米津玄師が現代に蘇らせた日本語に眠る「5文字」というメロディ - 米津玄師「STRAY SHEEP」に見る日本語ポップスの未来

 米津玄師によるフルアルバム「STRAY SHEEP」は、その名を日本中、いや世界中に轟かすこととなった2018・2019年を経て、ヒット作を多く含んだオムニバス的な作品。かと思いきや、サブスクリプションサービス全盛のこの時代に投下された、フルコースとしての贅沢さを持ち、塊としての強いメッセージを持った意欲作だった。
 
 一聴するだけでは分からないほどに重ねられた音の数々と、過去作から変わらない米津玄師らしさの詰まった言葉が用いられた、もはや歌手・シンガーソングライターという枠を超えた、現代日本のポップミュージックを定義し直した作品であり、さらに言えばポップミュージックと日本語の関係を先に進めたものとも言える。そのようなセンセーショナルな側面を支える今作の大きなキーは「5文字」にある。

 今作には5文字の言葉、メロディが至る所に登場する。たとえば「Flamingo」の序盤では、

《宵闇に 爪弾き 悲しみに雨曝し 花曇り 枯れた街 にべもなし
 佗しげに鼻垂らし へらへらり》
 
のように、すべてが5文字で構成されている。「Flamingo」はメロディの節々に隠された日本的音階や曲中盤の七五調、祭りを思わせる環境音まで含めた、日本的な原風景を覗くことができるという音楽的な構造によって日本を感じられる楽曲として捉えることもできる。しかしながら、この「日本っぽさ」にもっとも大きく影響しているのは歌詞に使われた5文字の言葉の集合体にある。

 聴き進めるほどに、「日本語とはここまで5文字で構成されていたのか」ということに驚く。日本語と5文字との相性、5音のリズムに込められた情景のイメージへのアクセスの良さに自然と心が動かされていくのを感じた。

 日本語には、俳句や短歌といった伝統的な「うた」という存在がある。俳句は五・七・五、短歌は五・七・五・七・七で構成され、その言葉選びやリズムを楽しみ、情景や心情、愛、時には恨みを伝えるものだ。特に始めの5文字、そして俳句であれば結びの5文字、短歌であれば七・七の結びに向けた展開である5文字の部分には、言葉としての強さとともにリズムも求められ、それが相乗効果を発揮して、詠み手が感じた景色や心の動きを読者に伝えてきた。これはまさにポップミュージック的な「共感」をベースにした表現のひとつであり、このルーツを米津玄師は現代に蘇らせることに成功した。

 今作のみならず、米津玄師の作品で多用される5文字には俳句・短歌的な側面がある。5文字の音節による起承転結を効果的に使いこなし、展開をドラマチックに彩っていく様はまさに俳句の連句を思い起こさせる。曲の始まりは多くの作品で5文字の言葉が選ばれ、心象風景をイメージさせるものや、シンプルながら率直な心情を語ることで楽曲の世界を端的に伝え、かつ聴き手をその世界に誘う効果を発揮している。

 また、5文字での展開を基本とすることで、5文字でない言葉、5音を飛び出したリズムがよりドラマチックに楽曲という舞台を彩る効果を持っている。俳句や短歌でいう「字余り」や「字足らず」が歌人における洒落やウィットのひとつとして連綿と受け継がれてきたように、5文字・5音のなかにそっと置かれた、それ以外のリズムや響きを持つ言葉に、感情や想いの重心が感じられる。

 「Lemon」のサビでは

《胸に残り離れない
 苦いレモンの匂い》

と歌われる。「胸に残り」の6文字を他の5文字のリズムから逸脱させながら、「離れない」の5文字で心に直接訴えかけながら展開を作り、「苦いレモンの匂い」で3音の連続を印象付けている。「Lemon」が甘酸っぱい思い出などではなく、どうにか忘れようとしても、頭と心にこびりついて離れない「あなた」に結びついてしまう苦い、苦しいレモンの香りとして描かれている。まるで言葉のパズルを五線譜に乗せて楽しんでいるかのように、5文字の言葉とそれ以外の言葉や伝えたいこととのバランスを絶妙に維持したまま進行していく作詞能力には舌を巻くほかない。

 RADWIMPSの野田洋次郎との共作となった「PLACEBO + 野田洋次郎」はイントロから90年代ポップスを彷彿とさせるシンセリフが響き、言葉を細かく割ったメロディが続いていくが、ここにもやはり5文字、5音が溢れる。

《走り出したハートを攫って
繋いでいけビートの端くれ
薫る胸に火を灯せ
踊り明かそう朝まで》

「走り出した」や「繋いでいけ」のように小節をまたいだメロディに、5文字から字余り気味に6文字を乗せることでスピード感を増して展開しながらも、5文字がしっかりと5音に乗った「火を灯せ」が際立つ。さらに

《触れていたい
揺れていたい
君じゃないといけない
この惑い》

と続く。歌詞表記では「触れていたい」「揺れていたい」となっているが実際のメロディでは「触れてたい」「揺れてたい」と5文字を連続させており、「君じゃないといけない」という部分も「君じゃない」「といけない」という5文字を5音に対応させて畳み掛けるような印象を与えている。そして結びの言葉として「この惑い」と5文字・5音でシンプルかつ痛切に訴えることで、いつのまにか落ちていってしまう恋、勝手に騒ぎ出してしまう心を見つめながらも、止められない自分自身を客観的に歌い切っているサビにつなげている。

 「優しい人」では、日本語的な5文字の集合体を超えて、より短歌的なリズムが使われていると考えることもできる。

《気の毒に生まれて
汚されるあの子を
あなたは「綺麗だ」と言った》

という冒頭の一節は、リズムで分解していくと31音でできている。これは五・七・五・七・七の合計と一致する、いわゆる「三十一文字(みそひともじ)」である。この場合、文節や単語を無視してリズムだけで捉えており、他の曲に比べれば親和性は低いように感じるかもしれないが、歌い出しからゆるやかに滑り落ちるようなメロディが「(る)あの子を」の5文字までを修飾するのが五・七・五であるとすれば、現れた「あなた」のシーンを七・七に落とし込むことで、視点が「あの子」から「あなた」に移っていくことを表している。語り部たる自分自身とともに「あの子」を見つめる「あなた」との関係性を示し、「あの子」にもなれず、「あなた」みたいにもなれない、優しくも正しくもない、自分自身にしかなれないと独白する曲の世界への入り口としてこの一節が激しく心を揺さぶっている。


 ここまで、「日本っぽい」「日本的」など、ドメスティックな視点から曲を分析しているように見えるかもしれないが、今作を味わうためには聴き手が日本語話者であるということが前提であるというメッセージでは決してない。むしろ、そうではないという点こそが今作における大きなポイントである。

 日本語は欧米系の言語と異なり、一語一語が比較的はっきりと分離しており、リエゾン(単語間をつなげて発音すること)がほとんど見られない。そのため言葉をメロディに乗せたときに「ぶつ切り感」が生じてしまうことがしばしばある。多くのミュージシャンがメロディとの親和性を意識しながら試行錯誤して言葉をはめ込んでいくなかで、米津玄師の楽曲を聴いていると、日本語における音楽的な、リズムとしての最小単位とは5文字ではないかと感じてならない。最小単位に想いを落とし込み、無理のないリズム、メロディにぴたりとはまる5文字の言葉を使う。この点が日本語話者でなくとも米津玄師の楽曲を受け入れられる理由のひとつだ。音階に、リズムにもっとも合致する5文字の日本語をはめ込むことで、メロディと日本語とをストレスなく結びつけていることにより、全世界的なポップスとして、日本語を用いたポップミュージックとして、聴き手にまっすぐ音楽を届けられている。


 日本語ポップスが世界に羽ばたく際にぶち当たっていた言語という壁を、英語を用いて突破するのではなく、古来から日本語の中に眠っていた5文字というリズム、響き、メロディを再発見することによって大きく飛び越えた今作。世界をまたひとつ先に進めることに成功したマスターピースのひとつであると言えるだろう。そして、日本語のなかで生きる者として、新しくなったこの世界を、これから米津玄師がどのような言葉でどのように描いていくかが楽しみでならない。

(《》内は作中より歌詞引用)


この作品は、「音楽文」の2020年9月・月間賞で最優秀賞を受賞した東京都・Kabaddiさん(31歳)による作品です。


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