西野カナを定義する ~キュウソネコカミを通して考える、彼女が「カリスマ」である理由~

 「2016年、第58回レコード大賞は......西野カナさんの、"あなたの好きなところ"に決定いたしました!」
年末、実家のテレビでこの瞬間を観ていたわたしは「当然でしょ」と思った。"あなたの好きなところ"自体も良いけれど、そもそもこの曲が収録されているアルバム『Just LOVE』が良すぎる。アルバム部門でも何かしらの賞を受賞すべきだったと思うくらいだから、プラスマイナスで考えれば大賞くらいがちょうどいいのでは? と一人で勝手に納得する。
"あなたの好きなところ"が大賞にふさわしいと思った理由はこうだ。恋人の好きなところを52個も書き連ねたこの曲は、彼女の爆発的な妄想力と、彼女が恋愛相手の外面・内面へたゆまなく視線を注いでいるということ――言ってしまえば、他人に知られたらちょっと恥ずかしい「癖」のようなもの――が堂々とポップソングとして歌い上げられているからである。つまり「カリスマ」と呼ばれる西野カナの脳内をそのまま聴き手自身の脳内スクリーンに反映する楽曲であり、かつ「女子高生のカリスマ」から「恋愛ソングのカリスマ」へと変貌を遂げつつある彼女の新たな名刺となるべき楽曲だからだ。メジャーデビューから10年がたとうとしている現在も依然として若い男女を惹きつけ、ポップシーンを牽引している彼女が、その特性を最大限に発揮した作品なのだから大賞受賞は当然である。

 だが、"あなたの好きなところ"を収録したアルバム『Just LOVE』はもっとすごい。わたしはこの作品をもって、彼女が「カリスマ」と呼ばれている真の意味を理解したような気さえしている。
本作の凄味は、"あなたの好きなところ"に垣間見られた彼女の「癖」が炸裂していることに加え、女性の意識の底に潜在的に存在する「禁断の箱」に閉じ込められた本音を引っぱり出し、それらを音楽という芸術に昇華しているところにある。たとえば"Thank you very much"という曲の中に、

《サヨナラ 今日からひとり/サヨナラ 晴れて自由の身/私がどこへ行こうと/何をしようと誰と居ようと/ドドシラソファミレド/Ah 素晴らしい/なんて気分がいい/思ってたより気楽でいい/Thank you very much》

という歌詞がある。よく女性は失恋から立ち直るのが早いと言われるが、この曲はまさに恋の終わりからケロッと立ち直る女の子の姿を描いている。なんとなくおわかりだと思うが、「別れてせいせいするわ!」という気持ちを、ありとあらゆるシーンを駆使して表現しているのだ。別れた男性が読んだら口をあんぐりとしてしまうような言葉がずらっと並ぶが、女であるわたしはこの歌詞に深く共感するし、女性の感情の仕組みというものを非常に上手く捉えているなと思う。最後にわざわざ《Thank you very much》と皮肉めいた感謝の言葉を言ってしまえるのも、女性の心だけに宿るひりついた逞しさの表れだ。リスナーにリアリティをもって聴いてもらえるなら、たとえぎょっとするような表現があっても歌唱してのけるのが「カリスマ」・西野カナなのだ。

 また、『Just LOVE』には様々な意味で注目を集めたある「話題曲」が収録されているのを忘れてはならない。「平成時代の"関白宣言"(さだまさしの名曲)」と呼ばれた、"トリセツ"である。
「ちょっとわがまますぎじゃないか?」、「西野カナの恋人に求める理想、高すぎないか?」......など、この曲にはポジティヴな感想のみならずネガティヴな意見も寄せられた。正直、わたしもこの曲の詞を初めて読んだ時は驚いた。驚きすぎて若干引いてしまった。よくもまぁ、恋人に対するわがままをここまでありありと歌詞にできたな......と思ってしまったのである。
しかし、実は"トリセツ"の歌詞は、西野が知り合いの男女向けに実施したアンケートを基に作成されている。そのアンケートとは、「あなたの取扱説明書を書いてください」というもの。さらに質問は細分化されていて、「落ち込んだ時、恋人にどのような対応をとってほしいですか?」などの問いがあるという。つまりあの歌詞には彼女自身の思いだけではなく、様々な男女の恋人に対する意見や本音が反映されているのだ。
 だが、"トリセツ"を聴いた人のいったい何割がそのことを知っているだろうか? おそらく大半の人はこの事実を知らず、西野ひとりの恋愛観がそのまま歌詞として反映されていると思い込んでいるだろう。「『カリスマ』と呼ばれた女性シンガーの、恋人に対する我欲が存分に詰め込まれた歌詞」という事柄だけが独り歩きをしているようにも正直思える。
 ではなぜ、彼女は曲作りの背景までに多くのリスナーが辿り着かないという事実が予想されながら、また彼女の価値観自体が批判の対象になると予想されながら、恋人への要求やわがままが詰め込まれた歌を、恐れも知らずにリリースしたのだろうか?

 この疑問に対する答えを思考の中で探していた時、ふと、あるロックバンドの影が頭をよぎった。
キュウソネコカミである。

《1つ言いたいのはドンキホーテは貴様らのたまり場ではないぞ》("DQNなりたい、40代で死にたい")
《メジャーに行って1、2年で消えるバンド多過ぎクソワロタ》("ビビった")
《若い頃にチヤホヤされた思い出に浸って生きる/いつまでも高飛車な態度でいれると思っているのかな?》("カワイイだけ")
《顔見知り程度 遠くに居たならわざわざ道変えて逃げる/割り込みされても 通路が邪魔でも黙ってやり過ごしている/美容師と全然会話弾まない 静かになるのも気まずい》("こみゅ力")

 地元にたむろするヤンキーに向けて、同業者であるバンドマンやミュージシャンに向けて、メジャーレーベルや事務所に向けて、男遊びが達者な女性に向けて、自分の行く手を阻む人へ向けて、自分担当の美容師に向けて、キュウソネコカミは言葉にできない思い、いや決して言葉にしてはならない思いを、衝動的なバンドサウンドに乗せてマシンガンのように連射している。その勢いはとどまることを知らず、まるで自分たち以外のすべての人物を敵に回してしまうかのような危うささえ覚える。一方で聴き手としては大いに頷ける発言や、「よくぞ言ってくれた!」と称賛を送りたくなる歌詞に毎度痛快な気分にさせられずにはいられない。
 ではなぜ、キュウソネコカミは多種多様な人物たちに鋭い言葉を投げ続けることができるのだろうか? 怖いもの知らずでいられる理由は、いったいどこにあるのだろうか?
その答えは、とある記事でフロントマン・ヤマサキセイヤが語っていた、以下の言葉の中に集約されている(要旨を以下に記載する)。

 「俺らもたまにヤバいこと言ってたりするけど、あくまでも歌だから許されることであって。現実世界で歌詞の言葉をそのまま言ってしまってはダメ」

 実はこの言葉こそ、西野カナが特異なソングライティングを実行する理由を解き明かす手がかりであり、ひいては彼女が胸を張って"トリセツ"をリリースすることができた理由へつながるヒントである。

 まずソングライティングの面から言うと、先に挙げた"あなたの好きなところ"で恋人の52個ものチャームポイントが挙げられていたり、"Thank you very much"で失恋後の吹っ切れた気持ちがある種の生々しさをもって描かれていたり、"トリセツ"で恋人への注文がまざまざと書き連ねられていたりするのは、日常の会話ではなかなか言いにくい気持ちが、言ってしまったら最後相手との関係を大きく変えてしまうかもしれない言葉が、心のこもった歌声とメロディを通せばすべてラブソングというポップアートに昇華されるということを、西野カナ本人が熟知しているからに他ならない。つまり彼女は、あらゆる言葉や思いを芸術に変える歌の力を強く信じているが故に、自分の内面を通して他の女性たちの心の声を聴き、そこから零れる嘘偽りのない言葉を素直に躊躇なく並べることができるのである。そんな曲たちを集約したアルバム『Just LOVE』が、過去作を凌駕するくらいの名盤になったのはもはや言うまでもないだろう。
 そして、リリース前からあらゆる意味で「話題作」となりかねないことがわかっていたであろう"トリセツ"を世に解き放つことができたのは、10代のうちから国を守るために戦い続けた15世紀の女傑・ジャンヌ・ダルク的な精神が彼女にあったからではないかと思う。
先にも述べたが、西野は"トリセツ"を作詞する際、彼女の知人たちの胸の内に秘めた本音をかき集める作業を行った。つまり、「声にならないはずだった声」を拾い上げていったのである。そしてそれらが誰にも聞かれることがないまま成仏してしまわぬよう、丹念に歌に仕立て上げ、スポットライトが当たる大衆の前で毅然と披露したのだ。たとえその歌詞の内容が物議を醸し出さざるを得ないようなものであったとしても、「声にならないはずだった声」をきちんと宛先人へ届けるために、そして「声にならないはずだった声」を聴いて、救われる気持ちになるかもしれないリスナーへ届けるために――彼女は迷うことなく歌い上げたのだろう。自身に求められている「共感」という言葉から逃げず、また人間心理の奥底にあるパンドラの箱に隠された本音・本性から目をそむけず、むしろ様々な作品でそれらにアプローチを仕掛けていく西野カナは、実は勇敢な代弁者だったのだ。
 西野カナの魅力をひもとくカギは、(西野は恋愛と連動する心の機微を曲作りのど真ん中に据えているが、キュウソは「そもそも恋愛なんてどーやったらできるの!?」という曲が多いという意味で)歌詞の内容では彼女と相対するキュウソネコカミの、自らの人生やそこに現れる不快な人物たちへの不満を爆発させて生き辛さを抱えるリスナーと共鳴する、ラジカルなロックミュージックを鳴らすバンドマンとしての倫理とスタンスに隠されていたのである。二者の音楽は、その構造と歌い鳴らされる意義において、非常によく似ていたのだ。

 画面の向こう側やステージ上で煌びやかな衣装に身を包み、高らかに歌声を響かせる西野カナ。一見すると雲の上の存在的な「カリスマ」感がある彼女だが、決してそんな近寄りがたい存在ではない。むしろ地面にしっかりと足をつけ、地球上で一喜一憂の日常を営む女の子たちの味方として常に傍にいてくれている。と言うよりそんな彼女だからこそ、恋人や友人を思うハートフルなぬくもりに溢れ、一方で女性心理の奥底に沈むパンドラの箱の中身のようなえぐ味も漂う――つまりはどこを切り取ってもリスナーの心情に寄り添ってくれる、珠玉の音楽作品を生み出すことができたのだ。彼女はそういう意味で「カリスマ」であり、彼女の音楽はそういう意味でポップソングなのである(正直、もし西野カナの歌がポップでないとしたら、もはやこの世のどこにもポップというものは存在しないと思う)。
 彼女の歌に宿る純情と健気さが放つ瑞々しい輝きは、きっと10年後、20年後の恋する女の子たちの心も照らしていくだろう。その音楽が未来の日本の中でどのような花を咲かせていくか、今からとても楽しみだ。
(キュウソネコカミの音楽も、また然り。)


この作品は、第3回音楽文 ONGAKU-BUN大賞で最優秀賞を受賞した東京都・かさはら えりさん(24歳)による作品です。


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