるのだろうか。今の私のように。
アジカンはひとつの時代の終わりを告げ、『始まれ21st』と歌った。バニラズは平成の終わりによせて、彼らの育った時代の闇と光を歌った。
それらは過去の歌であり、そして同時に未来の歌だ。
私は彼らの歌うその時代を知らない。それでもいつだって、私の腕を強く引いて導いてくれる。
私たちは新世紀とともに生まれた。

まだ「私たち」の歌は歌われていない。

いつか「私たちの歌」が次の誰かの腕を引くまで、私たちはこの時代を生きていくのだ。


この作品は、「音楽文」の2018年1月・月間賞で入賞した岐阜県・坂木なみおさん(16歳)による作品です。


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