音楽とヒーロー

クリープハイプ、そして尾崎世界観はわたしにとってヒーローである。

わたしがクリープハイプに出会ったのは今から約3年前。専門学校を卒業する少し手前の3月だった。わたしはこの時期になっても就職先がいまだ決まらず、残りの課題やら就職活動の資料を片付けてからシャワーを浴びた。部屋に戻りテレビをつけると音楽バラエティのような番組をやっていて、見るとはなく適当に流していると見覚えのある顔と名前が映った。ひとりのライターがクリープハイプを紹介するところだった。尾崎世界観という名前も一緒に映し出されている。

あ、あのひとだ。

そう思った理由はクリープハイプというバンド名は知らなかったが尾崎世界観という名前のバンドマンがいることは知っていたから。以前、雑誌で尾崎自身と「尾崎世界観」という名前が並んでいるのを見たことがあった。マッシュヘアに長い前髪で目が隠れていて尾崎「世界観」と名乗っていることから、正直なんとなくふざけた人だと思っていた。そんな印象だったものだからバンド名まで目を向けずさっさと目的のページまで雑誌をめくった。
今思えば本屋で立ち読みしているあのときの自分を殴ってやりたい。そのひとの音楽に何度も救ってもらうんだぞと教えてやりたい。
そのときの自分がクリープハイプに惹かれた気持ちは今でもしっかりと覚えている。卑屈だと紹介され、画面にはメンバーの写真と“社会の窓”の歌詞が映されていた。

《凄く大好きだったのにあのバンドのメジャーデビューシングルが/オリコン初登場7位その瞬間にあのバンドは終わった/だってあたしのこの気持ちは絶対シングルカット出来ないし》
《曲も演奏も凄く良いのになんかあの声が受け付けない/もっと普通の声で歌えばいいのにもっと普通の恋を歌えばいいのに/でもどうしてもあんな声しか出せないからあんな声で歌ってるんなら/可哀想だからもう少し我慢して聴いてあげようかなって/余計なお世話だよ》

歌詞がなぞられる後ろで音楽がながれていた。
こんなこと歌っちゃうんだ。
そう思った。これは否定的な意味ではなく驚きとかっこよさを感じたのが大きかった。メジャーに行き離れていくファンの心境を卑屈に客観的な目線で描き、聴きかじっただけでバカにしてくるような人間に音楽の中で噛みついていた。自分の歌声も書いてきた歌詞も自虐して、言われなくてもわかってるんだよと言えてしまっている、いや言わずにはいられなかったのだろうと思った。言わなくても済むことをわざわざ言っている。卑屈なくせに攻撃的な潔くない強さがあった。
でも、それからすぐにはクリープハイプの音楽を聴こうとはしなかった。特に理由はなかったが、他にもやるべきことがいろいろあって、音楽をゆっくり探したり聴いたりする気持ちにはならなかったかもしれない。それに音楽は生きていく中で絶対に必要なものではないのである。

それから少しして、わたしは卒業しても就職が決まらなかった。わたしより後に就職活動を始めた子が決まり、学生時代にわたしの方が学校に真面目に通い課題もきちんとやっていただろうと思うような子がきちんと春からの行く先が決まっていた。正直悔しかったし、納得がいかない気持ちだった。今思えば、わたしに雇いたいと思わせる魅力も本気で仕事をしたいという気持ちも欠けていたことが原因だったとわかる。でも当時は自分の気持ちが上手く収まらなかった。そんなとき夜中に目的もなくパソコンをいじっていた。もう調べたいものも、見たいものもなかったが別に寝なきゃいけない理由もなかった。そしてなにより朝が来ることが嫌だった。そんなことをうだうだ考えているときにクリープハイプを思いだした。動画サイトでクリープハイプを検索して“社会の窓”を聴いた。わたしのことを歌っているんじゃないかと思った。歌詞の中の「あたし」と違ってわたしは仕事をしていないし、年下の女でいたいわけでもないけど、そこにいるのは確かにわたしだった。ひとりで泣いた。すがりつくように何度も何度も再生をクリックして何度も何度も聴いた。音質も悪くて、その動画は曲の途中で切れちゃうから最後まで聴けなかったけど、それでもよかった。誰にも言えなかった感情が、ここでなら許される気がした。

次の日にレンタルショップへ行き『社会の窓』と、『踊り場から愛をこめて』を借りた。それだけですごくうれしかったがもっといろんな曲も聴きたかったから、本や雑誌を売りお金を作ってCDを買いに行った。そのときはどこも通う場所はなかったけれどこのひとたちの音楽のなかに居場所を見つけたような気になった。大事だと思った。音楽に対してこんな感情になるのはわたしにとって初めてのことだった。

尾崎が音楽を続けていてくれてよかった。そう思わずにいられないのは尾崎から出る話や今でも残っている古いブログなどから昔の様子が窺えるからである。そして歌詞からも覗けるときがある。

《逆転した夜の生活で彼女がくれる暮らしの/安定した日々の退屈を幸せと呼ぶのです/同点に追いついた時には彼女はもうそこに居なくて/安定した日々の退屈が幸せと気付いたよ》(“オレンジ”)
《いつかはきっと報われる/いつでもないいつかを待った/もういつでもいいから決めてよ/そうだよなだから「いつか」か》(“二十九、三十”)
《もう見ての通り立ってるだけでやっとで/思い通りにならないことばかりで/ぼやけた視界に微かに見えるのは/取って付けたみたいなやっと見つけた居場所》(“百八円の恋”)

尾崎の歌詞は弱い癖に無理して強がっているような吐き方ではない。弱くてどうしようもない人間がその中で感じたことを包み隠さずそのまま出している。普通そんなやり方をしていたら目もあてられないものになりそうなものだが、そこを尾崎はかっこつけることなく音楽として昇華させている。それが尾崎の才能であり、何を言われようと尾崎がクリープハイプであり続けられた証だろう。よく尾崎自身も語っているがクリープハイプとしての音楽生活は順風満帆ではなかった。何度もメンバーチェンジを重ね、最後には1人になってもクリープハイプを名乗り続けた。いつまでも報われず、誰にも見向きされなくても歌い続けて今がある。そのときの尾崎の気持ちなんて正直わからない。たかが想像でわかったふりもしたくない。
だが、どんな虚構の世界でも書くのがひとりの人間であれば、その人間の今までや有り様がどうしたってにじみ出る。尾崎の頭の中の想像と感情やいままでが混じりあい絶妙なフィクションとなって歌詞に溶け込んでいく。たくさんの表現方法がある中で、もしかしたら尾崎の歌詞は文字だけで映し出される世界では重く近寄りがたい印象に受け取られることがあるかもしれない。でもあのクリープハイプのポップなバンドメロディに乗せることでするんと心に落ちてくる。苦い薬をオブラートに包んで流し込むように、そして気づいたときには心にじんわり広がっている。それは歌詞の本来の意味が薄まるといった類ではなく、音楽を纏う最大の意味を発揮しているとわたしは思っている。

何事も出会うタイミングが大事だと最近よく気づかされる。それは、人間も仕事も、そして音楽も同じである。きっとクリープハイプを知ったのが、順風満帆で躓くことを知らずにいるわたしであったならここまでの存在にはなっていなかっただろう。あの何もないわたしだったからこそのクリープハイプだったのだ。そしてあの時期に出会えたからこそ今でも揺るがずわたしにとってのヒーローなのである。
尾崎が書く歌詞は決して進むことを押し付けては来ないし、爽やかに励ましたりきれいな言葉を並べて背中を押してくれるわけでもない。だけど、それが良いのだ。生々しく赤裸々に怒りも焦りも、本来なら隠してしまいたいようなマイナスの感情を吐き出している。男女の微妙な距離感に交わらない感情を、世間へのそして自分自身への面倒くささも弱さも痛みも反感も罪悪感も、日常では拒まれそうな事柄を代りに尾崎が歌いクリープハイプが音楽にしてくれる。自分との重なり方に痛みを伴うこともあるが、それ以上にこんな自分を認めてくれている。寄り添ってくれて逃げ場になってくれる。居場所はここだと待っていてくれるような気にすらなる。そして日常に戻りなんとか今日も生きてみたい自分になれるのだ。どんなことを歌ったって、突き放されることなくそう思えるのは尾崎の根底に優しさがあるからだ。尾崎の優しさはひねくれていて天邪鬼だ。だから少しわかりにくいが、嘘がない。いつだって正直だ。その回りくどくて面倒くさい優しさは誰一人置き去りにするようなことはしない。

これからもわたしは何度もクリープハイプに救ってもらうだろう。尾崎の歌詞に、歌う姿にたくさんの理由をもらうだろう。きっと、そう思う。

先にも書いたが音楽は生きていく中で絶対に必要なものではない。それはきっと変わらない。でもあの時のわたしがクリープハイプに出会っていなければどんなに息苦しく、生きづらかっただろうと思う。家族でも友人でも恋人でもどうしてもだめなときがある。遠くの赤の他人の音楽だからこそ助けてくれるときがきっとある。思いっきり寄りかかっても許してくれる気がする。一緒に弱さも痛みも引き受けてくれると無責任に思えるのだ。クリープハイプを知ったのが何もないわたしでよかった。それだけであのクソみたいなわたしも、あんな毎日も悪くなかったと思える。価値や意味を持たせてあげられる気がする。あのころのおかげでいま、立てている。大袈裟に聞こえるが本当にそんな気すらしてくるのだ。

また今日も朝から電車に乗っている。なんとか就けた仕事も、就けたら就けたで仕事場爆発しないかなぁと思いながら揺られている。これ昨日も思ったなとくだらないことを考えてはまたひとつ見慣れた景色と顔が流れていく。耳からはクリープハイプが流れている。ライブまであと2週間である。新譜も発表された。とりあえずその日までは生きられる。そんなことを考えながら少しだけ音量を上げた。きっと、今日もいろいろあると思うけどとりあえず向かおう。わたしはそうやって今日も立っている。

今日もクリープハイプは、そして尾崎世界観はわたしにとって特別なヒーローである。


この作品は、第2回音楽文 ONGAKU-BUN大賞で入賞した未有さん(24歳)による作品です。


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