「意味至上主義」を打ち破れ――水曜日のカンパネラについて思うこと

僕はいま22歳なのだが、この年になると、同世代の活躍が目立つようになる。高校球児はとっくに年下になったし、箱根駅伝を走る選手たちも同い年か年下になってしまった。週刊プレイボーイを読んでいても、グラビアページに載っている女性のほとんどが同世代だ。スポーツや芸能の分野では若いうちから活躍できるとはいえ、自分が何者でもないことを思い知らされる。この前、高校時代のクラスメイトと会ったときには「保険入ってる?」とか「奨学金返さなきゃ」とか、そういう話題が出た。
そんなことを考える最近、よく口ずさんでいるのが、ユニコーンの名曲“すばらしい日々”だ。
《いつの間にか僕らも/若いつもりが年をとった/暗い話にばかり/やたら詳しくなったもんだ》
あのフレーズが、特別な「意味」を持って僕の胸に迫ってくるのだ。
そんなふうに歌詞が「意味」を持つ瞬間に出会えるのは、きっと素敵なことだ。そこに書かれた内容以上のものをくみ取るとき、聴き手は共感し、喜び、悲しみ、癒される。すぐれたポップミュージックが人に与えることのできる力だ。“すばらしい日々”に限らず、多くの曲が、百人いれば百通りの「意味」を手に入れられることを求めて作られている。自分になくてはならない曲だと思えることが、聴き手にとって、また歌い手にとっても大切なことなのだ。
しかし、よく考えてみてほしい。「意味」に特化した音楽だけが存在するのは、果たして幸福なことなのだろうか。僕たちは何も、音楽を薬のように扱って、効果や効能ばかりを求めているわけではない。社会を見渡してみても、あらゆるムダが省かれ、「意味」のないものは悪とされている。この曲を聴いて何の「意味」がもたらされるのか、この曲が伝えたい「意味」は何なのか、そういうことばかり考えている。ゆらゆら帝国坂本慎太郎は、“空洞です”という曲で《意味を求めて無意味なものがない》と歌ったが、まさにそのとおりだ。かけがえのない「意味」をみんなが手に入れようと躍起になっていて、本当の「無意味」が、音楽シーンに存在しづらくなっている。
そんな「意味至上主義」の音楽シーンで、ひときわ異彩な輝きを放っているのが、水曜日のカンパネラだ。2015年に発表されたアルバム『ジパング』は、まさに「意味」ばかりが重視される現状を打破するような一枚だった。
まずはYouTubeで、『ジパング』に収録されている“シャクシャイン”を聴いてみてほしい。北海道の地名、特産品、名所などが、シンプルなトラックにのって、ひたすら小気味よく連発される。ここに歌詞を書き出すのも恥ずかしくなるくらい、「意味」のない言葉の羅列だ。《いくぜ試される大地北海道》を合図に、ぐっとジェントルにまとめた間奏へ入る流れを初めて聴いたときは、思わず笑ってしまった。続く二曲目“猪八戒”では、西遊記の猪八戒をMCグループのメンバーに見立てて、《しかも『adidasじゃなくてKappaです』》といったどうでもいい情報まで盛り込んでいる。“小野妹子”では、遣隋使の小野妹子に出会った隋の相手の衝撃を歌にしているし、“マッチ売りの少女”では《ギンギラギラギラギラギラギラ さりげなく/マッチをちょうだい》と、あのマッチを思わせる歌詞をセクシーに歌いあげている。
『ジパング』にあるのは、壮大な「無意味」だ。ひとつひとつの言葉に明確な主張があるわけではない。共感なんてはなから求めていない。ただ音楽が、言葉がある。それを受け取る側は、はじめは戸惑うかもしれないが、聴いているうちに次第に慣れていくだろう。「意味」を手に入れるための闘争に駆りだされなくていいから、心地よいのだ。
ひとつ断っておくが、音楽に「意味」を求めるのは悪いことではない。特にティーンエイジャーにとっては音楽の持つ「救い」や「共感」も必要だろう。しかし大人になってしまえば、そればかりでは退屈してしまうというのが僕の言い分だ。何か大切なものを探しながら聴くことに疲れた僕たちの耳に、水曜日のカンパネラの音楽は新鮮に響く。それを肯定できるかどうかが、水曜日のカンパネラの音楽を楽しめるかどうかの分かれ目だ。
実は、主演/歌唱を担当するコムアイは僕のひとつ年上の23歳だ。なんとなく生きていけるが、別に幸せでもなければ、つらくもない。はっきりとした貧しさはないが、先が見えない状況は変わらない。目標はない。夢も希望もない。いろんなことを笑ってごまかすのにも疲れてしまい、あと5、60年ほど続く人生をどう過ごしていいのかもわからない。そういう年頃であり、世代なのだ。だから水曜日のカンパネラの音楽は、ある意味では悲しい。「意味」が求められているが、「そんなものない」と開き直って「無意味」を武器にしていることに対するどうしようもない悲しみがある。「世代の代弁者」なんて言葉をあてがうのもためらってしまう。無垢さや陽気さを原動力にしているわけではないのだ。
こんなふうに分析をして、水曜日のカンパネラのあり方にも「意味」を作り出してしまうことから逃れられないでいるのが、僕たち聴き手の置かれている状況だ。「『意味』という病」と言ってもいいかもしれない。「意味」のあふれかえる音楽シーンにおいて「無意味」に踊ることを、受け入れるかどうか。「意味」をめぐる闘いや「救い」や「共感」を捨て、悲しみと心中することができるかどうか。選択肢は僕たちにある。さあ、どうするんだ。

(了)


この作品は、第1回音楽文 ONGAKU-BUN大賞で入賞した馬場広大さん(22歳)による作品です。


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